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六段の調べ 破 五段 五、瑞香の夜の雨

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序・初段一話へ


 手燭を片手に廊下を行きながら、前川は天井から聞こえる音で今の天気を悟った。雪が降る際のさらさらとした優しいものではなく、固く屋根に打ち付けて響くのは、この時期の瑞香では珍しい雨の音だった。久しぶりに感じた湿っぽい臭いと共に、それは強くなっていく。このまま降り続けば、積もっている雪は全て解けてしまいそうだ。もし黒い泥の混じったぬかるみのある雪上を歩かなければならなくなったら、それだけで気が滅入る。冷える足元に目を落とし、前川は自分の影を追うようにして主のいるだろう夜御殿へ足を進めた。
 四辻姫と向かい合うなり、袂に縫い目があると彼女に指摘された。下から縦に向かって伸びているそれをなぞり、前川は正直に明かす。今朝起きたら、枕元に置いてあったこの着物が所々切り裂かれていた。すぐに自分で直したが、不自然な縫い目がいくつもあるのはやはり見苦しい。今は正座で隠れているものの、袴の裾にも同じく縫い合わせた部分が数ヵ所あるのだ。
 四辻姫は腕を組んでいる。その視線は前川の着物に注がれ、何かを深く考え込んでいるようであった。そこに青簾の先から、あまり聞きたくない声が四辻姫に呼び掛けてきた。主に促され、山住城秀が入ってくる。確か日本で目撃されたという不死鳥を探していたはずだ。その彼は堅苦しい顔をしており、前川の中で悪い予感が駆け巡る。
 果たしてそれは的中した。山住が言いづらそうに伝えたのは、日本にいた不死鳥が梧桐宗によって捕らえられ、四辻姫が六段姫のもとへ送った太刀も盗まれたという知らせだった。これから梧桐宗の人々は、本格的に不老不死を目指していくだろう。禁忌が犯され、瑞香が変わってしまう――そう恐れる前川とは違い、四辻姫は冷静だった。むしろ口元には笑みさえ浮かべている。
「ご苦労であった。術はどうであれ、不死鳥がこの地に戻ったのは良いことじゃ」
 山住に顔を上げるよう促した四辻姫は、彼から目を逸らしながら続けた。
「しかし、むつの過ちは許されぬのぅ。あれほど大事なものを、何故易々と奪わせた?」
 今年の初めに極秘で見せられた、無銘「栄光」のことだと前川は気付く。梧桐宗に渡るのを懸念して瑞香から引き離された太刀だったが、逆効果になってしまった。四辻姫の呆れも当然だと前川が共感した矢先、山住の顔色が変わった。どこか責めるような冷たい目で女王を見、不満を募らせているようだった。
「陛下、太刀の奪われたことを全て六段姫様のせいになさるおつもりでございますか?」
 感情を押し殺していると思えながら、その低まった声には怒りが滲んでいた。四辻姫の表情もさっと強張る。黙っている彼らを交互に見つつ、前川は何か言うべきか迷った。そこに女王が諦めたように呟く。
「……これは私も悪いと言うべきかのぅ? 確かにあのまま封じておけば、この先も行方知れずとして済ますことが出来たものを」
 そして気を取り直し、四辻姫は不死鳥の様子がどうなっているか尋ねた。山住が諸田寺を探ったところ、不死鳥は庭で檻に入れられており、自力での脱出は難しいと見えるようだった。放っておけば、翌朝には不老不死を得るため梧桐宗信者たちに負傷させられるだろう。そう危ぶむ山住に、さりげないように女王が提案する。
「不死鳥を斬られるより前に逃がせば良かろう。私も諸田寺へ行くぞ」
「何をおっしゃいます、陛下!」
 山住が大声で反対し、六段姫やその恩人たちが既に向かう予定だと伝えた。日本にいるはずの彼らがわざわざ諸田寺へ赴く理由は、「瑞香と無縁でないから」だという。六段姫はもちろん、彼女から瑞香について聞き知った者も関心を持ち、禁忌が犯されようとしている由々しき事態に立ち向かおうとしている。
「――故に、どうか姫様方を止めないでいただきたく!」
 山住の訴えに、四辻姫は息をついた。何も言わず彼を退室させ、足音が遠ざかってから脇息に身を持たせ掛けた。前川の存在も忘れているかのように、姿勢を崩したままぼんやりとしている。ここは自分も引き下がろうと前川が立ち上がりかけた時、帳台の奥で炎が上がる音がした。日本から手紙が来たようだ。
 主に呼び寄せられ、前川は彼女のそばに移る。六段姫の送ったものだけでなく、差出人は不明だが賢順宛ての文がある。それを諸田寺に届けるよう頼まれ、前川は天井に耳を澄ませた。雨音はまだ続いており、雪はだいぶ解けているかもしれない。鬱々とした気持ちを抑え、前川は封を受け取って廊下に出た。歩きながら、危急の事態を倉橋へ連絡しようと浮かぶ。あの人なら頼れると思う一方、報告を受けて何をしでかすか分からない恐怖も、前川は感じていた。


 筑紫箏のか細い音が、雨に掻き消されそうだった。賢順は箏を弾く手を止め、僧坊の外に耳を傾ける。冷える指先に触れる糸を撫で、もう再会できない弟子を思う。一人は自分が教えた箏を広めようと努めながら、最後は敵を陥れるため燃え尽きた。もう一人は恩義のため卑賤から這い上がり、無様に最期を迎えた。彼らが死して一年以上が経っていると気付き、賢順は呆然とする。むごいことをさせてしまったと心の中で謝り、思わず両手で顔を覆った。
 自分に厚く心頼みを抱いてくれた二人のためにも、必ず不老不死を叶えよう。しかし雨が降り続いているのを聞いていると、胸に憂いが重くのし掛かってきた。雨のせいでせっかくの太刀が錆びないか、そもそも打たれて千年は過ぎている武器で不死鳥を斬れるのか。
 思いを吹っ切るべく、賢順は自室から出る。宛てもなく廊下を進んでいるうちに玄関へ着く。引き戸を開けると、部屋で耳にした時より雨が地面や屋根を打つ音が強く聞こえてきた。石灯籠に入れてある火も弱まっているのか、その明かりはどこか心許ない。ぼんやりと賢順が眺めていると、言い合う声が風に乗ってきた。靴箱から出した草履を履き、傘を差さずにとりなしへ向かう。
 衣も濡れる中、僧坊の裏にある庭へ足を進める。案の定、檻に入っている不死鳥とそれを見張っていた弟子が何やら言い合っていた。自分よりもずっと濡れて寒いだろう弟子へ僧坊に戻るよう勧め、彼が去った後で賢順は不死鳥に向き直る。天井と床は木で、縦に並ぶ格子は鉄で作られた檻に閉じ込められながら、鳥は己を嘆きもせずじっとこちらを見ている。
「あなたはこんな雨の中でも、冷えて病になどならないのでしょうね」
 ぼそりと問うた賢順を、不死鳥が静かに睨んでくる。仏の道を追い求め解脱を目指すはずの僧侶が、なぜ欲深く生きようとするのか。不死鳥から来た謗りに、賢順は淡々と答える。浄土へ行く望みは捨てた。元から死なないのであれば、死後の世である浄土へ向かう必要もない。死しても魂は滅ばず輪廻するという話も、聞き入れなかった。前世や来世などより、今生きている時が大事であろうに。
「法師でありながら、何と馬鹿げた者でしょう。筑紫賢順斎」
「ええ、わたしは莫迦者に違いない。……これでも昔は、欲を振り切ろうとしましたよ」
 母の死に心が沈み、不老不死を願うも諦め、幼いうちに髪を下ろした。しかし十年ほどの修行も身に入らなくなり、ついには何があっても死の恐れが自分には付きまとっていると悟った。願いを捨てることも叶えることも不可能なのか。それにどうしようもなくなって崖から不意に身を投げたのは、十八の時だった。
「そこで、あなたのお仲間に救われました。不老不死になる時は力を貸してほしいと頼んだら、喜んで引き受けてくれましたよ」
 檻の中で黙っていた不死鳥が、わずかに目を見開いた。ここにはいない「恩人」ともいえる鳥は、伊勢が昨秋に日本を乱す折にも手を貸してくれた。空からありとあらゆるものを降らせ、梧桐の教えを異国へ伝えるにも一役買った。しかしその不死鳥の姿も、今の瑞香にはない。裏切られた心の痛みは、兄に先立たれた時にも等しかった。特に彼と親しい仲とはいえない。ただその願いを叶えられなかった無念が、僧侶の身を苛んでいた。
 己のわがままを聞き入れ、不老不死を瑞香の常にしようとした兄が亡くなって、随分と時が経つ。それでも彼を「殺した」者への憤りは、いまだ消えない。兄が生きていれば、もしかしたらもう少し早く不老不死を皆に与えることが出来ただろうに。湧き上がってきた思いを呼吸で整え、賢順は降りしきる雨に身を委ねた。水が絶え間なく衣を伝い、袖や裾から落ちていく。
「雪でないことに、童たちは嘆くでしょうか?」
「ほぅ、貴方が幼子を気に掛けるとは」
 鼻を鳴らす不死鳥に、賢順は目を閉じて返す。
「わたしにも子がいましたよ。ようやく己の足で立てたかと思えば、母に連れられてしまいました」
 還俗してから娶った妻は、不老不死を人々に説こうとしている自分を疎んで姿を消した。長く顔も見ていなかった子は、今や己を阻もうと動いている。恐らく自分を親とも知らず、話をしかと聞いている傍ら、裏で滅ぼそうと企んでいるのだろう。二十年も過ぎると、稚かった者もあそこまで勇ましくなるものだ。
 僧坊で眠りに就き始めているかもしれない弟子たちを起こさないよう不死鳥に言い付け、賢順はその場を離れた。部屋に戻ると、控えていた弟子が封を差し出してきた。四辻姫のもとから来たと言われたが、その字には見覚えがない。
 寝間着に着替えて紙面を広げ、次第に誰がこれを書いたのか分かってきた。文の最後には、その書き手も含めて何人かが明日この寺へ行くと記されている。彼らが来る前に檻周りの番を固めておかなければならない。そう考えながら、賢順は手紙を畳んで文机に置いた。この返事は、明日送り主に会ってから直に伝えようと決めて。

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