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六段の調べ 急 四段 一、オーメンズ・オブ・ラブ?

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序・初段一話へ


 十月ともなれば、受験勉強は佳境に入る。他の生徒がどのくらい勉強しているか、清隆は知らない。それでも休み時間中にほとんどのクラスメイトが参考書や単語帳などを開いている教室の様子から、その熱度は推し量れる。しかし力が入り過ぎたかストレスか、ここ最近は体調不良で学校を休む者も出てきた。そして八重崎も、自身の席で顔色を悪くして座っていた。何か本を開いているが、表情はぼんやりとしている。
「努力は報われるとか言ってるけどさぁ、さすがに体を壊すまで勉強させるのはどうかと思うよ?」
 教師の話を挙げ、清隆と共に八重崎の机を囲んでいた信が呆れる。担任は受験勉強中に桃しか食べられなくなった生徒について語っていたが、あれは悪い例なのではないか。小言めいたことを口にし、信は制服のポケットに入れていた菓子を八重崎に渡した。そして清隆も、ついでのようにそれを貰う。
「……やっぱ、勉強って気分じゃないや」
 本を手にしたまま、八重崎が机に顔を伏せた。学校自体を休んでも良いのではと清隆は勧めたが、首を振られる。周りに置いていかれるのが不安らしい。
「そうやって悩んじゃうのがよくないんじゃないかな。そんなことより、おれは起きてる時間なんて忘れて、ずっと寝ていたいなぁ。寝るのって大事なんだってね……」
 今後への心配など微塵も感じさせないかに見える信は、自席に戻るなり机に額を付けて眠り込んでしまった。あと数分で授業が始まるのだから、彼が望む通り「ずっと寝ている」わけにはいかないだろうが。
 清隆は誰もいない机が目立つ教室を見回した。勉強している生徒だけでなく、友人と談笑している者もいる。特に笑いなどが響くと、集中を削がれかねない。家にいる時はどうか八重崎に尋ねると、そこでもあまり落ち着かないようだった。
「だったら、自習室はどうだ。あそこは静かだから、少し変わるんじゃないか」
 一階にある、学習の空気に満ちた私語厳禁の部屋を清隆は思い浮かべる。八重崎も何回か使ったと話すが、すぐに顔を曇らせる。
「周りの視線が気になって、どうもね……」
 誰もが机に向かっている環境で、個人に注目するなどないだろう。そう考えかけ、ふと清隆に「外部からの目」という可能性がちらついた。大友に命を狙われていた間、自分は絶えず気配を気にしていた。あれと同じ事態が、八重崎にも起こっているのかもしれない。
「瑞香のことで、何かあったか」
 清隆は小声で聞いたが、八重崎は答えなかった。瑞香の件だから話しづらいのだと気付き、慌てて言い直す。
「電話でも何でも、困ったことがあったら教えてくれ。……それから先輩、今日もし自習室を使うなら、俺も隣に座って良いか」
 八重崎が顔を上げた。先ほどまで絶えず動いていた視線が清隆に定まり、その瞳が揺れる。彼女の表情を見て、清隆は自分がおかしくなったのかと頭を掻いた。席が空いている保証もない。果たして八重崎のやる気を出させるのに、これは効果があるのか。むしろ迷惑だろう。
「……やっぱり、今の話は忘れてくれ」
「ううん、いいよ。一緒に行こう」
 八重崎の口角がわずかに上がる。何はともあれ、まずはやってみるしかない。そう宣言する彼女の笑みは、本心からその感情が湧き上がっていないようでもあった。
 
 
 自習室は、校庭を見渡せる幅広い窓の向かいにある。扉のそばには、勉強を教えるチューターからのメッセージがホワイトボードに書かれていた。センター試験までの日数も記されていたが、清隆は無視して戸を開ける。使ったことのない進路指導室の脇をすり抜け、奥にある部屋へ入ると、既に席が埋まりそうなほどの生徒が勉学に励んでいた。運良く二つ並んで空いていた机へ、八重崎と向かう。清隆より先に八重崎が席に着き、厚めの問題集を開いた。机の上には仕切りがされており、カンニングが出来ないようになっている。
 各々で作業をしながら、清隆はたまに周囲を気にしていた。八重崎が不安に思うような何かがあれば、早めに見つけて対処したい。しかし時々生徒の出入りがある以外は、窓も高いこの部屋で外部から侵入者が来るような事態はなかった。それでも八重崎がまだ心配していると見え、清隆は警戒を続けようとしてふと思い至った。
 八重崎が集中できなくて困っているとの話だったのに、これでは自分の方が問題になっているではないか。逆に彼女の気を使わせてしまいそうで、清隆は「作戦」の失敗を恥じる。別の方法を提案すれば良かったか。
 一応八重崎の進み具合を確かめようと、清隆はそっと椅子を引いて机を覗き見た。彼女が問題集を開いた時にちらりと視界に入った部分から、ほとんど進んでいないようだ。よほどの難問か、やはり気がそぞろなのか。励ましの言葉を掛けたかったが、ここで声を出すのは周りに悪い。悩んだ末、清隆は筆箱から付箋を取り出すと、その紙面に文を書き付けて八重崎の机に貼った。
『周りは俺が見ておく。先輩はあまり構うな』
 付箋を剥がした八重崎がこちらに顔を向けたとは知らないふりをして、清隆はペンを進める。その後も問題を解いては周囲を意識してというのを繰り返していたが、やがて八重崎が耳を押さえている様を捉えた。具合が悪いなら、窓も閉め切られたこの部屋を出るべきだろう。清隆が考えていると、机に八重崎によると思われる付箋があった。
『ごめん、どうしても無理。声が気になる』
 帰り支度をして去っていく物音を耳にし、清隆は今にも出て行こうとする八重崎を追った。廊下でその後ろ姿を呼び止める。
「あそこで話している人は、誰もいなかった。――俺の見る限りでは」
 八重崎が振り向き、目を瞬かせてから謝ってきた。誘いに乗っておいて途中でやめるなど、自分勝手だったと。そう言いながら彼女は左右に視線を巡らし、遠くで人の姿を認めるとすぐに歩きだそうとした。
「ごめん、わたし……清隆くんと二人でいるところを、あまり人に見られたくないんだ」
 予想もしなかった言葉が、清隆の胸を刺す。立ち尽くしている間に、八重崎は校庭へ消えていった。先ほど彼女が存在を察した生徒が通り過ぎた後、ようやく自習室に戻る。しかしあのように言われてしまっては、勉強など手に付くはずもない。自分は八重崎に避けられている。そればかりが頭を巡り、ついに清隆は早々の帰宅を決めた。鞄に道具を詰め、足早に駅へ急ぐ。しかし帰るまで、清隆の脳内は一つの考えだけで占められていた。
「どうした清隆。まるで私が城秀への思いに悩んでおったころのようではないか」
 帰宅して廊下を歩いていただけで、襖を開けたままにしていたシャシャテンに鋭く指摘された。数秒顔を見れば分かってしまうほど、心が表に出ているのか。清隆は階段を上らず立ち止まり、和室からこちらを熟視するシャシャテンへぶっきらぼうに問う。
「それはどういう意味だ」
「はぁ、受験だけでなく恋煩いもあって大変じゃのぅ」
 勝手に決め付けられて腹を立てる中、清隆は正直に八重崎の様子を話した。受験のストレスだけでなく、別の一因もないかと悩む。
「人を思うあまりに病となる、生霊になるとはよくある話じゃ。……いや、受験も厳しいものじゃったか。よく知らぬ私が言えることではないが。あるいはいずれもやもしれぬのぅ……受験と、恋煩いと」
 また恋煩いかと呆れつつ、もし本当だったらと清隆は眉をひそめる。仮にシャシャテンの言う通りだとしたら、誰に思いを寄せているのか。自分の知り合いか、そうでないのか。そしてどちらであっても胸がひどくざわつくことが、清隆には不本意だった。
「そなた、さては妬いておるな?」
 シャシャテンがからかうように笑っている。思えばこの訳が分からない思いは、どちらかといえば怒りに近いものだった。これが嫉妬というやつなのか、だがなぜそんな感情が浮かんでいるのだ。やむにやまれぬ気持ちに囚われ、清隆は自室で心が安らげるのを期待して階段を上がった。

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