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六段の調べ 序 四段 一、丁子色の髪の乙女

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序・初段一話へ


「美央先輩、お久しぶりです!」
 帰り際、学校の玄関で呼び止められた美央は、後ろにいた人物へ振り返った。ややあって、部活で見覚えのある後輩と分かる。九月の半ばになり、コンクールを終えた三年生は受験に専念するため、仮引退として部活には行かなくなっている。今日の吹奏楽部は休みなのか、授業が全て終わってから後輩も帰ろうとしていた。
 三年生がいないのは頼りないなどと聞きながら、美央は今自分が話しているこの女子生徒がどのパートで、学年や名前は何だったか、辿るにも全く頭が働かなかった。ただ「同じ部活の人」という認識で止まっている。
 外はいくらか雨が降っていた。学校を出て自分とは反対の方へ歩いていく後輩と別れ、美央は折り畳み傘を差しつつ家へ足を進めた。人の顔と名前を覚えるつもりなど、美央には最初からなかった。友人を作る気もなければ、そもそも人に興味がない。時々教師が心配してくる以外は煩わしい人間関係への悩みもなく、ある意味平穏な日々を送っている。――「普通」の人から見れば、自分は一人を好む変わった存在と思われているだろうか。
 歩きながら何気なく上に目をやると、細長い影が傘にぶつかっては曲面を滑り落ちていった。足元には細長い糸に似たものが散らばっている。明らかに、雨と混じって異物が降り注いでいるようだ。
 いつか箏の授業で、教師が言っていたどうでも良いはずの話が蘇る。箏を弾く際には、固い糸を押して音を変える技法を使う。よく指の腹に糸の痕が付いたが、その教師は前向きだった。仮に空からピアノ線が降ってきても、素手で掴めるかもしれないと。
 まさかそれが現実になっているのか。地面に落ちた銀の糸をなるべく踏まないよう、美央は家路を急ぐ。すると今度は、爪先に紙が触れる感覚があった。掌ほどのそれを何となく拾うと、周りでも同じような紙が雨や糸と共に落ちていた。
 歩道の端で立ち止まり、美央は雨で墨が滲んでいる文章を見る。割と一画一画がしっかりしているそれを読もうとした時、少し前方で声を聞いた。
「六段姫をご存知でございますか?」
 その名はシャシャテンの本名だったか。美央が顔を上げると、声のする方から火で出来た輪の中に畳が広がっているのを見た。奇妙なそれに遠ざかろうとしても、自分を呼ぶ声がやまない。
「どうか話を聞いてください。少しだけで構いませんので」
 とうとう諦めて美央が輪に入り込むと、後ろでそれが瞬時に消えた。傘を畳み、靴を脱いで部屋の隅に置く。
「わざわざ瑞香へ呼んで、申し訳ありません」
 調度の何もない部屋に、美央を呼んだ声の主が座っていた。白い着物の下にある、赤い袴が目を引く。伊勢千鶴子と称する彼女は、美央へ近寄るよう促してきた。言われたままにした美央は、早速六段姫と同居しているか問われ、頷く。
「あなたは確か……鳳凰の箏を預かっていたお家の方でいらっしゃいましたね。あのお箏には、わたしも思い入れがありまして――」
 箏が日本に預けられるまでしばらく持っていたのだなどの話を聞かされる。伊勢なる女のやたらうっとりした語りも、美央はざっと聞き流した。神器だか何だか知らないが、もう家にない品など、どうでも良い。
「……というわけで、わたしは瑞香と日本の双方に縁があります。この国にも何度か出向いていましてね。此度はぜひ、六段姫をわたしのもとに呼び寄せたく思っています」
 そう言った伊勢は、ふと顔をしかめて続けた。普通に呼んでも、六段姫は来ない。そこで別の方法を考え、自身のもとへおびき寄せようと算段を立てている。
「そのためにぜひ、あなたの手を借りるべくお呼びしました。日本にいる方が力になってくだされば、よりうまくことが進むかと」
 伊勢はどこで自分を知ったのか。面識のない人から、訳の分からない提案をされている。誘いに乗るか迷っていると、打って変わってシャシャテンとの暮らしはどうか聞かれた。本人にも黙っていた好奇心を、美央は思わず口にする。
「あの人、『人でなし』なんですよね? 傷がすぐに治って、不死鳥の血がなんとかって」
 今まで会ってきた人間と明らかに違う存在が、美央の興味を誘った。「異常」という点に、ひどく惹き付けられる。だが同時に、そんな居候に関心を抱いていることが美央には気に食わなかった。人に興味はないと長く思っていたのに、それが変わってしまったようだ。
 彼女はいくらか人にあらざる血が混ざっているようだから、「人でなし」と見ればまだ耐えられる。しかしそうなると、もう一人の存在が引っ掛かる。五月ごろに北の家へ行く前、髪を褒めたその者にどう接すれば良いか分からなかった。あの時の戸惑いは、これまで感じたことがなかった。瑞香で土産を買い忘れた折もすぐ許したが、しばらくして心に雲がかったような気分が抜けなかった。以前なら、そんな些細なことなど無視できたのに。
「――つまりあなたは、その方々が気に食わないと?」
 いつの間にか美央は、得体の知れない女に思いを打ち明けていた。相手はしばし考え、柔らかい笑顔で勧める。
「なら、お二人を困らせてみては? 直に手出しをしなくとも、親しい方が騒がれているとなれば、胸が潰れるかもしれません」
 美央が言い返す言葉も浮かばないうちに、伊勢は話を続ける。
「術はいかがしましょう? どうぞあなたの好きにお考えください」
 自分からやりたいと言い出してもないのに、伊勢はこちらが作戦に乗るものと決め込んでいるようだ。黙っている間に、相手の視線が自分の髪に注がれているのを感じる。
「その髪、日本でも珍しいものでしょう。周りと違う分、思いを持っているのでは? それを使いましょうか」
 確かに髪色が生まれつき明るい点を、周囲から不可解に指摘されてきた。しかしそれに関して、何か感情を持ってきただろうか。あの者に言われたことは除いて。
「この国でもあなたのような人はいますが、やはり扱いは悪くて。どうでしょう、日ごろの怒りを晴らしてみるというのは。たとえば……あなたとは違う、生まれながらに黒髪の者を襲うとか」
 髪をわずかに切るだけだが、黒髪の輩を恐れさせるには十分だろう。こちらでも動いておくので協力してほしいと言って、伊勢はわずかな間部屋を出た。戻ってきた彼女の手には、鍔のない短刀が握られている。これで黒髪を切り取れというのか。
 なすがままに渡された武器を眺めていると、背後で炎の上がる音がした。伊勢の手先に、ここへ来た時と同じ火の輪が見える。
「また呼ぶかもしれませんが、今日はここまで。あなたが何をなさるか、楽しみにしています」
 すぐ短刀を通学鞄へ仕舞い、伊勢に背を押されて元いた場所に戻る。空からは雨しか降っておらず、持っていた靴を履いて傘を差しながら美央は歩きだす。急に、話に聞いていただけだった瑞香の人と関わってしまった。流されるようにして伊勢に協力することになったが、やる気にはなれない。ただ利用されたという感覚だ。
 別に自分は何もしなくても良いだろう、と美央は考えた。伊勢も独自に動くと言っており、わざわざ自分が出る必要もない。他人に興味はないのだから、他人を傷付けるつもりもない。
 それにしても伊勢とシャシャテンは、どのような関係にあるのか。その辺りにまつわる話は、全く聞けなかった。次に会えるのはいつになるか、美央は思考を巡らせつつ足を進めた。

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