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六段の調べ 序 二段 四、人知れぬ涙

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 オーディションへの練習を本格化させたのは良かったが、それでも清隆から不安は抜けなかった。そもそもコンクールに出るためのオーディション自体が清隆にとって初めての経験であり、どのように行われるのかさえ分からない。
 加えて、忘れようとしていた瑞香に関する懸念も、昨日になって新たに浮かび上がった。『芽生書』を送ってから四辻姫の連絡が一度も来ないと、シャシャテンが焦りを募らせていた。
「もう何日経っておるのじゃ! 私が待たせてしまったのも悪いが、せめて届いたかの一報も受けたい所よ!」
 彼女の気持ちも移ってしまったのだろうか。オーディション本番中も胸騒ぎが収まらず、コンクールと瑞香の件とで不安が入り混じっていた。自分でも分かるほど失敗が目立ち、これは落選だと清隆は決め付けた。しばらくして部室の隣にある美術室のホワイトボードに結果が書かれていると案内されたが、清隆は中学生の教室を利用した控室に留まったまま動かなかった。
 机に置いた楽器を前に、顔を隠すようにして伏せる。夕方の迫った教室には誰もおらず、思い切って感情を出しても良いだろう。しかしその気にはなり切れず、清隆は強く目を閉じた。
 しばらくは聞きたくない旋律が、頭の中に流れ続けている。初めて吹いたのが八重崎やパートの人と合わせた時だったと急に蘇り、唇を引き結ぶ。コンクールに出ない自分は、あれを練習できない。印象深かった曲をもう吹きも出来ないと、清隆は再び机に顔を押し付けた。
 どのくらいそうしていたか。廊下から足音を聞き、清隆は慌てて身を起こした。
「平井くん、まだいたの? もうすぐミーティングだよ」
 手ぶらの八重崎が、足を速めて入ってくる。片付けを促されて清隆は立ち上がったが、すぐに歩けなかった。
「……コンクール、残念だったね。でもあの曲、文化祭でも演奏するから」
 思いがけなかった事実に、清隆は顔を上げる。毎年九月末の文化祭では、部員全員でコンクール曲を演奏するのが恒例らしい。まだ吹ける機会があると気付くなり、清隆は知らず知らず胸を撫で下ろしていた。
「平井くんって、中学ではコンクールに出てたんだっけ?」
「ここより人が多くなかったからな」
 少人数で済む都大会のみ出場する部門への参加でも、いくらか余裕のある学校だった。今まで出場を重ねてきただけに、今回の結果は思わぬ傷となった。
「この調子じゃ、来年も出られなくなるんじゃないか」
 机に片手を突き、清隆はうなだれる。オーディション前より強くなった不安を覚えていると、突然八重崎の笑い声が聞こえてきた。彼女を怪訝な顔で見るうちに、意外な言葉が返ってくる。
「ごめんね。前に雑誌のインタビューで見た北さんみたいだったから」
 八重崎もまた、北のファンだという。彼女は友人に誘われたコンサートに感動して、中学校から楽器を始めたそうだ。
 先日会った北の姿を思い浮かべ、あれほど悲観的・自虐的な人物と重ねられることに若干の不満が募る。しかし同時に、ある意味では八重崎の指摘も正しいように清隆は思えた。人の言葉を素直に受け取れない態度は、自分にも似ている部分がある。
 気晴らしにどうかと、八重崎がスマートフォンにイヤホンを取り付ける。遠慮する間もなく両耳に装着されて聞こえたのは、北の演奏するピアノソナタだった。彼が最も好きな曲で、コンサートでは定番とのことだ。緩慢に馴染みのある旋律が始まり、優しく穏やかなそれと気持ちを抑えたような伴奏が、抱え込んでいた悲しみを引き出そうとしてくる。音色は寂しげなのにうっすらと晴れやかに曲調が変わり、また落ち着いた主題に戻る。再び場面が移ると、今度は絶えない和音の連打が、次第に激しさを増していった。そうして現れた主題には、最初より勢いがあった。それも終盤は平穏になり、気が付けば動画内から拍手の音が湧き上がっていた。
 イヤホンを外し、清隆は短い曲ながら感情が何度も移り変わる演奏に呆然としていた。前に聴いた北の演奏より、暗さはさほど感じられなかった。たまたま動画内でそのような弾き方になっただけかもしれない。だがちょうど今の自分に寄り添うような音色に、不思議と心が軽くなる。北の音楽が好きな人も、このような気持ちを抱いているのだろうか。
「……北道雄っていうのは、すごいんだな」
 ぽつりと、清隆は呟いていた。イヤホンを片付ける八重崎が、北の演奏を聴くのは初めてか尋ねてくる。思い切って、周囲と違って自分だけが、少し前まで北を知らなかったと打ち明ける。
「別に恥ずかしがることじゃないよ。テレビにもあまり出ない人だし、よほどの音楽好きじゃないと知らないんじゃないかな」
 今まで自分以外の人間が尽く北を知っていた分、その言葉がいくらか疑わしくなる。しかし考えてみれば、清隆の周りにいるのは吹奏楽部員など音楽に関わる人がほとんどだった。少し視野を広げたら、北を知らない人など多いかもしれない。
「周りが好きだと言ってるからって、知ったかぶるのはどうかと思うけどね。無理に合わせるんじゃなくて、堂々とすればいいと思うよ」
 八重崎は微笑み、本当はオーディションに落ちたのを気にしているのだろうと、裏を突くようなことを言ってくる。
「別に強がらなくていいんだよ。どうしても人の目が気になるなら、わたししかいない今のうちに泣きなよ。なんだったらBGM付けようか?」
 再びスマートフォンで北の曲を流そうとする八重崎を止め、清隆は彼女から顔を背ける。たった一人とはいえ、人前で涙は見せられない。必死で平静な態度を装う清隆に、八重崎が笑って頭へ手を伸ばしてきた。何をするのかと思いきや、頭頂部の髪が指の間で掴まれ、がしがしと揺らされながら乱れる。力の入った撫で方に気恥ずかしさを覚え、首を振って八重崎を引き離す。
「ああ、ごめん。やりすぎだったかな?」
 清隆は軽く髪を整えつつ、笑顔で謝る八重崎を見る。悪気はなかったが、今の行動が思いがけず彼女を悲しませていたのではないか。「先輩」はせっかく自分を励まそうとしてくれていただろうに。
 そう浮かんだところで、清隆は八重崎の言葉を素直に受け入れているように思えた。もしかしたら向こうに裏があって、良い気にさせている可能性もある。しかし八重崎に対してそれを決め付けることに、どこか申し訳なさがあった。そして、本気で案じているかもしれない人の思いを踏みにじりかねない思考を働かせかけた自分が嫌になる。
「ところで平井くん、前から気になってたんだけど」
 八重崎の声で、それまで頭にあった考えをいったん断ち切る。同学年で「先輩」と呼んでいるのは清隆だけだと、八重崎が今さらのように指摘する。自分だけ周りから浮いた感じになって仕方がないと。
「だからわたしも、『仕返し』していい? きみは今まで通りわたしを『先輩』って呼んでいいけど、わたしはこれからきみを『清隆くん』って呼ぶ。周りに誰もいない時にね」
 突然の提案に、清隆はすぐ答えられない。自分がどんな時にも八重崎を「先輩」と呼称するなら、向こうも常時好きなように呼んだ方が公平なのではないか。
「そこはほら、体面ってやつがあるから」
 よく分からない理屈に首を傾げるも、悪い気分でもなかったので清隆は受け入れた。八重崎がにやりと笑い、速足で廊下へ出て行く。
「清隆くんも早く片づけなよ。先生とか待ってるだろうからさ」
 あっという間に消えてしまった八重崎と、もう少し言葉を交わしていたかった――なぜか清隆はそう感じる。それが慰めてもらいたかったからか、別の理由からかは分からない。まだ楽器を仕舞ってもいなかったと気付き、清隆は慌てて作業を始めた。
 
 
 帰宅して和室の前を通り掛かり、襖から飛び出たシャシャテンの険しい顔を見て、清隆は初めて『芽生書』の存在を思い出した。四辻姫の連絡が何か来たのか尋ねたが、居候が告げたのは予想だにしなかった言葉だった。
「清隆、心して聞け。……『芽生書』が、盗まれた」
 オーディション中にも感じていた不安が再来し、清隆の胸がざわつく。シャシャテンが送った『芽生書』は一度四辻姫のもとへ届いたものの、それから何日かして忽然と消えた。誰が盗んだかは明らかになっておらず、四辻姫の屋敷にいる人物とも考えられるようだ。捜索は瑞香の方で任せてほしいと言われるが、清隆は安心できなかった。
「俺も何か出来ないか。休みの日くらい――」
「しかし清隆、日本におるそなたが如何にするのじゃ?」
 怪訝に問うたシャシャテンに、一言も返せない。そもそも瑞香には行ったことがないのに、そこに住んでいるだろう犯人を捜すなど出来ない。こちらは日本で、授業も部活もこなさなければならないのだ。
 そう理解しつつやきもきしたものを覚えていると、ふと北のことが心に掛かった。彼にこの事態を伝えようか迷って、すぐやめる。悲観的な北が悪い一報を聞けば、さらに良くない方へ考えていくに違いない。
「瑞香のことじゃ、そなたが気にせずとも良い」
 シャシャテンの言葉を聞きながら、清隆は不規則な鼓動が収まらなかった。

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