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六段の調べ 序 二段 一、私のお気に入り

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序・初段一話へ



 日本に瑞香の資料は存在し得ないとシャシャテンは言っていた。なら、彼女は何か故国から持ち込んでいるだろうか。清隆は和室を探すべく階段を下りる中、居間で流れるオーボエの甘ったるい音を耳に留めた。妹が学校から持ってきた楽器を吹いているのだろう。そういえば彼女は、シャシャテンにオーボエを見せてやる約束をしていた。少し前はそれを忘れて居候に咎められていたが、今回はちゃんと果たせたようだ。
 襖を開けてまず視界に捉えたのは、瑞香にいたころからシャシャテンが愛用しているという箏「玉水」だった。シャシャテン曰く、平安末期に日本の歌人が詠んだ歌とそれにちなんだ絵が描かれている。近くにあった本を広げると、それは漢数字でどの糸を弾くか示す、清隆にとって懐かしい形式の楽譜であった。辛うじて読み取れた題名は、これまで聞いたことがないものだ。瑞香で生まれた曲だろうか。
「黙って人の部屋に押し入るとはけしからぬ。そなた、今でも箏を奏でたいのか?」
 後ろで聞こえたシャシャテンの声に、清隆は慌てて楽譜を閉じる。いつの間にか、オーボエの音は途絶えていた。
 箏にまつわる清隆の記憶といえば、ほとんどが「疎外感」だ。選択授業で習ったものの、自分以外にその授業を受けていたのは女子生徒だけだった。吹奏楽部の知人もいたが、彼女たちと話す機会はほとんどなかった。女子だけで固まって何やら話している様は、今でも不気味に思い出せる。
 高校で音楽の授業があるのは三年生だけだ。さらに箏に関する部活もなく、これから三年間で清隆があの楽器に触れる機会は皆無とも呼べそうだった。もしかしたら、今後の人生で箏を弾くことさえないかもしれない。目の前にある瑞香の楽器へ思わず手を伸ばしたくなって、止める。
「――いや、俺は瑞香についての資料を探していただけだ。迷惑なら出て行くが」
「あるにはあるが、そなたに読めるかのぅ」
 シャシャテンが壁際に置いていた葛籠を開け、何冊か本を取り出す。それをめくってはすぐに仕舞い、彼女は溜息をついた。
「『芽生書』があれば、私が聞かされておった瑞香の正史を教えられるのじゃが……何せ主の留守が続いておる」
 最初にシャシャテンがその持ち主の住む家へ向かった時、彼女はインターホンの存在を知らずに玄関の戸を叩くだけだった。それでは相手に聞こえないと思って清隆がインターホンを教えてやったが、翌週試しても反応は来なかった。神器を求めている四辻姫が痺れを切らしているだろうと、シャシャテンが身を震わせる。持ち主が引っ越した可能性はないか尋ねたが、『芽生書』を託した五色姫はなるべく住んでいる場所を移らないよう頼んでいたらしい。
「それにしても、この先持ち主が顔を見せぬままになるかと思えば気が滅入るわ。もう何日も虚しく帰りとうない……」
「誰だ、そこまでシャシャテンを追い詰めているのは」
北道雄きたみちお。この近くに住んでおる」
 清隆の知らない名前だった。シャシャテンは畳に寝そべり、長い髪にその顔をうずめる。起き上がろうとしてすぐ力尽きる彼女は、見ていて哀れだった。
「そこまで気が重いなら、代わりに行ってやろうか」
 素早く身を起こすシャシャテンは、先ほどとは嘘のように体が軽く見える。乱れた髪を整え、本当に良いのか彼女は何度も確認してきた。平日と土曜日は学校があるから難しいが、日曜日なら行けると答える。
「よし、私が北殿のもとへ案内してやろう。一人で行くより、ずっと頼もしいぞ」
 早速来週行こうと約束してから、清隆は居間へ入った。オーボエをとっくに片付けている美央が、テーブルの上でオルゴールを鳴らしつつチラシを見ている。何気なくそれを覗き込み、「北道雄ピアノコンサート」とあるのを認めて清隆は紙面に食い付いた。横向きでピアノを弾いている男の写真が全面に使われ、長い前髪に隠れた彼の目元は見えない。
「この北道雄というのは、『芽生書』を持っている人のことか」
「知らないよ。北さんがどうしたっていうの、あのピアニストの。五歳の時に――」
 当時初出場したコンペディションで優勝して以来、北はピアノの天才として持て囃されている。コンサートは毎回盛況を極めており、今年の七月にも開かれるそれに美央は行くつもりのようだ。その語りはいつもより饒舌で、彼女が本当に北をよく知っていると思わせた。
 家にもCDがあると聞き、清隆はテレビの横にある本棚へ向かった。そこの上に置かれたプレイヤー周りに積まれた山を探る。すぐに一枚が見つかっただけでなく、次々と北の演奏を収めているものが出てきた。適当に選んだCDを流し始めると、美央がオルゴールの蓋を閉めてそれに聴き入りだした。興味のあることには何より熱心になる態度から、彼女は北の演奏が気に入っているのだろう。
 流れている曲は、明治時代に作られた唱歌をピアノのみで演奏している版だ。元から物悲しい雰囲気の曲だが、なぜかこの演奏にはより悲愴が感じられる。随所にアレンジとして掛けられた分散和音が、哀愁を一層引き立てている。ゆったりとした曲調も相まって、重い印象がどうしても抜けなかった。
「お前はこんなものが好きなのか」
 清隆の呟きに、妹は黙ったまま応じない。人が何を言うかより、演奏の方に耳を傾けたいと見える。
 続けて、正月によく耳にする箏曲のピアノアレンジを聴く。原曲は晴れやかなはずなのに、序盤のグリッサンドはいきなり沈むように滑り落ちている。曲調が速くなる所でも、トレモロが不安を煽り立て、音楽が進むにつれて気持ちが揺らぐような錯覚を覚える。新春の穏やかな海というより、嵐が来る前の海を思わせる。
 一通り聴き終わって分かったのは、北の演奏はどれも暗いということだった。原曲が明るくても、北はたちまち重苦しく変えてしまう。清隆はそれを指摘したが、妹にとってはそれが良いらしかった。
「わたしがピアノとオーボエをやってるのも、北さんのおかげだから」
 清隆が初めて聞く話だった。彼女がピアノに興味を持って習い始めたのも、北のCDを聴いたからだという。そしてオーボエをやっているのは同期がいなくて気楽だっただけでなく、音色に北と似たものを感じた故であった。
「それほどお前に影響を与えているらしい北のことだが」
 彼が持つ『芽生書』を受け取りに向かう予定を伝え、一緒に行かないか誘う。すかさず妹はそれに乗った。『芽生書』に興味があるというより、ファンだから北に会いたい思いが強いだけかもしれない。それでも好きな対象に強く熱中できる彼女を、放っておきも出来なかった。シャシャテンも一人くらい同行者が増えたところで気にしないだろう。
 妹は再びオルゴールのねじを巻き始めている。自分の世界しか見えていなさそうだ。昔から変わらぬ態度に軽く息をつき、清隆は自室へ戻っていった。
 
 
 翌日、昼休みをカフェテリアで過ごしている間、信に北道雄を知っているか清隆は聞いてみた。
「もちろん! 音楽好きなら知ってて当然だよ!」
 信も北のファンであった。清隆が昨日まで存在さえ知らなかったと話すと、カフェテリアに響くほどの大声で驚かれた。白い目を向ける周囲も無視し、信は自慢するかのように北の経歴を語りだす。その内容は、だいたい妹の言っていたことと同じだった。世の中で自分だけが、北を知らなかったのではないか。話を聞きながら、清隆はそんな疎外感に襲われる。
「どうせだからさ、この際ちょっと北さんについて調べてみようよ」
 信がポケットからスマートフォンを取り出す。校内では電源を切る決まりだが、「ばれなきゃ大丈夫」と彼は北の名を入力して検索する。よく見掛ける百科事典形式のサイトに、北の概要と共に基本的なプロフィールが表示されていた。一九九○年生まれで今年二十三歳になる、誕生日は十月二十二日、血液型はA型と様々な情報が飛び込んでくる。そして出身校の欄を目にするなり、清隆は信と顔を見合わせた。
桜台さくらだいって、ここのことかな?」
 信が高校名に指で触れると、確かに清隆たちが在籍している桜台高校のページへと飛んだ。住所にも間違いはない。好きなアーティストと母校が同じなだけで、信はスマートフォンを振って喜びを抑え切れずにいる。
「それで、北さんがどうしたって? 清隆もファンになったとか?」
 元々したかった話を思い出し、清隆はシャシャテンから聞いたことを伝える。自分が北の家に行くつもりだと言うと、信は予想通り食い付いてきた。ファンの一人として、サインを貰わなければ気が済まないとごねる。目的が別のものにすり替わっているように思えたが、ここまで行きたがっている彼を置いていくのは心苦しかった。くれぐれも北やシャシャテンに迷惑は掛けるなと釘を刺し、清隆は箸の止まっていた昼食を再開した。

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