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六段の調べ 急 四段 六、夜の調べ

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「シャシャテンから聞いて気付いた。俺も前から先輩――あなたを思っていた」
 言っているうちに顔が火照ってくるが、それも気にしていられない。清隆は八重崎と同じく、一人で秘めてきたことを明かした。八重崎からどう思われているか気になり、その挙動に些細な感情を覚えた。そして瑞香にまつわる事件の中で、被害に遭ってほしくないと考え、彼女の意思も尊重せず引き留めもした。
 一年生の時に八重崎へ瑞香を教えなかったのも、彼女に傷付いてほしくなかったからだ。そのころから大事な存在として見ていたのだろう。そこまで思っていたのに、彼女の苦しみに気付けなかった自分が情けない。
「先輩をよく見ていなかった俺が悪い。その責任は全部負う。もうこれから、あなたをこんな風にはさせない」
 彼女を再び冷やかす者が現れれば、守ってやろう。今度は自分だけに意識を向けるのではなく、彼女のために動くのだ。もう死を思い悩ませはしない。
「……なんで、きみがそこまでするの?」
 清隆は長く息を吐いてから、その理由を伝えた。逸る鼓動を実感しながら、声を押し出す。八重崎の目が見開かれると同時に、彼女を囲む靄が少し遠のいていく。座っていた姿勢の崩れた八重崎が、後ろに片手を突く。
「いいんだよね? きみを信じても」
 その言葉が胸に刺さる。まだ不安を抱えている彼女の信頼には、応えなければならない。そして自分も、誰の言葉も疑っていたことから改めるべきだろう。
「……嗚呼、俺もあなたを信じる。だから先輩も、どうか」
 自分にも言い聞かせるように、清隆は決意と頼みを口にした。八重崎が無言で大きく頷く。しばらく彼女は下唇を強く噛んでいたが、やがて顔を袖で覆った。嗚咽混じりに、もう悩まなくて良いのか尋ねられる。清隆はすかさず肯定し、泣いている彼女を静かに見守った。袖越しに聞こえる声には、どこか安堵も混じっているようだった。これで八重崎は、ようやく救われるだろう。
「それにしてもさ、一人を思っているだけでここまで自分を追い詰めるなんて、いかれているよね」
 笑いを含んだ声が、八重崎から漏れる。顔が袖を離れ、うっすらと赤い目元が露わになった。輝きが戻ったような瞳を見るのは、少し気恥ずかしい。清隆は目を泳がせながら、八重崎の言葉に同調した。自分も彼女について色々考えていた点では、いかれていたのだ。
「そうだな。だが、こんないかれた者同士でやっていくしかない」
 周りの靄が薄くなっていく中、清隆は八重崎に手を伸ばした。そろそろここを離れるべきだろう。立ち上がった少女の手首を、そっと掴もうとする。しかし清隆の手に、人の持つ熱は感じられなかった。むしろ八重崎をすり抜けていく。清隆がそれに戸惑った瞬間、周囲の状況が変わった。
 消えかけていたと思っていた靄の色が再び濃くなり、八重崎を包みだした。彼女がこちらの手首に掌を回すが、触れられている感覚がない。やがて靄へ、八重崎が完全に溶けていきそうに見えた。薄れていく体を目の当たりにしながら、どうしようも出来ない。
 ここで失ってしまうのか。自分が心を決め、また受け入れてくれた人なのに。向こうから風が吹き上げる中、清隆はただ八重崎を掴んでいるはずの手に力を込めた。
 その時、硬い感触が清隆の顎先に当たった。風に煽られ、八重崎が下げているストラップの先端が何度かぶつかってくる。握る手に感覚がないのとは違っていた。清隆は咄嗟にそのストラップを掴むと、こちらに引き寄せた。そしてもう片方の腕を八重崎の背に回し、自分でも初めて聞く悲痛な声を上げていた。
「行くな、先輩――!」
 ストラップの手触り以外は、空気を掴んでいる感覚しかない。だが見下ろすと、まだうっすらと八重崎の存在が分かる。それを頼みに、清隆はより強く腕の中に彼女を留めようとした。そこに後方から遠く、声が聞こえてくる。呪文のような言葉を唱える主を、清隆はすぐ思い浮かべる。自分たちのことに夢中で、味方の存在を忘れていた。
 背中側から、清隆は強く引っ張られていく。靄は遠くに消えていき、眼下には目を閉じた八重崎がいる。それに安堵した瞬間、景色は和室へと切り替わっていた。畳の上に腰を下ろしていた清隆は、手元に何もないと気付いて思わず八重崎を探した。すぐに、そばの布団で彼女が横たわっているのを見つける。
 静かに寝息を立てている八重崎を眺めていると、これまで冥界の入り口とやらであった出来事が夢だったような気がしてくる。彼女が思っていると言ってくれていたのも、嘘だったのだ――。清隆がそう思っていた時、片手の甲に温かい感触が触れた。
 八重崎の目が開いている。清隆に思いを確認した後のように、それは光を湛えていた。布団から腕が伸び、こちらの手に重ねられている。清隆も再び、自分の顔が熱を帯びていくのが分かった。思わず振り払おうとしたが、八重崎持ち前の力でそれを阻まれる。この手を拒絶すれば、また自分と彼女の思いから逃げることになるのだろう。シャシャテンの指摘が脳に響いた。
 八重崎が清隆を見据え、口元を緩める。
「あそこで言い忘れたけどね。わたし――」
 続きの言葉に、清隆は思わず畳に顔を付けた。受け入れるよう、自分に言い聞かせる。彼女を信じていこうと決めたではないか。胸に手をやり、清隆はゆっくりと起き上がった。部屋の角には行灯が光り、周りも薄暗くなっていた。いつの間に夜となっていたのか。どのくらいあの場にいたかは分からないが、時間が経つのは早い。
「そなたたち、無事じゃったか。なら重畳、重畳」
 突然話し掛けてきた女に、清隆も八重崎も顔を向ける。賀茂と並んで奥に控えていた居候がこちらに来る。わずかに表情を強張らせた八重崎へ、シャシャテンが口の前に人差し指を立てる。八重崎の思いは誰にも言わないと約束した彼女は、そこから清隆を一瞥してきた。笑っている居候があの場でのやり取りを聞いていたのか怪しんだが、それを振り切って清隆は賀茂を見る。彼こそが、自分たちをこの部屋へ引き戻したのだろう。礼を言うと、賀茂は恭しく頭を下げた。
「貴方様がたがおられたのは、この世とあの世の狭間で御座います。死を望む人々を否応なく引きずり込む場と聞いております」
 あそこにいる人物は限りなくあの世に近く、生きている者は触れられない。しかしこの世から持ち込まれたと見られるストラップだけは例外だった。
「あれが如何なる品か、惜しくもわたくしめは存じ上げません。しかし清隆様がそれを手に取られた故に、八重崎様があの世へ引き込まれるのを遅らせる事が出来ました。いや、素晴らしきご機転で」
 そこまで褒められるべきかは分からなかったが、ともあれ一瞬の動きが八重崎を救ったのは間違いない。だが賀茂がいなければ、そもそもここへ戻ってこられなかった。彼に再び感謝を告げ、清隆はシャシャテンにも向き直る。
「お前のおかげで、俺は先輩の気持ちを知ることが出来た。ありがとう」
「礼には及ばぬよ。それで、そなたたちはこれからどうするのじゃ? まだ受験があるのじゃろう」
 清隆は八重崎と顔を見合わせた。確かに受験が終わるまでは、ゆっくりしていられない。その後もシャシャテンの結婚式がある。八重崎と演奏する機会があるとはいえ、二人で過ごす暇はほとんどないだろう。
「卒業してから、また考えるか。先輩と俺のことも、他には黙っておこう」
 まだしばらくは、八重崎も周囲の反応を気にするだろう。それを懸念して清隆が言うと、八重崎が頷いて笑みを向けた。この一年では久しぶりに見た、彼女の晴れやかな顔だった。

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