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六段の調べ 序 五段 四、不朽の遺産

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「大友さんが『建国回帰』をやったら、瑞香は変わってしまうんですか?」
 シャシャテンの説明が終わった後、朝重は聞き取りづらくこう尋ねた。脅していた時より落ち着いた、むしろ何かに恐れているような声だ。
「嗚呼、あやつはおぞましいぞ。もうそなたが幼きころより聞いた瑞香ではなくなってしまうやもしれぬ」
 包丁の落ちる音に、朝重自身が驚いて足元を見た。地面に叩き付けられたスマートフォンからも後ずさり、現在の状況に戸惑う。そして清隆たちを一瞥するなり、勢いよく頭を下げてきた。
「あの、すみません! 何があったかわかりませんが、なんかわたしが大変なことをしてしまったみたいで!」
 彼女は自分の行いを覚えていないのか。これまでシャシャテンの言った通り操られていて、それが正気に戻ったようだ。態度の急変に、清隆の思考は追い付かない。
「瑞香を変えるなんて、許せません。おかあさんも言ってたんです、『変わらないほうが平和』だって」
 まだ大友が王となる前、彼の周囲に怪しさを感じた朝重秋の提案で、その一家は日本へ移った。彼女は大友が王位を奪ってこれまでの女王政を崩壊させかねないと見抜き、国の将来に不安を抱いていたのだろう。幼いうちに亡くなった母を、朝重は現在も慕っているという。母の意に反するような行動を起こしたくない、そう大友に抗う姿勢を取る。
「おかあさんから、瑞香についてはいろいろ聞きました。昔いたときのことなんてほとんど覚えてないけど、憧れの国です」
 夢でも見ているようなうっとりした様子で、故国への思いを朝重は語る。文明開化から取り残された分、今の日本では忘れられた伝統や文化が残っている。日本にはない喜びが、あの国にはあるだろう。
「だからわたし、瑞香に行ってみたいんです。それなのに変わってしまったら――憧れていたのと違ったら、すごくショックを受ける気がする……」
「そうじゃろう。私も大きく変わりかねぬ瑞香を守りたいのじゃ。同じ国に生まれた者同士、ここは手を貸してくれぬか?」
 俯く朝重に、瑞香の王女が手を伸ばす。何で揉めていたのか忘れて困惑する少女に、資料のことだとシャシャテンは伝える。先ほど告げた通り、それらは全て知人に預けてしまった。そう話す朝重へ、シャシャテンは案を出す。その知人から一時的に借りるのはどうか。
「すぐ返すよう、伯母上には申しておく。それで良いか?」
 連絡のためいったん家に入るべく、朝重はこちらに背を向ける。だが扉に触れた瞬間、彼女は動かなくなった。
「まずい、また取り憑かれたか!」
 シャシャテンが清隆と信の袖を掴み、早口で呟く。思い直したようにこちらを向いた朝重に、表情はなかった。彼女がゆっくりと包丁を拾い上げる。しかしその体は急に前へ傾き、倒れそうになってまた姿勢を起こす。
「……何も言わないで。あなたの言うことなんて聞きたくない!」
 朝重は包丁を持つ手を上げながら、もう片方の手でそれを押さえようとしている。わずかに上がった顔には、こちらへの敵意というより、遠くにいる者への怒りを湛えている。
「瑞香は変えさせない。あの国は、あなただけのものじゃないんだから!」
 ここにいない人間へ、少女は訴える。もしかしたら朝重は、大友に操られつつある自分を止めようとしているのではないか。不自然な彼女の動きを見て、清隆は勘付く。そのうちに朝重が叫びを上げ、刃を上にした包丁を自身の前に向けた。父から聞いた朝重秋の死が、清隆の脳裏に走る。
 勝手に足が動き、手は包丁へと伸びていた。驚いた朝重が転じた刃先が、柄を掴もうとした清隆の右手首を掠る。思いがけぬ痛みに耐え、清隆は反対の手で柄を握って朝重から引き離す。袖の中へ流れ込んでいく血など、全く気にならなかった。
 誰もいない場所へ包丁を投げ捨て、清隆は傷を押さえる。得物を失った朝重は周囲を慌ただしく見回す。そして清隆を驚いた様で見つめてからこちらへ向かってきた。しかし突如前につんのめり、地面へ倒れる。不意に起き上がって攻撃することを警戒しつつ、清隆は朝重へ歩み寄る。うつ伏せになった顔をそっと横に向けると、彼女は目を閉じて眠っているようであった。
 朝重がとりあえず落ち着いたのを確認した後、信が清隆の傷を心配して鞄に入れていた絆創膏を取り出した。手首から数センチメートルまっすぐに伸びた傷は、幸い深くなかった。一枚ではぎりぎりかと呟きながら、信が剥離紙を剥がす。粘着部同士がくっついたり、手汗で指から離れなかったりで、彼はさらに慌てる。その様に清隆が呆れていると、横になる朝重のそばで火が上がり、輪の中を抜けて狩衣姿の男が現れた。彼は清隆が治療を受けているのを見ると、頭を下げる。
「私たちの不徳により、あなたを傷付けてしまいました。もっと早く気付くべきだったものを。師もさぞかし痛み入っておりましょう」
 朝重を操っていた陰陽師の弟子と称する男は、彼女が自ら命を絶とうとしたのを見た師匠から急遽この場へ来るよう頼まれた。師匠は大友の命令通りに清隆とシャシャテンを殺そうとしたが、利用していた朝重が予期せず暴走したのを抑え切れずにいた。やがて彼女が自らを傷付けようとしたのを察知し、それでは己の信義に反するとして計画を止め、朝重を救うため弟子を送り込んだという。
 そもそも人を傷付けることを好む師ではないと言われるが、それが慰めのつもりか清隆は分からなかった。朝重の状態が安定しているのを認め、陰陽師は人心地ついたように息を漏らす。次に起きた時、彼女は一連の出来事を忘れているだろうと言い残して来訪者は去っていった。
「奴の言う通りなら、朝重殿は私たちのことを忘れておるじゃろう。目覚めた折に驚かれても困る」
 シャシャテンが少女を気に掛け、家へ入れることを提案する。負傷した清隆を置いて彼女が朝重を抱えようとし、一度失敗する。信が代わりを申し出るのを意地で振り切り、シャシャテンは早く扉を開けろと訴えた。
 他の家族は留守なのか、家全体に静けさが満ちていた。一室で朝重を寝かせ、シャシャテンは階段を上がって清隆について来た。何も用がないはずの彼女を訝しみながら、清隆は台所で包丁を片付ける。
 帰ろうと階段に向かおうとして、そばの開いている扉から朝重の部屋らしき光景に清隆の目が留まった。教科書や参考書の積まれた勉強机に本棚、そしてベッドには文庫本が何冊か置かれている。
「少しくらいなら良かろう。邪魔するぞ」
 勝手に部屋へ入ったシャシャテンが、文庫本を手にして声を上げる。それは清隆も名前だけ知っている、古典の作品だった。
「これら全て、朝重殿が読んでおるのか? 何とのぅ、私と気が合いそうじゃ!」
「シャシャテンが持っているのとは違う、現代語訳じゃないのか」
 気になって清隆は表紙を見たが、どうやら原文であるようだった。これをあの少女が読んでいるのだろうか。趣味の渋さに首を傾げつつ、清隆は長居を遠慮してシャシャテンに階段を下りるよう勧めた。
 
 
 朝重は、大友が自分を警戒して殺害を企てていると言った。そして彼女を救った陰陽師も、大友に自分たちを殺すよう命じられたと話していた。失敗を知った大友は、これからも狙ってくるだろう。そう懸念する清隆とは対照的に、シャシャテンは自室で呑気に四辻姫からの手紙を見返している。
「しかし、再び朝重殿のもとへ向かうべきかのぅ。新しき正史の元となるものまで、あの陰陽師が忘れさせておらねば良いのじゃが」
「大友はあれらに関して、何も聞いていないみたいだったが」
「油断できぬぞ。奴のことじゃからな」
 シャシャテンに呆気なく言い返され、清隆は押し黙る。確かに大友が自身に都合の良い話をして、裏では別の思惑を持っているとも考えられる。意に沿わせようと操らせていたのなら、なおさら可能性は高い。
 だが清隆は、それをすぐに受け入れられなかった。シャシャテンが文机の上に重ねている手紙へ目をやる。朝重は、大友が本物の『芽生書』を持っていると彼の声で聞いたと語っていた。焼失した『芽生書』は、朝重に偽物と断言された。もし本物が瑞香に残っていたとしたら、四辻姫の言うような新しい歴史書は必要ないのではないか。彼女が現存を知らない可能性もあると思った直後、大友と元女王が協力関係を結んでいるかもしれないと振り返る。
「四辻姫の言葉を、俺たちはそのまま信じて良いのか」
 清隆は、ふとそう口にしていた。シャシャテンがすかさずこちらを向く。下唇を噛み、吊り上げた目を厳しく光らせている。伊勢を狙った時にも似た、憤怒を秘めた形相だった。
「……そなた、伯母上が私たちのために動いてくださったのを忘れたのか? 夏にあれ程手を尽くしてくださった恩義を、そなたは仇で返さんと言うのか!?」
 シャシャテンは片膝を突き、今にも立ち上がって清隆に掴み掛からんとしてくる。清隆はすぐに答えられず、その場から動けなかった。思えば四辻姫は、自分たちのために手を打ってくれた。シャシャテンを救ったり、『芽生書』を取り返したりするための作戦は、全て彼女が考えた。最終的に失敗してもこちらを責めず、むしろ異国から来た清隆たちを受け入れ、励ましてくれた。改めて、彼女に感謝すべきことの多さに気付く。
 シャシャテンに同調しようと清隆は口を開きかけたが、伊勢の話が浮かんで思い留まった。四辻姫は姪を憎んでいる。それはシャシャテン自身にも伝えられたと、「越界衆」の件で勘付いてはいた。初めて四辻姫の姿を見た時には思いもしなかったが、もし彼女の裏にこうした感情が秘められていたら。行動との差の大きさに、清隆の身は震える。
「シャシャテン、伊勢が言っていた通り四辻姫から本当に恨まれていたとしたら、どうする」
 大きな溜息と共に、シャシャテンはきっぱり言い切る。
「伯母上が斯様に思っておるわけがなかろう!」
 居候の顔には、自信に満ちた笑みさえ現れている。伯母を警戒しろと言っても聞かないだろう。
 シャシャテンは四辻姫を強く信じている。一方の自分はどうか。大友から直接聞いた話も素直に受け止めず、人への評価が新たに出てくる度に左右されてばかりではないか。何が正しいのかさえ決められない、軸があやふやな自分が嫌になる。しかし何を基準に人やものを信じれば良いのか。自分に都合の良いことばかり信じていても、それは毒となるだろうに。
 考え過ぎのせいか痛む頭を押さえ、清隆は和室を出ようとする。襖に手を掛けた時、背後の窓から視線を受けている気がしてそこへ目をやる。だが外には、見慣れた近所の風景があるだけだった。不気味さを覚えながら、清隆は逃げるように階段を上っていった。

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