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六段の調べ 序 二段 二、若きピアニストの悩み

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序・初段一話へ


 週末、北のもとへ向かうことが決まっていた清隆たちは、シャシャテンが着物を選び終わるまで居間で待った。座卓の上から、同じ旋律が何度も繰り返されて聞こえる。美央がガラス板越しに透けるオルゴールの中身へ目を据え、次第にテンポが遅くなっていくのを楽しんでいる。音色が途切れるとねじを回し、また曲に聴き入る。こうした作業を何回繰り返しても飽きる様子を見せない。初めはそんな美央を不思議そうに眺めていた信が、彼女の隣に腰を下ろした。
「シャシャテンが服で困ってるみたいだけどさ、アドバイスとかしないの?」
「ファッションには興味ありませんから」
 即座に答える妹へ理解を示すかのように、信は頷く。
「なるほど。周りからどう見られているかってのも気にならない?」
「特には」
「うらやましい……」
 信が背を後ろに傾け、頭を壁にぶつけそうになる。慌てて起き上がった彼は、美央の髪へ視線を向けた。照明の光を跳ね返し、それは金に近い色に輝いている。
「その髪ってさ……天然だよね? きれいだなぁ」
 じっとオルゴールを見つめていた美央が顔を上げ、隣を睨み付ける。右側だけ二重の薄い目の中で、鳶色の瞳が強く何かを訴えている。それに信はたじろいで口笛を吹き始めた。ようやく服を決めたシャシャテンが居間に入ってくると、彼は素早く立ち上がって玄関に向かった。
 シャシャテンが先を行き、閑静な住宅街の中を歩いていく。古書店街に行った時懲りたのか、信は以前と打って変わって静かだった。二十分ほどして、両隣とあまり変わらない一軒家前で北の家だと紹介されても、彼は感嘆の声を漏らしたきり黙っている。扉の隣に「北」と彫られた黒い表札がある二階建ての家は、近くでよく見ると異様な雰囲気を醸し出していた。窓のカーテンはどこも閉め切られ、室内の光さえ捉えられない。人の気配は全く感じられず、中に誰もいないのではとも思わせる。
 静寂な空気を打ち破ったのは、突然窓から漏れ出てきたピアノの音色だった。一定のリズムで刻まれた伴奏の続く穏やかな旋律が、やがて低い音域へ下がっていくと一度途絶える。すぐに曲調は速いものへ変わり、軽やかな指回しの旋律へと移る。その調べは、何かに急いでいるようだ。元からファンである美央と信だけでなく、シャシャテンもじっとその演奏に耳を傾けていた。
「お風呂に入りたくなるよね、この曲」
 再び静かになった後、信がそう零してインターホンを押した。それから急いで近くの電柱に隠れる。何をしているのか清隆が尋ねると、ピンポンダッシュだと返された。
「おれも周りを気にしないで、自分らしさを持って動くんだ! 美央さんみたいに!」
「さすがに迷惑を掛けかねないことをするのはどうなんだ」
 まだ相手の来ていないうちに戻ってくるよう、清隆は諫める。それを聞かなかった信だったが、数分経っても姿を見せない家の主を気にして陰から出た。
 先ほどのピアノを北が弾いていたならば、留守だとは考えられない。清隆が再びインターホンを鳴らしたが、またも反応はなかった。
「この通りじゃ。心が折れそうであろう?」
 シャシャテンの言い分ももっともであった。何日も居留守を使われては、どう対処すれば良いか分からなくなりそうだ。しかしこのまま『芽生書』を得ず帰るわけにもいかない。三回目で通話口へ「探し物がある」と清隆が伝え、応答を待つ。やがて聞き取りにくい男の声がした。
『それって……巻物のことかな?』
 狙い通りのものではないかと考えて清隆が肯定すると、しばらくして扉がゆっくりと開いた。わずかな隙間から、若い男が顔を出す。長い前髪にほとんど隠れた目が、こちらを凝視する。光を映さないばかりに黒いそれは、小刻みに震えている。半ば倒れ込むように扉を押し開けた彼は、青白い肌も相まって病人に似てなくもない。
「ピアニストの北さんですよね?」
 信に聞かれて頷いた男が、シャシャテンに目を移した。そして思い出したように小さな声を漏らす。
「十年ぶり……くらいかな? きみはおかあさんのほう? それとも娘さん?」
「娘の方じゃ。昔は世話になりました」
 シャシャテンが挨拶して用件を話すと、北は薄く笑って清隆たちを中へ迎え入れた。
 白い壁の眩しい廊下を渡り、一室へ案内される。透明な低いテーブルとそれを挟む二つのソファーが置かれ、その横に部屋の半分を占めるほど大きなグランドピアノがある。赤い絨毯に置かれた楽器を清隆が覗き込むと、黒く艶のある表面に自分の顔が映っていた。
 北に勧められてソファーへ座り、やがて人数分の紅茶がテーブルに置かれた。シャシャテンが興味深そうにカップを取って口を付けたが、熱いからかすぐに離した。清隆たちの向かいに座った北が、まず頭を下げる。
「出てくるのが遅くてごめんね。何しろピンポンダッシュとかする人が多くて、いつも気にしているからね。この前なんか連続で押してくる人がいて、本当に弱ったよ。やっぱりぼくは、近所の人からばかにされている――」
 シャシャテンの手が、着物の膝辺りを軽く握る。清隆は彼女の顔を窺おうとしたが、すぐ向こうへ背けられてしまった。
 各々による自己紹介の途中、清隆の次に話すはずだった信が、まず鞄から色紙とペンを取り出した。一言名乗ってファンだと明かし、サインを求める。急な要望も北は快く受け入れた。念願のサインを貰い、信は上機嫌に鼻歌を歌う。続いて美央も、やはり持参した色紙に応じてもらう。この二人の行動は予想できていたが、その後にシャシャテンも懐に手を入れた。やがて出てきたのは、何回か畳んだのを広げた紙だった。
「何、名の高い者にはこうしてもらうのが良いのじゃろう?」
 シャシャテンがサインの文化をどこで知ったのか首を傾げつつ、適当な紙を持っていない清隆は遠慮しようとした。しかし隣の信が、小声で何度も「もらっておけ!」と言うのに折れ、何かないか鞄を探す。そして見つけた手帳のメモ欄を差し出し、隅の方に小さいながらもサインを貰った。
 北は清隆たちが桜台高校に通っていることに興味を示した。改めて確認したが、同じ学校の出身で間違いない。元は女子校だった中高一貫校が共学となった後に、彼は入学したのだった。文化祭が終わってから行われる後夜祭で、北が毎年卒業生代表としてピアノ発表を頼まれていると聞くと、信が瞳を輝かせた。
 ここに来てずっと気分の上がっている信を口で制し、シャシャテンが本題に入ろうと切り出す。
「北殿、覚えておられるか? 私が母上と共にここを訪ねたと思うのじゃが」
「もちろんだよ。むしろこっちが忘れられてるんじゃないかって、不安だったんだよね」
 北が立ち上がり、部屋を後にする。戻ってきた彼の手には、一巻の巻物があった。シャシャテンが受け取ってまず外から確認し、次に軽く中身を開いて本物だと判断した。これで四辻姫に顔向けが出来ると安堵するシャシャテンに、北が何のために巻物が必要だったのか尋ねる。
「あのときはよくわからなかったんだよね。瑞香のことをざっくり聞いて、預けてほしい理由を聞く前に怖そうな人たちが来て……」
「そうじゃった。あそこで私と母上は……」
 北が一瞬息を呑み、やがて顔を両手で覆う。彼の前で、幼いシャシャテンとその母・五色姫は捕らえられた。シャシャテンも表情を消していたが、すぐに話を切り替える。彼女は現在の瑞香について詳しく語り、三種の神器がないので大友が正式な王と認められずに済んでいることを話した。
「……それって、四辻姫っていう人が勝手に言ってることだよね?」
 不意に北が口にした言葉に、黙って聞いていた清隆は耳を惹き付けられる。
「大友さんだっけ? 勝手に王さまになったから認めないなんて、その人を悪者にしているように見えるね。本当に悪い人だったとしても、正しい歴史として残さないのもどうかと思うけどね」
 言われてみて、大友の存在を抹消してしまって良いのか、清隆に疑問が生じる。日本で瑞香が知られていないように、瑞香は過去の大事な出来事を忘れてしまうのではないか。そしてシャシャテンに神器を入手するよう命じた四辻姫についても、詳しく知らないままだったと気付く。大友が正統でない点を厳しく糾弾した上で、彼女は即位しようとしているのか。それとも王の座を奪われた恨みを抱いて動いているだけか。そもそも大友が王権を強引に得たなる話も事実なのか。単に四辻姫の言っていたということだけを伝えてくるシャシャテンの言葉だけでは、その思いが分からない。
「何、大友が表に出るまで平らかに国を治めておった四辻姫様じゃ。裏で企むなどあるまいと私は考えております」
 堂々と言うシャシャテンも、四辻姫の全てを分かってはいないだろう。北にシャシャテンが姫だとの話は伏せられているが、元女王の姪である彼女は理想の「立派な女王」として、四辻姫を美化しているのではないか。
 笑みを崩さないシャシャテンとは対照的に、北の顔は曇っていく。
「人をそう簡単に信用しちゃいけないよ。期待させることを言ったかと思えば、すぐに手のひらを返す人もいるからね」
 北の発言に、清隆の心臓が跳ねる。急に口元を緩めた北が恐ろしく見え、そっと目を逸らした。
 北は自己評価が低い男のようだ。三歳でピアノを始めたころから周囲に才能を見込まれ、やがてコンペティションで優勝したのも、彼はあまり快く思っていなさそうだった。
「物心ついたころから持てはやされているうちに、それが本心で言われているのかわからなくなったんだよね」
 これまでピアノで悪い成績を取ったことは一度もない。しかしその評価が正しいのかさえ判断できない。さらに多忙故に学校は休みがちであり、まだ進学に力を入れていなかった桜台高校を卒業できたのが奇跡的だった。ピアノに専念するあまり、それ以外は疎かになっていった。
「それにぼくは音楽雑誌の取材を受けもしたし、一度だけテレビにも出たんだよ。それがもの好きから冷やかされてね……」
 北の話が本当か疑っていた清隆も、次第に思考をやめた。掠れ気味の声で紡がれる語りは、泣くのを堪えているような表情も相まって悲愴な過去を引き立たせる。彼の特徴的な音色は、その思いから来ているのだろうか。
「ぼくは下手だと思ってるのに、みんな『うまい』とか『天才』とか言ってくるんだよね。それがどうにも、口だけにしか聞こえなくてね。心ではきっと、別の何かを考えているんだよ」
 北がゆっくりと立ち上がり、鍵盤の蓋を開けて響きの悪い和音を両手全体で生み出した。気がおかしくなりそうな余韻を聞きながら、清隆は北の言葉が分かるような感覚を持つ。しかしその理由をはっきり思い出すには、まだ心の整理が出来ていなかった。
「人なんてみんな、そういうものさ。こんな世の中に、どうしてつらい思いをしてまで生きなきゃいけないんだろうね……」
 音が鳴りやんだ後、北は黒鍵を一本だけ押して前を睨んだ。その目つきに強さはない。今度は音が消えるより前に、彼は指を動かし始めた。テレビでもよく流れるノクターンが奏でられ、それにはゆったりとした出だしから既に重々しさがあった。リズムを置いていく伴奏が生き急いでいる印象を、細かいトレモロが不安を掻き立てる。高音部の旋律は今にも泣きそうな響きを持ち、裏で続いている和音はテンポや音量に差をつけながら緊迫を煽る。聴いているうちに何も感じられなくなり、清隆は一緒に来た三人がどのような反応をしているか見るのも忘れていた。
 生で初めて聴く北の音楽は、CDで耳にする以上の暗さがあった。拍手をするも感想が思い浮かばず、清隆は北と視線を合わせられないまま黙る。
「みんなぼくを天才とか言いつつ、心の中ではばかにしているんだろうね。ああ――こんなつらい人生をやめたい……死んでしまいたいよ」
 横にいるファンの反応を、清隆はわざわざ確かめようともしなかった。部屋には重い空気が漂い、窓か戸を開け放ちたくなる。
 何か聴きたい曲はないか問う北へ、信がおずおずと挙手をする。ピアノ曲では定番の明るめな曲を注文された北が、再び鍵盤へ手を広げた。素早く軽やかに踊る指先が、速度の速い演奏を奏でる。高い技術が必要でありそうな曲を、北は何の苦労もないように弾いていく。和音がいちいち陰鬱に聞こえ、高音の旋律が目立つ部分に入るとなぜか清隆の胸が痛んだ。音には不快な気持ちにさせられているはずなのに、清隆はピアニストから目を離せずに聴き入っていた。
 北が動かなくなったと気付き、曲の終わりを知る。拍手をする信が「夢のようだ」と呟いて、ソファーの背に寄り掛かる。北はここが本番の舞台であるかのように頭を下げた後、少し口角を上げて元いた席へ戻っていった。

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