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六段の調べ 序 四段 六、乙女の祈り

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序・初段一話へ


 すぐに体が動かず、打たれると覚悟する。それも束の間、清隆は横から突き飛ばされて床に倒れ込んだ。ゆっくり起き上がると、清隆の立っていた所には北がいた。彼は左胸の上辺りを押さえて、薄く笑っている。
「不老不死なんて、ぼくにはどうでもいいね」
 伊勢は鞭を収め、自分から死を望むような北の行動に苦言を述べる。
「死を恐れない人なんて、いないはずなのに。あなたは――どこかしらおかしいのでは?」
「まぁ、周りからは変わりものって思われているだろうね。少なくとも、死ぬことは怖くないね」
 絶句する伊勢に、北は平然と言い付ける。その声は空気に溶けそうながら芯があり、清隆にもよく聞き取れた。
「誰もが不老不死を望んでいるとは限らないよ。そんな人は瑞香でも、もちろんいるんじゃないかな?」
 北の話に、伊勢が顔を引きつらせた。しならせた鞭を床に叩き付け、大友の脅威になりかねない男を威圧する。
「敵になりそうな人は、消すつもりなのかな? たぶんあなたは、拷問のときに人を殺してしまうこともあっただろうね。今あなたがここで誰かを殺してしまったら、嫌いだと言っていた拷問吏の時代と何も変わらなくなるよね」
 いつ襲おうか見計らうように北を睨んでいた伊勢は、鞭を強く握り締める。その時、じっとピアニストを見つめていた美央が口を開いた。その顔色は、先ほどよりいくらか良くなっている。
「北さんはほかの人とは違う――『人でなし』なんですか?」
 北は一瞬目を丸くし、首を傾げた。「人でなし」とは何なのか。問い掛けた北に、美央は答えない。きっと自分でも分からないから、人に答えを求めたのだろう。やがて妹は俯き、顔を上げようともしなくなった。その間に、伊勢がシャシャテンをまっすぐ見据える。
「六段姫、わたしがあなたを殺してあげます。四辻姫の代わりに」
 言葉をすぐに呑み込めず、清隆は伊勢を見る。
「四辻姫は昔からあなたを憎んでいます。今も殺すときをうかがっていますよ。実の伯母に殺されるのは、わたしにとっても哀れでたまりません」
「また戯れ事を言いおって。伯母上が斯様に考えるわけがなかろう」
 シャシャテンは同じことを前にも聞いたようだが、断固として受け入れない。それに溜息を漏らし、伊勢がシャシャテンを睨む。
「相変わらず伯母のことになると、何も見えていませんね。……これは知らないまま死んだほうが、仕合わせでしょう。それよりわたしは――なんとしても宮部さんと陛下の思いを叶えねば!」
 しなった鞭が振り上げられる。それがこのままシャシャテンの方へ向かっていくと見えた矢先、伊勢の姿勢が前に崩れた。鞭を手放して座り込む彼女の後ろには、抜き身の刀を持った着物姿の男が立っている。
「陛下にお仕えする者でございます」
 そう称した男は、呆然とする清隆たちにこの部屋を出るよう促した。彼の背後には瑞香から繋がる火の輪があり、ずらずらと人が出てきては伊勢に縄を掛けていた。
「待て! そなたたち、何を勝手に私の仇討ちを妨げておるのじゃ!」
「向こうに事情があるかもしれないだろう」
 突然の事態に混乱して喚くシャシャテンを制し、清隆は何があったのか男へ尋ねる。
「陛下が日本の者を誑かした伊勢殿の勝手に、憤っておられます。そして我が国の存ずることが日本に広まる点を、危ぶまれています」
 清隆はすぐ、その発言が引っ掛かった。日本との交流を進めたいなら、瑞香の名が日本に知られていくことは受け入れるべきだろう。伊勢もその不自然に気付いたらしく何か言いかけたが、後ろで自身の手を縛っている者に阻まれた。
 瑞香から来た者は、騒ぐシャシャテンを落ち着かせようとしつつ、清隆たちを無理やり廊下へ追いやった。そして伊勢の様子を眺めて固まっていた美央にも退室を求める。来訪者に背を押されたまま扉へと向かっていた彼女は、突然思い出したように奥の部屋へ走った。そして持ってきた鞘入りの短刀を伊勢に投げ、出口へ向かう。
「約束、忘れるところでした。お返しします」
 既に手は使えず自力で縄が切れないにもかかわらず、伊勢は足元に落ちた短刀を見ると美央へ笑い掛けた。その口が何かを伝えるがごとく動いた時、清隆たちを追い出した瑞香人によって扉が閉められた。内側から何かで止まっているのか、すぐに引き戸は開かなくなる。それに抗議してシャシャテンは扉を叩いて叫び続けたが、答えは返ってこなかった。
 ようやく戸が開くと、瑞香人は驚いたようにシャシャテンを見た。
「もう皆様方は、ここで何をする必要もございません。伊勢千鶴子は、我々の手で処断しました」
 自分が殺そうとした相手が死んだことを受け入れられないのか、シャシャテンは放心したまま動かない。彼女を横に、清隆は部屋の中を覗こうとしたが断られた。本当に伊勢は、殺害されてしまったのか。問おうとして、肩に手が載せられる感覚があった。
「ぼくたちには、何もできないんじゃないかな。……帰ろう」
 北に促され、清隆は階段に足を向ける。その直後、隣を通り過ぎて妹が逃げるように駆け下りていった。
 
 
「美央。そなたはなぜ、あやつに手を貸したのじゃ」
 外に出てもしばらく顔を押さえていたシャシャテンが、袖から目だけ出して美央を見る。まさかあの人がシャシャテンを殺そうとしているとは知らなかったと、妹は伊勢に引き込まれた経緯を明かした。そしてシャシャテンと信の名を挙げ、彼らに向き合う。急に呼ばれた二人は顔を見合わせ、困惑を隠さなかった。
「まさかこんなことになるなんて思わなかった……。ごめんなさい。シャシャテンも、生田さんも。わたしは――」
 言葉の代わりに、嗚咽が妹から溢れ出る。何度も目元を袖でこすりながら、彼女は何か言おうとしている。そんな美央の背へ、シャシャテンは両袖を回した。伊勢への怒りなど、すっかり遠くへ行ったような微笑みを浮かべている。
「悪いのは誘い込んだ千鶴じゃ。そなたは気に病むな。じゃからもう泣くでない、その愛らしき顔が崩れてしまうぞ」
 ぱっと美央が顔を上げ、赤く腫れた目をさらした。その視線がシャシャテン、次いで信に向けられる。わずかに美央が彼を凝視していたと清隆が思った瞬間、妹はシャシャテンから離れて走りだした。誰が呼んでも振り返らず、彼女はビルの角を曲がって姿を消す。
「……美央さん、おれのこと嫌いなのかな?」
「憎いのであれば、そなたを消すのを止めんとはせぬじゃろう」
 ぽかんとする信へ、シャシャテンは安心させるように告げる。ひとまず、彼らは危機を免れた。なぜ妹が気に食わなかったかは分からないが、少なくとも嫌い抜いているようには見えなかった。
 そばに立っていた北を、清隆は振り返る。わざわざ巻き込んでしまった詫びと、自分を庇ってくれたことへの感謝を述べる。何ということもないと北は笑い、独り言のように零した。
「それにしても『建国回帰』がね……どこかで聞いた気がするんだよね。いや、なんでもないよ。忘れてほしいな」
 その言葉の意味を知りたかったが、すぐにはぐらかされた。ゆっくりと歩き始める北に続き、清隆たちも惨事のあったビルを後にした。

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