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六段の調べ 序 六段 五、瑞香の春

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序・初段一話へ


 三月に入り、外は急に暖かくなってきた。それを体感しようとも思わず自室で過ごしていた美央のもとに、一件の連絡が届いた。スマートフォンの画面には、朝重れいの名がある。「遠いところで手伝いをしてくる」といった旨の内容だった。同い年の彼女は、一体何をするつもりなのか。
 階下から箏の音が聞こえない。シャシャテンの様子が気になって、美央は和室に向かう。居候は窓際の畳で日差しを受けながら、広げた紙を見つめていた。
「おお、そなたも気になるか? 何、瑞香のことじゃが」
 シャシャテンのそばに座り、美央は四辻姫から届いた手紙の内容を聞かされる。先日行われた大友の葬儀には、多くの民が集まった。四辻姫が殺害したとは伏せられ、公には病死として人々に知れ渡っている。それがシャシャテンには、どうも腑に落ちないようだった。王という立場の体面を守るためとはいえ、事実を伝えられないことがもどかしい。民がこの先、何も知らずに生きると思うと心苦しくなるなど、ぶつぶつ呟いていた。
 神器は無事に四辻姫へ渡り、女王即位の準備も出来ている。まさに瑞香は、新たな春を迎えるだろう。自分の行動は直接役に立たなかったものの、伯母を再び女王にすることは成功した。それに誇るシャシャテンを、美央は静かに睨む。彼女の伯母と聞いていた人を初めて見た時、全身を寒気が走た。そこから嫌な予感はしていたが、王の殺害でそれは的中した。
 四辻姫など、シャシャテンの言うような立派な人物ではないのではないか。日本に帰った後、その不満を零していたら兄に注意された。くれぐれもシャシャテンの前では口にするなと。
「そうじゃ、美央。初めての瑞香はどうじゃった? あまり見て回れなかったが、良かったか?」
 シャシャテンに問われても、美央は口を噤む。四辻姫の悪い印象しか頭に残ってないなど、言えるはずがない。ここで本音を漏らして居候の怒りを買ったら、厄介事になる。そもそも伊勢と会った際に瑞香へ行っていたので、あれが初の訪問ではない。
 黙っていると話が変わり、今後について聞かれた。次の月から、桜台高校への入学が決まっている。受験では色々あったが、何より北の母校であるだけで悔いはない。
「高校でも吹奏楽とやらは続けるのか?」
「もちろん。できればオーボエをね」
 納得するかのように、シャシャテンが一つ頷く。それからいきなり、月末に行なわれる兄の発表会に誘われた。こちらにも学校の定期演奏会があると、美央はきっぱり断る。
「何とのぅ、そなたと行きたかったのじゃが……。嗚呼、北殿も清隆の晴れ姿を見に行くと言っておったぞ」
 北の名が耳に入るなり、自然と背筋が伸びた。どうやら母の教える箏教室に入った北が発表会の観覧を彼女に伝え、そこからシャシャテンに情報が入ってきたようだ。憧れるピアニストと音楽を聴く機会など、滅多にないだろう。だが中学校生活最後の定期演奏会も、疎かには出来ない。悩んだ末、自身の用事を優先した。
 眉を下げ、シャシャテンは壁に立て掛けてあった箏を畳へ置く。琴柱を動かして調弦する彼女を見るうちに、ふと一大事かもしれないことが思い出される。
「……そういえば、高校に入ったらもう箏は弾けないかも」
 進学先には、箏の部活や授業がない。じっと糸のはじかれる音を聞きつつ、その事実を頭の中で繰り返す。しばらくして、部屋が静かになった。いつの間にか糸から手を離していたシャシャテンへ、美央は顔を向ける。
「のぅ美央、私が直々にそなたへ箏を教えてやろうか?」
 こちらが答えるより先に、シャシャテンは嵌めていた箏爪を美央の指へ合わせようとしてきた。指を入れる輪は、少し狭い。一回り大きい方が良いか苦笑する居候を見ていると、急に熱が胸元へ湧き上がってきた。ここで箏を捨ててしまうのは惜しい。せっかく指導しようとしてくれる存在がいるのだから、誘いに乗らない手はない。
 気付けば美央は、力強く頷いていた。
「うん、お願い。箏は好きだから、もっとやってみたいし」

 
 大友の死後、清隆が登下校中に人の視線を気にすることはなくなった。授業も落ち着いて受けられ、命を狙う脅威がなくなったと改めて実感する。八重崎にも心配はいらないと伝えたが、結局瑞香については何も言えずじまいだった。これから再び、自分が瑞香の事件に巻き込まれないとも限らない。その時に備えて、彼女に本当の話をして良いのか。
 悩みながら時が過ぎ、そろそろ修了式が近付いていた。部活が終わってもさほど暗くない帰り道を清隆が歩いていると、だいぶ前にも耳にした走り寄る足音が後ろからしてきた。立ち止まって振り返り、やはり八重崎だったと分かる。出会ったころより髪は伸び、一つに結べるほどになっている。
「最近、悪の組織に狙われてない?」
 相変わらず心配そうな彼女に、とりあえず悪の組織と関係はないと言っておく。
「もう俺のことなら大丈夫だ。だのになぜ来た」
「……迷惑だった?」
「いや、そんなことはない」
 妙に回りにくい舌で答え、久しぶりに八重崎と同じ道で帰る。彼女に窮地を救ってもらったのも、なぜかずっと前に起きたようだった。
 もうすぐ、清隆が桜台高校の吹奏楽部に入って一年になる。それが早いと八重崎が呟いてから、急にこちらへ顔を向けた。
「一年なんて短い間だったけどさ、清隆くんの音は結構よくなっていると思うよ。コンクールにも出られる、たぶん!」
 それが自分の機嫌を取るための言葉ではないかと、清隆は軽く疑う。さすがにそれが叶うほど成長はしていないはずだ。
「……そんなこと言われても、あくまで先輩がそう思っているだけだろう」
「まぁ、そうだろうね。先輩方も引退して、誰も入ってこなかったらテナーのオーディションもなくなるだろうし。――でも少なくともわたしには、清隆くんはちゃんと伸びてるように見える。自分じゃ分かりにくいかもしれないけど」
 八重崎に念押しされ、この一年で自分がどう変わったか清隆は考える。音楽をやる自信を取り戻しただけではない。何しろ、シャシャテンに出会ったことが大きかった。彼女や瑞香を知らなければ、今ごろどうなっていたか。瑞香に縁のない生活をする自分が、もはや想像できない。ただ、今の自分よりは退屈な日常を送っているように思える。それほど瑞香は刺激的で、同時に惹かれる点も多かった。四辻姫が即位し、シャシャテン曰く「春が来た」国は、これからどうなるのか。そしてまだ知らない瑞香の一面も、探っていきたいものだ。
「ところで清隆くん、仮入部に長く来てくれたわりには、入部が遅かったよね。何かあった? そもそも、なんで入ってくれたの?」
 八重崎の言葉が、清隆を現実に引き戻す。入部へ至るまでの記憶をゆっくりと辿り、清隆は口を開く。後押しにも一役買っただろう居候の存在は伏せて。
「俺はやはり、音楽を捨てられなかったみたいだ」

 
 思えば大友の刺客を警戒していた間は、なかなか練習に身が入らなかった。それが本番直前になって気になり始め、控室で清隆は楽譜を見返す。あの時、書き漏らした指示はなかったか、注意を意識できるかと一気に不安が募る。同時に、大事な時分に慌てる自分が恥ずかしく思える。
 興奮で騒いでいた周りの部員たちが、顧問の指示で静まり返る。そろそろ舞台袖へ移るころのようだ。列になって歩き始め、清隆も楽譜の入ったファイルを畳むが、胸騒ぎは収まらない。その時、少し後方にいたはずの八重崎が足を速め、隣に近い所で清隆に囁いた。
「あんまり考えすぎるなよ! なんとかなるって」
 舞台袖で待機しながら、自分はいつも瑞香のことで気を張っていたと清隆は思い返す。あの国と縁があるとはいえ、自身も普通の暮らしがある一介の民に過ぎないのだ。それでも頭から離れないのは、やはり瑞香が身近に思えている故かもしれない。ファイルを小脇に抱え、開演のベルが鳴るのを待つ。
 照明の付いていない舞台に上がり、一通りのチューニングを終える。まだ演奏まで時間がありそうだったので、清隆は客席を見渡してみた。そこにいたのは、前もって来ると言っていた信だけではなかった。相変わらず長い髪をまとめない着物姿で目立ちそうなシャシャテンや、ここにファンがいれば興奮しかねない北の姿もある。予想もしていなかった顔ぶれに、清隆は驚きを面に出さないよう努める。舞台に立つ者として、観客がどのような反応をするか、恐れもあり、楽しみもある。吹いている方はもっと楽しいだろうと、かつて信は話していた。今回は、それを感じられるだろうか。
 指揮者である女性顧問が入ってきた。譜面台の上にある楽譜を一瞥している。これから演奏するのは、この発表会で練習するまで題も知らなかった曲だ。しかしどんな曲であれ、演奏中に思うことは一つであってほしい。清隆は客席から指揮者へと目を移し、指揮棒が振り下ろされる時を待った。

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