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六段の調べ 序 六段 四、私は夢に生きたい

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序・初段一話へ


 流血の広がる室内を後にし、清隆たちは四辻姫に案内されて廊下を行く。歩いていた信が立ちくらみを起こし、倒れかけた彼をシャシャテンが支える。至って平静だった美央も、その様子を見て信に一声掛けた。彼の無事を確認してから、清隆は強く握られた温もりの残る短刀を見下ろした。
 先ほどの出来事をいまだ呑み込めていない。シャシャテンの脅威として立ち塞がっていたように見えた大友は、呆気なく死亡した。目の前で起きたことながら、なかなか素直に現実を信じられない。
 連れて行かれたのは、大友の部屋がある清涼殿を出てまっすぐ北にある部屋だった。鳥居障子が並ぶ廊下の突き当たりにあるそこは、何の調度もなかった。室内を囲む障子には大きく、柳の木と小さな鈴のような花を横にいくつも付けた植物が描かれている。入室した四辻姫が奥に座し、四人へ向き直った。
「驚かせてすまぬのぅ。じゃが、これで大友の世は終わりじゃ。ついでにな――」
 清隆たちが腰を下ろした後、四辻姫は懐から小さな紙が折り畳まれたものを取り出して姪に渡した。シャシャテンがぼうっとそれを見る中、四辻姫も同じような袋を手にする。
「むつ、そなたにも再三頼んだであろう。今がその時じゃ。――私もすぐそなたに従う。心を決めよ」
 シャシャテンが黙ったまま、手元の袋と四辻姫へ交互に視線をやる。彼女が持っている包みには何が入っているのか。清隆がそれを見つめる間に、シャシャテンが弱々しく呟く。
「……伯母上、本当にされるおつもりか? 確かに私たちは毒に弱いが――」
 妹は、シャシャテンが毒に脅されたと言っていた。それを思い出して、清隆は立ち上がる。
「まさか四辻姫、シャシャテンを毒殺するつもりなのか」
「私が殺めるのではない、むつ自らが為すことじゃ。しかし幾度も断ってきてのぅ」
 四辻姫が懐に手を入れ、ここ数日シャシャテンから彼女に届いたという手紙を出す。大友の体調が危ういとはかねてより囁かれており、もし彼が急死すれば王位は四辻姫へ戻ることになっていた。しかし瑞香の民は、大友の作り上げた世の中にようやく慣れてきたところだ。王権が大友に渡る前と同じ世にしたいと思っていた四辻姫は、急な変化による民の戸惑いを案じている。
「じゃから、ここで民には好きに生きてもらうのじゃ。上に立つ我らのことを忘れてのぅ。王家が消えれば、民の中から相応しき王が勝手に選ばれるじゃろう。大友の如き世を生むも良し、新しく国の形を作るのも良しとしよう」
 王族が滅んだら、逆に民は混乱するのではないか。清隆はそう考えて伝えるが、四辻姫は否定した。そしてまだ袋を凝視しているだけのシャシャテンに、早く中身を飲むよう促す。
「そなたは伯母思いの良き姪であった。私が何を言おうと、大方最後には聞き入れてくれたではないか。此度もそれと同じじゃ。何、死など恐るるに足らぬわ」
 シャシャテンの小刻みに揺れる指が、袋へと伸びていく。蓋のように折られている紙に触れ、今にも開けようとしている。それをすかさず清隆は奪い取り、開いていた鳥居障子から廊下を飛び越さんばかりに投げ捨てた。口を半開きにして青ざめるシャシャテンに、清隆は正面から向き合う。
「なぜここで死のうとするんだ。お前は、五色姫の言っていた『立派な女王』になるんじゃなかったのか!」
 知らないうちに語気が荒ぶる。助けようと居候まで許した彼女を、ここで死なせるわけにはいかない。清隆が長く睨んでいると、シャシャテンの目に涙が盛り上がったように見えた。
「しかしのぅ――分からぬのじゃ。私でも、その『立派な女王』が何か、分からぬのじゃ!」
 声が裏返りそうなほど叫んだシャシャテンは、袖で嗚咽を押さえ付けた。初めは民を知ることが大事だと考えて日本で暮らしていた彼女だったが、この一年で故国との違いをまざまざと思い知った。日本は西欧から取り入れた見知らぬ品や文化で溢れ、そこには憧れや興味だけでなく恐れもあった。瑞香で役に立ちそうなものはあるが、民がすぐ理解して受け入れてくれるはずがない。長い間伝統的に独自の暮らしをしてきた分、新しいものへの抵抗は強いだろう。
「瑞香は遅れておると思い知ったぞ。じゃが、今さら西欧の文明とやらを受け入れて何になる? 民は余計、怪しき奴を除かんとするぞ。それにのぅ、日本に住む民の様を――高い技を持ち豊かに暮らす様を知った所で、瑞香と違いが大き過ぎる! あんなもの、瑞香の民に通ずるか分からぬではないか! 私が得たことなど……何の役にも立たぬのじゃ!」
 シャシャテンが袖で顔を覆い、声を上げて泣き続ける。四辻姫のために動いてきたことが無駄であったように、日本での暮らしも意味がなかったと思っているのか。清隆は彼女に視線を近付けようと座るが、掛ける言葉が浮かばない。
「……別に真似なんてしなくていいのに。瑞香は瑞香なんだから」
 長く聞いていなかった低い少女の声に、清隆は誰のものか失念する。『芽生書』の真実を知っても、大友の死を間近で見ても顔色一つ変えなかった妹が、シャシャテンの袖を掴む。
「――それにあんたは、こんな人の言いなりになるの? 大事に思っていた人たちを捨てて?」
 いつになく棘のある言葉を、美央は呟いている。そして粘り付くような目を、シャシャテンに向けていた。
「わたしには、あんたの悩みなんてわかんない。女王になったシャシャテンがどうすればよいかなんて、答えられない。わたしが簡単に言う資格なんてない。――でも、伯母さんに従うのは間違っている」
 元女王が聞いているのも無視し、妹は続ける。
「平気で死ねと言うような人に、あんたはついて行くの? だいたい、あの人はシャシャテンが言っていたようないい人なんかじゃ――」
「美央、ここは伯母上の御前ぞ!」
 シャシャテンが窘める先で、四辻姫の瞳に冷たさが走る。それに妹も気付いたのか、すぐ口を閉ざす。
「……まぁ、それはそれとしてさ。瑞香には瑞香のいいところがあるよ。瑞香は遅れてなんかないよ!」
 代わりに信が話しだす。シャシャテンを励ますような言葉を紡ぐ彼は、いつもより少し早口になっている。
「それにどんな生活をしているかは違うだろうけどさ、平穏に暮らしたいとかそんな思いはどこだって同じじゃないかな? 瑞香の人だってそうだと思うよ」
 目元が赤いままの王女が、頬を緩めた。それを後押しするように、清隆はようやく思い付いた言葉を伝える。
「シャシャテン、お前はずっと思ってきた民に何かを出来てもいない。瑞香に帰ったら、少しでも日本で学んだことを、人々に分けてやれ。これまで曲げずに持ってきた心を、ここで捨ててどうする。――今死んだら、『立派な女王』どころか『女王』にさえなれないだろう」
 即座に俯いたシャシャテンの口から、やがて笑い声が聞こえてきた。
「……そうじゃな。ここで我らが滅べば、やはり民を思ったことにはならぬのぅ!」
 シャシャテンは四辻姫の手元に腕を伸ばし、袋を力いっぱい遠くへ投げた。呆然とする伯母の袖を引き、王女が耳のそばで強く訴える。
「伯母上、私はまだ死にませぬぞ。母上の望まれた女王になるのじゃ。民を思える女王に!」
 間近で大声を聞かされたからか、四辻姫の顔が曇ったように清隆は見えた。
「……むつ、そなたは我が妹が如何なる者だったか、知っておるか?」
 呆れながら問う伯母に、姪は迷いなく返す。
「私思いの母でございました」
 四辻姫は、しばらく口を噤んでいた。やがて言葉を一つ一つ押し出すように呟く。
「まぁ、そなたは母であるあやつしか知らぬから無理もないやもしれぬのぅ。そなたがそこまで決めたのなら……私も、死は取りやめるとするか」
 投げ捨てられた紙袋を名残惜しそうに眺め、少し下唇を噛んでから四辻姫は姪に向き直る。これから四辻姫は、再び即位の儀を行う予定だという。まだ王女であるシャシャテンはどうするか、その対応はすぐに決められた。
「むつはまだ日本に残っても良いぞ。学ぶのなら、一年だけでは足りぬじゃろう。どうやらこことは違うかの国で、存分に過ごすのじゃよ?」
 シャシャテンが目を瞬かせて清隆たちを見た。また勝手になっても良いかと、慎重に窺っている様子だ。そして彼女を拒む者は、誰もいなかった。
「という訳で、また世話になるぞ。これからもよろしく頼む!」
 シャシャテンの顔から涙の痕は消え、憧れていた国で暮らし続ける期待に満ちていた。再び騒がしい生活が始まるだろう。それでも清隆は厄介に思わず、むしろ彼女が残ることに安堵さえ覚えていた。

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