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六段の調べ 序 五段 五、暗闇を抜けて

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 朝重家を訪ねて数日後、その連絡はシャシャテンのもとに舞い込んできた。
「はぁ!? 伯母上は如何されたのじゃ? 急に掌を返されるなど!」
 和室で叫ぶシャシャテンの手元を、清隆は覗き込む。やはり読めない崩し字だったが、その解説を聞かされて眉をひそめる。新しい歴史書は作らなくなった、そもそも幽閉されている身が関われる問題ではないと。
「幽閉がどうのなど、今さらな気もしていたが」
 これまでの四辻姫を思い、清隆は零す。「越界衆」の件にしても、元女王は政治権力を奪われたなど関係ないかのようにシャシャテンへ働き掛けていた。あれは一体どうしたことなのか。いずれにせよ、朝重家の資料は必要ないとされた。気落ちしたようにシャシャテンが畳へ寝転ぶ。
「美央や信には手間を掛けさせてしまったのぅ。嗚呼、そなたも傷があったな。もう癒えたか?」
 右袖をめくり、清隆は手首辺りを確かめる。まだ絆創膏は貼られたままだが、そろそろ外しても良いかもしれない。それを聞いたシャシャテンは安堵したように、一つ息をつく。そして元の計画は徒労に終わったが、朝重れいに会えたことは重畳だったと微笑む。
「まだ日本にも、我が国を思う者がおったとはな。瑞香も捨てたものではないわ」
 口元を緩めるシャシャテンを見、清隆もまた胸のつかえが下りたように感じた。わずかとはいえ、瑞香の存在を認めて尊重する者がいる。忘れられた国を切り離さず、心に留めてくれている。この一年ほどで瑞香を知ってきた清隆にとって、それが妙に喜ばしかった。
 こそばゆい気持ちを抑え、清隆は別の問題に目を向け直す。まだ大友には、命を狙われ続けているだろう。いつ何が起こるか、構えていなければならない。
 それから一ヵ月以上、清隆は周囲を警戒し続けた。ある時は朝重と同じく、近い者を操って殺そうとするかもしれない。またある時は、大友が直々に刺客を送り込んでくるだろう。注意しながら過ごしていた二月の終わりごろ、清隆は部活に行く途中の廊下でふと立ち止まった。こちら全体を見ることが出来る大窓からは、通学路も広く見渡せる。しかしどこに目をやっても、人はおろか小鳥さえ風景の中にはない。気味悪く思い、いつもより足を速めて清隆は部室へ向かった。
 パート練習のために教室を移動する際も、清隆は窓という窓に目をやった。すぐ近くで視線を感じて振り向くと、八重崎が素早く顔を背けた。
 練習の時間があっという間だった。日が暮れ落ちていくらか星も見える空の下、清隆は門を出る寸前で八重崎に呼び止められた。一緒に帰ろうと提案して隣に来る彼女と、流されるように揃って歩き始める。周囲に歩行者がいない中、この場で二人きりだと思うと鼓動が不規則なように錯覚してしまう。慌てて大友の刺客に意識を向けねばと、清隆は両目を左右へ素早く動かす。
「最近、清隆くんって神経質っぽいよね。わたしの気のせいかもしれないけどさ」
 八重崎の言葉に注意が緩み、歩調を合わせていた足も滑りそうになる。大友に狙われているのだと、さすがに強く意識し過ぎたか。平静を装って八重崎を一瞥し、彼女に心配を掛けたのではと浮かぶ。瑞香の事件に巻き込ませまいと黙っていたことが裏目に出て、逆に不安にさせている自分が情けない。事情を話せばそれも解消されるかもしれないが、今の自分を取り巻く状況は簡単に説明できそうにない。
 納得してもらうため、思い切って瑞香について話した方が良いか。深入りは禁物と言っておけば、彼女は自ら瑞香に首を突っ込まないだろうか。しかし自分の命が狙われているとまで明かしてしまうのもどうか。
 考えがまとまらないまま道を進んでいると、突然八重崎が左手首を掴んできた。何を思ってのことか戸惑い、清隆は足を止めて右側の車道に目をやる。自動車の流れや遠くの信号機に意識をやり、手袋と袖越しに伝わってくる熱から気を逸らす。
「誰かがわたしたちについて来てる」
 八重崎の低い声が、清隆を現実へ引き戻す。清隆が確認するより先に、八重崎はこちらの手首を掴んだまま左へ曲がる路地へ駆け込んだ。自動車や建物の照明で明るかった場所から一転し、街灯がまばらに立っている人気のない道に入る。
 車道が遠くに見えなくなったところで、八重崎は走ってきた方の一点を睨んで手袋を外す。彼女がそれを黒いコートのポケットに仕舞った時、彼女の視線先から足音が迫ってくるのを清隆は聞いた。
 清隆が声を掛ける間もなく、八重崎は足音に向けて駆けだした。街灯の照らす下で、彼女は恐れる様子も見せず相手の手首を取る。そして体を横向きに回転したかと思えば、背負いに近い形で相手を持ち上げて街灯に叩き付けた。
 アスファルトに打った片腕を押さえ、襷掛けをした男が立ち上がる。八重崎が彼の両肩を掴んで腹部へ蹴りを入れると、男はよろめきながらも懐に手を入れた。そして鞘から抜いた短刀を、まっすぐこちら目掛けて投げる。清隆は飛んでくる刃を避け、そばに落ちたそれを拾うなり闇の中へ捨てた。その隙に八重崎が男の膝裏を蹴って突き倒し、清隆のもとへ戻ると再び手首を握って走りだした。
 いつ立ち上がるか分からない敵を撒こうと、角を何度も曲がるうちに場所が分からなくなる。明かりが少なく通り慣れていない夜道にもかかわらず、八重崎は楽しんでいるように笑っている。
「清隆くん、まさか悪の組織に狙われてるとか?」
 手を引かれる中、清隆は何も答えない。本当に命が危ういと聞いても、彼女は困惑するだけだろう。ここで長々と瑞香の説明をして、刺客に追い付かれても良くない。
 八重崎はどのように道を進んだのか、気が付けば元々目指していた駅の前に着いていた。見慣れた景色が急に現れて呆然とする清隆の肩を、八重崎は強めに押してくる。
「こんな所でぼうっとしていると、あの人に追いつかれるよ? 気をつけてね」
 そう言って足早に駅を離れていく彼女にも用心するよう忠告して、清隆は地下鉄の階段を駆け下りた。改札を通過してからも、まだ心臓が激しく動いている。大友の刺客らしき者に襲われたことも、八重崎がそれを撃退したこともすぐに整理が出来ない。
 不注意だった自分を恥じ、心の中で叱責する。本当に殺されていたかもしれないという思いだけでなく、八重崎に余計な心配を掛けさせてしまった後悔も生まれる。自分は何のために、これまで警戒をしてきたのか。
 到着の近付きを告げる風が吹き、やがて電車が眼前に現れる。清隆は背後を見、街灯に照らされていた男の姿がないと確かめてから乗り込んだ。少ない乗客の中にも追手がいないか探している自分にしばらくして気付き、座席に背を預けて溜息をつく。疑うにも限度があるのではないか。そう思いつつも、人への恐れはどうしても尽きなかった。

 
 御所の庭は雪が深くなり、草葉も白を被っている。立春は過ぎても寒さは厳しくなる一方で、大友の胸も断続的に痛みを訴えるようになった。自室の隅で火鉢に身を寄せるが、具合は一向に良くならない。
 そばに引いた行灯の光を頼りに、大友は文を読み進める。近ごろは毎日のように届く同じ者からの手紙に、呆れざるを得ない。差出人は得手勝手な者で、大友が直に手を入れなくても構わないような件にも無理に巻き込んでくる。先日はある史家の一族と瑞香の関わりを知りたいという頼みから進んで、陰陽師を使うまでになった。あの者が勝手に調べればそれで済むだけの話だったろうに。
 なぜ文の差出人と、ここまでの付き合いが生じたのか。初めは自分が疑念を告げて、それを知ったあの者が報いを与えようと決め、こちらを手伝うべく動いたのだった。そして大友自身も、抱いていた悔しさを晴らしたかった。
 元凶の顔が浮かぶ。あの者は大人しく見せながら、あずかり知らぬ所で自分を平気で裏切っていた。今目指している「建国回帰」も、元は奴の望みを絶つために果たそうと思い立ったのだ。あの者が望んでいない瑞香を、自分が作ってやりたかった。かつて「建国回帰」について仄めかしたことが一度あったが、奴はそれをあってはならないとすぐさま告げた。王家には守るべき習いと誇りがある、崩されては堪らないと。
 紙面に顔をうずめるようにして、大友は零れる笑みを抑える。家の意地を頑なに守っていたあの者が、おかしくて仕方がない。この自分が本当は何者なのかも知らずに。
 廊下から慌てた足音が近付いてくる。狙っていた若人の偵察を頼んでいた男が、崩れ落ちるように大友の前へ改まる。その物腰で察した通り、彼は失敗して帰ったのだった。若人のそばにいた女にいち早く勘付かれ、手ひどく攻められたと告げる。
 思えば今は亡き伊勢千鶴子も、若人の連れていた男に騙されて六段姫を仕留め損ねたと言っていた。あの若人の周りにいる者も、並大抵にはいかないだろう。彼らはなるべく傷付けたくないが、それでは文の差出人が反するかもしれない。その者には何も伝えないようきつく言い、大友は男を退室させた。
 今年の初めにも、若人を排し損ねた男がいた。あの者の言っていた女を使って、若人たちを殺害しようとしたが頓挫した。その時は自ら暴れた女が悪いとして、彼を許したのだった。
「朝重」の姓に、大友は覚えがある。彼らは己の王位継承を憂い、瑞香を出たと耳にした。同じく自分の政に憤りを持つ者は、ある程度いるだろう。心の内に黒いものを持った彼らが動きだすより前に、「建国回帰」を果たさなければならない。
 そのためには何としても、あの若人や姫を消す必要がある。しかし不覚の続く中、これからどう狙おうか。考えているうちに、胸の奥が痛みだす。いつもの発作だと思っていたそれは、急に心の臓全体を掴むように強く締め付けてきた。口を開けても息は入らず、掠れた声が漏れるだけだ。痛みは一向に引かず、むしろ激しくなるばかりでしかない。やがて目の前が暗くなり、ついには周りの音も光も分からぬ闇に落ちていった。

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