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六段の調べ 序 二段 六、君がため

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 北が川に身を投げた事件は、早速多くの報道で取り上げられていた。翌朝、登校する地下鉄で信が見ていたスマートフォンのニュースアプリを、清隆は横からそっと覗き込んだ。
「やっぱり、清隆も気になるよね」
 信が笑って、事件を伝える画面を見せる。橋から落下した北は、水面に叩き付けられた衝撃で気絶し、救助された後に意識を取り戻した。回復状況は良く、退院は早めになる見通しだ。しかしコンサートは開催されるのかなど、音楽業界やファンの間では懸念が広がっている。
「北さん、なんか嫌なことでもあったのかな?」
 スマートフォンを鞄に仕舞い、窓の外を眺めながら信は零す。昨日北とやり取りがあったと言うべきか迷い、清隆も窓へ目を向ける。地下鉄の何も見えない風景を映すガラスは、感情のない自分の顔を反射する。
「コンサートが不安だったとか、ピアノの腕に自信なかったとか……『芽生書』がどうなったか気になったとか?」
 清隆は吊り革を掴み、しばらく口を噤む。北のファンである彼を、このまま不安の中へ置き去りにして良いのか。そこで彼も、『芽生書』に少しだけ関わっていたと気付く。あの巻物がどうなったかも伝えなければならないだろうか。清隆は周りの乗客に聞こえないよう、声を低めて話す。
「あまり大声で驚かないでくれ。……あの後、シャシャテンが送った『芽生書』は何者かに盗まれた」
「なんだって!?」
 信を静かにするよう制してから、今度は昨日の出来事を語る。北と会話を交わし、彼の自殺未遂を止められなかったことも。初めは驚いて聞いていた信が、次第に硬い表情になっていった。話が終わると、彼はしばらく何も言わず、ぼんやりと吊り革を手に佇んでいた。
「……申し訳ない、清隆。おれがいてやれなくて」
 乗り換えの間言われた言葉に、清隆は怪訝に相手を見た。降りたホームから歩いていく信の顔には、どこかやるせなさがある。もし自分もいたら二人で北を止められたかもしれないと呟く信を、清隆は押し留める。今さらその場にいなかった彼が責任を負うべき問題でもないのに。
「でもさ、おれも清隆と同じ、北さんと『芽生書』両方に関わったんだよ? それなのに清隆だけ悩んでるなんて、不公平だよ」
「それで良い。お前まで気にすることじゃない」
 これは、自分が向き合うべき問題だ。信まで抱え込んでしまってはいけない。それを聞きあぐねず、悪くもないのに何度も謝る男を簡単には止められなかった。

  放課後、生徒たちが楽器の音出しをしている部室に足を踏み入れると、否応もなく北との会話が清隆に蘇った。彼に結局打ち明けられなかった過去と、そこから生まれた思考回路、そして心からの思いを突き返した一言が繋がって巡る。彼と同じく、自分も人の心を決め付けていたのではないか。
 戸棚に荷物を入れ、椅子の並んだ先にあるホワイトボードを見る。欠席者や早退者の氏名を書く欄に、清隆と同じパートに属する生徒の名がいくつもある。基礎合奏中はまだサックスの生徒が何人かいたが、彼らも早々に帰ってしまった。やがて夜が近くなると、パート練習用に割り当てられた教室には清隆と八重崎しかいなくなった。文化祭でやる曲の楽譜を見ながら、それより前に行われるコンクールに参加するはずの仲間を思う。本来なら彼らの方がより練習に熱心であるべきなのに、部活にいないのが腹立たしい。「……あいつらは、真面目にコンクールに出る気があるのか」
 清隆が思わず心の声を口にすると、教室に響いていたバリトンサックスの音がやんだ。それから吹き出す音がし、清隆はすかさずパートで唯一「真面目」な八重崎を見る。
「清隆くんが怒るのなんて、初めて見たかも」
 俯いて笑いを漏らす八重崎も、北のファンだった。彼女は昨日の一報をどのように受け取ったのか。
「そういえば清隆くん、今日はなんか元気じゃない気がして心配だったんだけどさ、どうかした? 北さんのこととか?」
 八重崎に気遣わせる自分を疎ましく思い、北の話題に口ごもる。彼女も速報が入ってきた時は心配したものの、一命を取り留めたと聞いて安心したようだ。気持ちを切り替えるべく前向きな様子の八重崎だったが、清隆が乗り気でないのを見ると話をやめようとした。せっかくの話題を止めたくないと思うあまり、清隆は言うつもりのない話をしていた。
「……昨日、北の入水現場を見た」
「え、清隆くんが?」
 目を見開く八重崎の視線を受け、なぜ北と会っていたか言おうとして黙る。『芽生書』や瑞香について話すなど出来ない。
 シャシャテンに止められていたのはもちろんだが、それ以上に北のことがあった。彼は瑞香に関わったが故に、直接は関係ない物事にまで悩み、死を思い立った。もし八重崎が同じく瑞香に首を突っ込んだ中で傷付いたとしたら。部活では大事な「先輩」である彼女を、そのような目に遭わせるわけにはいかない。
 加えて、自分の細かい変化にも目ざとい彼女だ。自分が瑞香の件で悩んでいる様をあからさまに見せれば、今日の信らしく心配するかもしれない。あまり彼女には負担を掛けたくない。そう思って、瑞香を伏せながら北との間にあった出来事を話す。
「たまたま北が橋の辺りにいるのを見て……悪い予感はしていたんだが、止められなかった」
 誤魔化していると、どうしても罪悪感が先立つ。正直な話を望んでいた北の言葉も相まって、嘘を伝えて良かったのか悔やむ。一方で八重崎は、清隆の話を本当と受け止めたようだ。
「カウンセラーじゃないわたしが言うのもなんだけど……何かあったらいつでも話してね。できる限り力を貸すから」
 清隆はすぐに応じられなかった。わざわざ八重崎に、自分のせいで気を煩わせたくない。世話好きの彼女とはいえ、なるべく頼るのは最小限にしようと決めた。
 ここでふと、八重崎は他の生徒たちへも面倒を見ているのか考える。中学生の後輩に対してはともかく、同学年にはさほどその様子を見せていない。むしろあまり生徒たちと関わっていない気がする。清隆は仮入部で「後輩」のように接していたから、単に「先輩」の振る舞いを強めているだけなのか、それとも別に意図があるのか。思案を打ち払い、清隆は練習に戻ろうと楽器を構えた。
 やがてミーティングの時間が迫り、片付けて廊下に出る八重崎の後を慌てて追う。まだ話し足りないように思えたが、彼女はさっさと楽器庫へ行ってしまう。周りの生徒を避け、逃げるような足取りが、こちらを不安にさせる。そして彼女は自分に対し何を考えているのか悩みかけ、清隆は首を振って足を進めた。

  帰りの電車内でスマートフォンの電源を入れ、画面に飛び込んできたニュースアプリの通知に清隆は虚を突かれた。北が七月末に行われるコンサートを、予定通り開催すると決定したらしい。かねてからのファンが喜ぶ姿を浮かべつつ、あの演奏が広いホールで響くのかと清隆は思いを馳せる。間近での鑑賞も貴重な経験だったが、音響の良い会場ではまた違って聞こえるだろう。一体どのような音色を奏でてくれるのか。
 清隆は鞄から手帳を取り出し、背表紙を先に開いていったページの中に北のサインを見つけて手を止める。他の三人が貰ったそれより小さいが、今となっては信の言う通りにして良かった。気を取り直して七月のページを開け、開催予定の日付に清隆はコンサートのことを忘れないよう書き加えた。

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