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六段の調べ 急 三段 五、長恨歌

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序・初段一話へ


 胸の下から足先にかけて、重いものが載せられている。暑さを感じて清隆が目覚めると、自分が布団に寝かせられていると分かった。
「清隆様、ご無事で御座いましたか!」
 枕元でした声に、清隆はゆっくり顔を上げる。狩衣に烏帽子姿の男――朝重に屋根から蹴り落とされたはずの陰陽師がいた。彼自身は無事だと賀茂が告げながら、表情を悲痛なものに変える。
「朝重様は……あの方は清隆様と師長様を突き落とされた後、姫様方が止める間もなく自ら身を投げてしまわれました。御骸の方は、隣のお部屋に」
 その言葉を、清隆はすぐに受け入れられなかった。本当に死んだのか確認すべく起き上がろうとしたが、シャシャテンに止められる。今すぐ動いても体に響くだろうと気遣われた。
 改めて枕元を見ると山住も、そして妙音院も座っていた。助けようとした者が無事だと判明しても、清隆の気分は晴れない。賀茂によると、不死鳥が救おうとした清隆たち二人はその翼から転がり、道の隣にあった水路に落下したという。一方で朝重は不死鳥が間に合わず、地面へ真っ逆さまにぶつかり、その衝撃を全身に受けた。
「呼んでもなかったのにたまたま不死鳥が通っておったのは、幸いじゃったのかのぅ」
「いえ、不手際であったわたくしが悪いので御座います! わたくしがあの方に不覚を取らなければ!」
 シャシャテンの呟きを否定し、賀茂は必死に頭を何回も下げる。そんな彼へ一声掛けてから、妙音院がこちらへ向き直った。清隆が庇ってくれなければ、どうなっていたか分からない。恩人として感謝してきた妙音院が、急に真顔で尋ねた。
「あなたはわたしとは一度しか会っていない、縁の薄い者であるはず。それなのになぜ、わたしを救わんとしました?」
 自分たちが助かったのは、不死鳥によって落下場所がたまたま水路になったからではないか。その考えをいったん押し留め、清隆は呟いた。
「妙音院さんの家を滅んでも良いと言ったのに、納得いかなかったんです」
 不意に浮かんだ激情だった。それに駆られて妙音院を優先した結果、朝重は死亡した。一人への善意が、またも一つの命を奪ってしまった。遠くで僧侶の笑いが聞こえる。
「……清隆殿の気持ちは、私にも推し量れます。しかし朝重殿のことも、何とも痛ましい。私があの時――」
「城秀、それは違うじゃろう。あの後に、朝重殿は苦しまれたのじゃ。せめて私からも、宮での暮らしが如何なるものか聞いておけば良かったのぅ。さすれば、惨い目に遭っておるなど……」
 去年の春にあったことを悔やむ山住に続き、シャシャテンも声を詰まらせ始めた。故国で苦しむ者を見過ごした己の仕打ちに、責任を感じているのだろう。それを宥めるような妙音院の声が、清隆の耳に届いた。
「わたしも、朝重さんをどうか救う手立てがあれば良かったと思っています。されどわたしは――あの場で、どうしても家のことを明かしたくなかった」
 高貴だという家の当主を一瞥し、清隆は俯いた。自分も妙音院家について知りたいと思った点では、朝重と変わらない。彼女と同じ心を持っていたのに、自分だけ生き残ったのが許せなくなる。布団の上で拳を握り締めると、その手がかすかに震えた。
「違うじゃろう、清隆。そなたは妙音院殿を生かそうとしたではないか」
 内省へ割り込むシャシャテンの声に、清隆は思わず耳を傾ける。自分とは逆に、朝重は妙音院を殺そうとした。抱いていた疑問の探求を、結局諦めた。対して生きている清隆は、まだこれから何でも知ることが出来るではないか。
「それに過ぎたものを悔やんだ所で、術なきことよ。これから朝重殿のようなことが起きぬよう、私たちが心していくしかない」
 清隆は顔を上げなかった。人の死を仕方ないと言ってしまって良いのか。あの僧侶は、その母と兄の死を強く根に持っていた。彼が密かに抱いていた恐れと怒りを思うと、一つの死が計り知れない影響をもたらすと痛感させる。
 妙音院から改めて二度目の、そして賀茂にも礼を述べられたが、清隆はそれらをすぐに受け取れなかった。自分や大切な人が助かって安堵しているだろうが、朝重の死を本当に遺憾に思っているのか。そもそも自分の行動は感謝されるべきなのかと、清隆は再び結論の見えない考えに陥り始めた。その横で、シャシャテンが小声で漏らす。
「……瑞香に、朝重殿は何を望んでおったのかのぅ?」


  朝重が死して数日後、女王から下された沙汰に賀茂は戸惑いを隠せずにいた。内裏より届いた文には、親しい公家の恩人を殺すよう記されている。日記を見たかもしれない女官が死亡する場にいたあの者が、その中身を知ったのではと危惧しての頼みだった。大友のもとにその人が上がり込んで以来、女王が彼を警戒しているとは賀茂も勘付いていた。長く様子を見て、今回ようやく動こうとしたわけだ。
 陰陽寮に属する他の家には内密の勅命であり、無事に果たせば家の高名は大きく上がる。しかし賀茂は、その指図に従う気には全くなれなかった。何せ四辻姫の示す相手は、妙音院を命懸けで助けてくれたのだ。そんな人を自ら手に掛けたくはない。だが女王の命へむやみに逆らっては、それこそ都追放より重い罰が下され、妙音院の力になれない。あれこれ悩むうちに、五十日が経ってしまった。
 朝重が死去した時よりも気は冷たさを帯び、虫の音がよく聞こえるようになった。今日も行灯のそばで封を開き、中を見るなり起こった頭の痛みを賀茂は耐える。ここ数日おきに送られてくる催促にも耐えられなくなった。いっそ偽りの知らせをしてしまおうか。賀茂が唇を引き結んだ直後、急に行灯の火が消えた。何も見えない部屋を手探りする中、この時期にしては寒い風が窓から入り込んだ。やがて聞き覚えがある女の声がする。
「賀茂泰親さんですよね? わたしが突き落としたはずの」
 陰陽師である賀茂には、霊の姿もはっきりと分かる。そこにいたのは、自ら命を絶ったはずである朝重だった。以前会った時と違い、髪も身体もほの白く光っている。右前の白装束は、彼女が確かに死人だと気付かせた。
 かつて大友に命じられ、目の前にいる者が生きていたころに操った時を思い出す。死が近いと見抜いた王を助けてやりたい心は確かにあった。その思いを抱きつつも指図に沿い切れなかったのは、刃物を手に暴れていた彼女を救いたかったからだ。やがて助かった命も、呆気なく終わりを迎えてしまった。何も出来なかった自分が口惜しい。
「陰陽師さん? わたし、ちょっと困ってるんです。死んでいるはずなのに体が重いというか、下に引きずられている感じがあるといいますか」
 現世に未練があり、成仏できない。そう言う朝重の話に興味が湧いたが、すぐに賀茂は振り切ろうとした。今は女王に頼まれた、重い仕事が残っている。
「それなら、わたしが代わりにやっておきますよ。ちょうどわたしも、あの人に話があるので。だから少しだけ、手伝ってくれませんか?」
 思わぬ案に賀茂が我にもない心地でいる間も、朝重は話し続ける。その人から色々聞く際、邪魔が入ってはいけない。そこで賀茂には、彼の周りにいる人を眠らせる方法を教えてほしい。朝重が満足したところで彼を殺せば、賀茂が持つ罪の心は少し減るだろう。
「しかし、わたくしがあの方を殺める事に手を貸したのには変わりありません」
 賀茂はそう躊躇ったが、亡霊は笑いながら脅してくる。
「このまま女王さまに圧を掛けられ続けていて、いいんですか? あの人、本当は怖いんですよ」
 かつて仕えていた王は、同じ志を持つはずであった者による重荷が故に体を蝕まれ、ついに倒れた。彼と同じように責められるのは耐えられない。心の臓が、一つ大きく脈打った。
「……かしこまりました。しかしお受けする前に、頼みが御座います。貴方様がこの世で感じなさった恨み、心苦しく思われた事などを全て、わたくしに語って聞かせて頂けませんか?」
 賀茂の問いに、朝重は小首を傾げながらも了承した。月さえない夜が更ける中、亡霊は長い恨み言をつらつらと語り続けていた。

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