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六段の調べ 序 二段 五、投身

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『芽生書』が盗まれたと聞いたところで、自分にはどうしようもない。週末の午後、清隆はやむにやまれぬ思いを抱えながら、隣町へ買い物に出向いていた。品の入った袋を片手に駅の横に建つ商業施設を出て、電車の走る高架下を歩く。様々な路線と繋がりのある駅を有するからか、この辺りは人が多い。そんな中に、清隆は少し先を行く背の高い影を認めた。あまり手入れのされていない黒髪が肩下まで伸び、やや猫背気味で足を進めている。後ろからそっと近寄り、清隆は相手が誰か確信して呼び掛けた。
「北さん」
 頭上を行く電車の走行音が、清隆の言葉を掻き消す。声を大きくして再び呼ぶと、北は驚いた顔で振り返った。
「こんなところで会うなんて奇遇だね、清隆くん」
 手には何も持っておらず、服装も外出にはあまり似付かわしくない、皺の残った白いシャツとズボンだった。何をしにここまで来たのか疑問に思っていると、早速あまり話題にしたくないことを聞かれた。
「この前シャシャテンさんに渡した……『芽生書』だっけ。あれがどうなったか、聞いてるかな?」
「あれは瑞香に送って――」
 北の隣で、清隆の口は閉ざされる。彼を思うと続きを言うべきではないのに、それが心苦しい。そもそも盗まれたなる話が嘘かもしれない。しかし胸に湧く落ち着かない気持ちは、悪い事態を想定しようと動かしていく。
 黙り込んでいるのが気になったのか、北が話しだした。
「清隆くん、ぼくはきみから正直なことを聞きたいね。責めたりはしないから」
 彼に隠し事を見透かされた気がして、清隆はちらりと北を見る。目が髪に隠れて表情が分からない分、何を考えているのか恐ろしい。言っても言わなくても彼は傷付くかもしれない。それならどちらが良いのか。本音は言葉と心のどちらにあるのか。自分だったら――知りたくて尋ねた疑問には、答えてもらいたいものだ。
 言葉が彼の本心であってほしいと願いつつ、清隆は思い切ってシャシャテンの話を明かす。相変わらず表情の変化は見えにくい。しかし急に足を速めた様子から、心の機微は察せられた。清隆が話し終えると、彼はさらに前へ進んでいき、ついには人の群れに消えてしまった。
 走って姿を探した清隆は、高架下を抜けた近くにある橋で佇む北を見つけた。欄干に両肘から先を載せ、緑色に濁る都会の川を眺めている。彼のもとへ駆け寄り、清隆は『芽生書』については瑞香に任せてほしいと訴える。国の重要な宝である以上、探索にも力を入れるはずだ。
「……清隆くんは、自分が少しでも関わったものが大変なことになってると聞いて、平気?」
 北に言われて、咄嗟に首を振った。本当は『芽生書』がどこにあるのか、本当に盗まれたのか知りたい。しかし日本にいる自分にそれは難しい。歯痒さは強いが、それは致し方ない。
「ぼくは、あれが本物かどうか見極めようとするきみの食いつきぶりが好きだったんだけどね」
 初夏とは思えない冷たい風が、音を立てて吹き抜ける。清隆が口を噤んでいると、北はそのまま話し続けた。
「ぼくが悪いんだ。ぼくが預かっていたから、あれは盗まれてしまったんだ」
 別の人が持っていれば、『芽生書』は別の運命を辿っていたかもしれない。行方知れずという悪い結果にはならなかったかもしれない。シャシャテンも四辻姫も、瑞香の者も悪くない。ただ責任は己自身にのみあるのだと、彼は告げる。
「そんなの、北さんとは関係ないじゃないですか」
 何にでも自分と結び付けようとする北へ、清隆は告げる。シャシャテンが母と共に捕らえられたのは、北へ『芽生書』が託された直後だった。もう少し遅れていたら、『芽生書』は大友の手に渡り、神器を持つ彼が正統な王と認められていただろう。王の非正統性を突こうとしていた四辻姫には、それが痛手になりかねない。大友がどのような治世をしているか知らないが、元女王の生まれた家にとって、彼に王権を奪われたのは一大事なのだろう。
 北に考えを改めてもらおうと話すうちに、清隆はいつの間にか自分がシャシャテン、そして瑞香を強く案じていると気が付いた。自身には直接関係のない、存在さえも疑っていた国なのに、そこへ向けた思いは留まることを知らない。いつからそうなったのだろう。シャシャテンに話を聞きながら、瑞香を知りたいと思いながらここまで来てしまったのか。
「北さんが会ったシャシャテンの母親は――瑞香へ連れて行かれた後、娘と引き離されて拷問で死亡したそうです」
 北が『芽生書』を受け取っていなければ、姉を助けようとしていた五色姫は無念のまま亡くなったであろう。清隆は知らず知らず拳を握り、普段より声を荒めに出していた。
「何も責めることはないんです。むしろ自分のおかげで、少しは救われる人がいたと思った方が――」
「きみはよく、そんなに知らないはずの瑞香についていろいろ考えられるね。シャシャテンさんの話でしか聞いてないだろうに」
 北にしては低い声に、励ましの言葉を遮られる。川の流れる音が、橋の上でも妙に強く聞こえる。
「シャシャテンさんが必ずしも、いい人とは限らないのにね」
 それを聞いて、北の言う通りだと改めて思った。まだ瑞香に行ってもいないのに、たった一人から耳にした話でほとんどを知った気になっている。その情報が正しいかも、教えた人物が裏で何を考えているかも、警戒していたようで実際には黙って表面だけを受け入れていた。
 シャシャテン自体にも、初めは傷が瞬時に治る体質を疑い、居候にすることを戸惑っていた。それをなぜ受け入れたのだったか。清隆はすぐに思い出す。聞いただけの瑞香を、自分の中で確実にしたかった。そのためにすぐ頼れる存在は、彼女しかいない。
「俺はシャシャテンを信じるしかなかったんです。……いや、信じたかったんです」
 細い腕を組んだまま、北は欄干に体重を掛けている。危なっかしい体勢なのに、その姿は悠々としていて迷いがない。
「無理しなくていいのにね。清隆くん、本当は人が怖いんじゃないかなって思ってたんだけどね」
 表情を変えず、清隆は北へ歩み寄る。彼がこれからしようとしている行動が想像できてしまい、それを止めようと声を絞り出す。
「今度コンサートがあるみたいですけど、こんな所にいて良いんですか。楽しみにしている人だっているんですよ」
「それはどうだろうね。ぼくを好きだって言ってくれている人も、ほめているようで違うことを考えているかもしれないね」
 清隆の周りで、北のファンだと公言していた人たちの姿が浮かぶ。思いが北には曲がって受け取られていると聞いた時、彼らは一体何を思うだろうか。
「……褒め言葉を素直に受け取れないのは、俺も同じです。人の話なんて、簡単には信じられない」
 北のすぐ隣で、清隆も欄干にもたれ掛かった。両親にさえ言っていなかったことを明かそうか。清隆は口を開こうとしてすぐやめた。ただ顧みるだけにする。
 男子の少ない吹奏楽部や箏の選択授業に入っていたことで、中学校のクラスでは変わった目で見られていた。いじめと呼べるかは分からないが、からかわれたり陰口を言われている気配を感じたりした。
 中学二年生のある日、校内で行われた吹奏楽の演奏会で初めてソロを吹いた。その後に観客の見送りを部員全員で行っていた最中に、いつもからかってきた同級生が普段と変わらぬ笑みを向け、ソロを褒めて帰っていった。やたら大げさに拍手までして。
 いつもの馬鹿にしてきたような態度は何だったのか、清隆は腹が立って仕方がなかった。口では良いことを言いつつ、内心ではどうだか分からない。そんな人間が恐ろしかった。
「詳しいことは言えませんが――俺だって、北さんの気持ちは分かります。独特に聞こえる演奏も、北さんならではの思いがあんな音を生み出しているんでしょう」
 相変わらず、北の表情は把握できない。自分の言葉に何を思っているかを、態度でも表そうとしない。それでも清隆は聞いてもらおうと、彼の肩に手を載せる。
「正直に言います。俺は最初、北さんの弾く曲が苦手でした。暗くて、こっちの気分が沈みそうで――。でも少し前、嫌なことがあった時に聴いたら、その演奏を受け入れられていました。今なら言えます。俺は北さんの弾くピアノが好きです。これからも聴いていたいです」
 北がゆっくりと首をこちらへ巡らせた。黒目がちの瞳が清隆を捉え、唇が動く。
「嘘を言わないでほしいね」
 空気に溶け込みそうな声にもかかわらず、それは清隆の胸を刺し貫いた。北の肩に触れていた手から温度が抜けていき、背を滑り落ちていく。呼吸も忘れたまま、清隆は目の前の男を見つめ返していた。
「その場しのぎで感情をつくろって、見かけ倒しの正義を言って、ぼくをいい気にさせようとしてるんだね?」
 もう声も出せなかった。思考は働かず、ただ北の声を耳へ入れるだけになる。
「昔、母親が言っていたことなんだけどね。飛び降り自殺をするときは、荷物を先に投げて飛びこんだほうがいいんだってね。そうすると荷物を取るときの事故だと思われて、保険がどうとか……あれ、線路でやるときの話だっけ。まぁ死ぬときくらい、どっちでもいいよね」
 北はそう言い残した直後、姿を消した。清隆がはっとして橋の下を見ると、白い姿は暗い緑の濁流に呑み込まれていた。橋の周りで悲鳴が上がり、次々と歩行者が欄干に駆け寄っていく。先ほどまでこちらに興味もなかった人たちが、一瞬で反応を変える。
 北の言葉が、頭に響いて離れない。本心を呆気なく突き返されてしまった。急に、かつて自分を褒めてきた相手が浮かぶ。あれは心から告げていた言葉だったのか、だとしたら自分はそれを無視してきたのだろうか。
 拳を握り締め、清隆は歯を食い縛る。髪に冷たいものが当たって見上げると、灰色の空から雨が降っていた。傘もないのにこの場にいれば、風邪をひくに違いない。しかし清隆は動かず、長い間雨を受け続けていた。

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