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六段の調べ 序 五段 一、潜り姫

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序・初段一話へ


 十二月上旬に行われた定期演奏会も無事に終わり、年の瀬も迫る今日は年内最後の部活があった。土曜日の昼休み、地下の部室には大勢の吹奏楽部員が佇んでいた。誰も音出しをしておらず、並べられたテーブルで弁当を食べながら数人で固まっている。これ自体はよくある光景だが、今日は学年や性別も超えた集団が手帳やメモを片手に、絶えず周りと言葉を交わしていた。
 清隆もそこに巻き込まれ、差し出された紙にボールペンを走らせている間に次々と催促をされる。メールやチャットが主要な通信手段であるこの頃だが、年賀状を送ってほしいとせがむ生徒たちが住所を聞いてくる。信はパソコンで自作すると言っていたことを思い出しつつ、清隆は誰が置いていったのかも分からない手帳に書き込んでいく。
 一息ついたところで、清隆は顔を上げて外を見た。鞄を入れる戸棚までの壁全体に渡る大窓が映す中庭には、運動部系が使っている倉庫しかない。そこから向かって右にある階段を上がって、地上の校門へ向かえるようになっているのだ。ここでははっきりと見えない門前に、どんな人やものが通っているか。考えながら、清隆は大友に一人で会って以来、何も変化がないことを思う。
 国王へ事前に何も伝えず、夜中に堂々と上がり込んだのだ。彼が言っていたように、自分に目が付けられて何か仕掛けてくるとも予想していた。しかし二ヵ月ほど経った今も、大友が不穏な動きをする様子は見られず、瑞香でも事件は起きていないと聞く。
 このまま平和が続くだろうか。しかしどうしても清隆から不安は抜けず、気が付けば大友の刺客が来ていないかなどと探ってしまう。何もないなら心配せずとも良いだろうに、それを遮ろうとする自分の思考に軽く苛立つ。
 同学年から住所交換を頼まれていた八重崎が、ようやく落ち着いたのか清隆のもとに向かってきた。案の定年賀状を送りたいそうで、互いの手帳を交換する。既に個人情報で埋まっていたページを素早くめくり、一番上の罫線に書き入れかけて清隆は手を止める。ちょうど書こうとした場所には、シャープペンシルの薄い字が並んでいた。「表情暗いぞ! 元気出せ!」と。
 八重崎は、自分が周りを警戒していたと勘付いていたのかもしれない。平静を装っていたが、無自覚に表へ出ていたようだ。八重崎にはいまだ、瑞香について話していない。北のように巻き込まれまいとして隠してきたのだが、逆に心配させているのではないか。それでは別の形で、彼女の負担になってしまう。
 住所を書いた手帳を返すと、八重崎はメモ部分へさっと消しゴムを掛けてから別の生徒へ話しに行った。彼女も含め、日本人の多くは瑞香を知らないだろう。日本には「いらない」とシャシャテンが言うほど瑞香は忘れられ、切り離されようとしている。あの国には確かに人がおり、政治や文化が営まれていた。それが無視され、ないもののように扱われている。それが、なぜか清隆には歯痒くてならなかった。
 
 
 冬休みになり、自室のごみを持って玄関近くの納戸に入ろうとした清隆は、狭い部屋の奥で妹が座り込んでいるのを目にした。彼女が何か広げて持っていると気付いて覗くと、子ども向けの絵本だと分かる。色鉛筆で描かれた柔らかみのある絵に、振り仮名を振った漢字交じりで本文がある。白い着物姿の女が海を眺めている場面からどう続くのか、清隆にも興味が出たが、今はそれどころではない。妹に自室の掃除を進めるよう促すも、彼女はページの端に手を伸ばすだけだった。
「それは何だ」
「さっきここで見つけたの。わたしが幼稚園で読み聞かされて、無性に好きだったやつ」
 読み聞かせなど清隆の記憶にはない。恐らく美央の年度だけに行われていたか、自分が忘れているのだろう。絵本の描かれてある画用紙や色テープで止められた背表紙からは、いかにも手作りといった雰囲気が漂っている。表紙には『もぐひめ』という題と、「朝重秋あさしげあき」なる作者名がある。この作者について何か知っているか妹に尋ねたが、全く覚えていないようだった。
 美央が指で挟んでいたページを開く。それが物語の最後だった。主人公の女が浜辺から海へ入っていき、腰の下は水に浸かっている。この後、彼女は奥へ進むうちにとうとう沈んでしまった、と文にはある。『潜り姫』というより『沈み姫』ではとの疑念をいったん捨て、清隆は絵に釘付けとなる。これと同じような図を、前に一度見た。
「ああ、確か北さんの家で……なんとかって巻物にあったっけ」
 美央の言葉で、『芽生書』の最後とほとんど同じものだと清隆は思い起こされた。あの話では、国王の子が王位へ就く前に死亡し、最後に亡くなった娘は海に身を入れたとあった。この絵本とはたまたま似てしまっただけか、それとも『芽生書』の内容を踏まえて書かれたのか。後者なら、作者は瑞香を知っていたのではないか。加えて国の神器を見た経験を持っている可能性もある。
 昼食の時間を伝えに来たシャシャテンが、納戸に顔を出す。美央の持つ絵本を一瞥し、すかさず彼女から取り上げて見入る。やはり『芽生書』の内容と酷似している本に目を見開いていた。
「何とのぅ、斯様なものがあったとは! 誰が作ったのじゃ? そもそもなぜこの家にある?」
 異国で思わず見つけた瑞香と縁のありそうな書を、シャシャテンは伯母に報告しようと意気込む。ひとまず清隆たちは、絵本を携えたまま居間に向かった。
 うどんを食卓に並べて待っていた両親は本を見るなり、まだあったのかと驚く。母が懐かしそうに読み返そうとするのを父が止めている間に、清隆たちは各々の場所に座った。
 朝重秋と知己だったという母が、彼女について語る。朝重秋の娘・れいが同級の美央と親しく、その縁で母親同士も仲が良かった。だが十年ほど前の友人を、美央は存在さえ忘れていたと呟く。そして朝重秋には清隆も会ったことがあると聞かされたが、こちらも清隆の記憶からすっかり消えていた。
「その秋さん一家が、元々は瑞香に住んでいたみたいなの。あ、これはシャシャテンちゃんと初めて会った後に聞いた話で――」
 瑞香から日本に移住した者がいたとは。事実か探ろうとしながら、清隆は母の話を聞く。朝重家は瑞香で過ごしていたが情勢に不安を覚え、十年ほど前にすが何某なる親しい音楽家の手を借りて日本に移った。
「娘さん――れいちゃんが物心付く前に故郷を離れていたのが、秋さんは気掛かりだったようで。れいちゃんはもちろん、日本の人にも瑞香が忘れられちゃ困るって、これを作ったんですって。あの人、手先が器用だったから」
 箸を止め、母が絵本を撫でる。朝重秋は瑞香を元にした架空の国を舞台とした作品を作り、それが平井家に渡った。美央が例の絵本を好んでいたからだけでなく、既に鳳凰の箏を託されて瑞香の存在を知っていた母たちを、朝重秋が信頼した故だった。
 まず清隆は、朝重家が本当に瑞香生まれなのか、どのような暮らしをしていたのか気になった。絵本は『芽生書』と関係があるのか、あるとしたらどこで内容を知ったのか。その上瑞香を忘れてほしくないとの思いにも、清隆は少し共感が湧いた。このまま瑞香が「ないもの」として扱われることを、厳しく考えていた折にちょうど良い。
 朝重秋は現在何をしているのか清隆は尋ねたが、途端に母が口ごもった。隣の父が視線を彼女に投げ、話す機会を探っているようでもある。
「私もその朝重殿に会いたいのぅ。さぞ話が弾みそうじゃ」
 麺を一本一本啜っていたシャシャテンが無邪気に問う。互いの顔も見ず黙っていた両親だったが、やっと父が言葉を押し出す。絵本を渡した朝重秋は、その後急に考えを改めた。娘が昔と違って不安定になった瑞香に関わったために、不幸になってしまうのではと。
「心配のあまり、娘さんがこれ以上瑞香のことで苦しい思いをしないで済むよう、手に掛けようとした。そこに旦那さんが帰ってきて――」
 朝重秋は、混乱に陥った。娘が眠っている隙に殺す現場を見られそうになり、夫に何か言われるのを恐れたのだろう。衝動的に彼女は、娘に向けていた包丁を自らの胸に刺した。
「たまに情緒不安定なところがあった人だったけど、あんなことになるなんてね……」
 母も絵本の端を握り、遠くをぼんやりと見る。誰も食事には手を付けておらず、うどんはただ冷めるがままになっていた。

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