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六段の調べ 急 三段 一、女王の裏

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序・初段一話へ


 東京よりは過ごしやすい瑞香の夏も、葉月になれば暑さがじわりと堪えてくる。倉橋との日々を何とか乗り越え、前川は久しぶりに宮中へ戻ってきた。主の部屋へ続く廊下には、うるさい蝉の声が届いている。
 礼儀作法を頭で反復し、前川は昼御座に入る。女王は奥に控え、左の袖をだらりと下げていた。二ヵ月ほど前、彼女に起きた災難は倉橋に聞いている。利き腕でなかったため幸いだったが、それでも不自由はあるらしい。気遣いの言葉を掛け、前川はなぜ今になって自分を呼び戻したのか主に尋ねた。
「私の頼みについて、生田の家以外には何も知らせがなかったからのぅ。死んだかと思ったぞ」
 前川は咄嗟に姿勢を伸ばす。背を汗が伝っていく。四辻姫には生田信の情報を提供して以来、日本に住む瑞香人の子孫を教えなかった。自分の望みを、そしてそのために動いてきたのだと気付かれてしまったか。前川はしばらく四辻姫の表情を窺っていたが、やがて彼女が目を細めたため思わず気が緩んだ。
「顔色が優れてきたようじゃな。やはりそなたは、一度日本に戻って良かったと見える」
 この内裏であれだけの仕打ちを受けたのだ。前川は手の甲に薄く残っている傷を撫で、小さく頷いた。
「さて、折角落ち着いてきた所で悪いが――またここに勤める心はあるか?」
 女王の問いに、傷跡が疼いた。また苦しい日々が始まると思えば、どうしても受け入れられない。しかし倉橋のもとに帰る気も起きない。あの人はもう、十分な情報は得られたと言っていた。なら自分は、お役御免だ。
 つらいなら無理しなくて良い。ここへ来る前に倉橋から掛けられた言葉にも押され、前川は女官をやめると主に伝えた。今後の予定は決まっている。しばらく瑞香にいて、やりたいことを果たすのだ。失敗すれば、すんなり諦める。もう覚悟の手紙も、あの人の家に隠してきた。
 女王はいったん部屋を出ると、赤い錦の袋を二つ持ってきた。右手にそれらをまとめて持ち、彼女はこちらへ向かう。差し出されたものを恐る恐る開いた前川は、息を呑んだ。一つの袋には、眩い輝きを放つ何百枚もの金貨、もう一つには様々な色を持つ宝石や装飾品が片手では支え切れないほど入っていた。こんな豪華な褒美を受け取ってしまっては、身の丈に合わず罰が当たるだろう。すぐさま前川は返そうとしたが、四辻姫は聞き入れない。今までの礼と、内裏にまつわる事情の口止めと強く念を押された。
 袋を隠すように持ち、前川は自分を雇い見守ってくれた感謝を述べて退室しようとした。しかし青簾に手を伸ばしたところで、急に声が振り掛かる。
「ところで朝重れいよ、倉橋輪とは親しくやっておるか?」
 息が浅くなりながら、前川はそっと女王に目を向けた。彼女は全て見通していたのかもしれない――倉橋と組んで、自分がその思惑を止めようと動いていたことに。
 
 
 かねがね聞いていた通り、その邸宅に住む主は奇妙な人だった。この日差しが照る夏空の下、彼は屋根の上で琵琶を構えている。撥で弦が弾き鳴らされると、その近くに止まっていた小鳥が驚いて飛び立った。空から降ってくる音色に負けじと、扉の前にいた倉橋は大声で屋根へ叫ぶ。
「貴方が妙音院師長さんですよね?」
 琵琶の音が止まり、そうだと返事が聞こえた。妙音院は屋敷の裏側へ下り、倉橋のいる方へ回ってくる。急な来客にも彼は戸惑いを表さず、中に入るよう勧めてきた。玄関から遠くない一室に案内され、ぬるめの茶を出される。こちらの用件も聞かず時候の話などをしていた妙音院が、廊下の足音に気付いて襖を引き開けた。現れた男に、彼は倉橋を紹介する。
「倉橋……ああ、姫様から話は伺っています」
 山住と呼ばれた者は、無地の灰色っぽい着物という私服で頭を下げた。その名に聞き覚えを感じ、しばらくして倉橋は思い出す。
「確か、六段姫とご結婚――添い遂げられることを誓っている方ですよね?」
 なぜ知っているのかと山住が声を上げ、屋敷の主も驚いて問いただしている。王配となる者が恥じるように事実を明かすと、妙音院は祝意を述べながら部屋への入りを促してきた。家主の隣に腰を下ろす山住が、少しばかり怪訝にこちらを見てくる。
「皆様には黙っていたのですか。それなら申し訳ございません。知人の朝重れいさんから、色々と事情は聞いていまして。何でも貴方は、四辻姫に頼まれて妙音院さんのことを調べているようで」
 山住の顔が強張った。これも妙音院には伏せていたのだろう。きょとんとしている主人へ、山住は深く謝罪した。ここに住んでいた間、妙音院とその家について探っていたのだと。居候から急に真実を聞かされた男は、理解し切れていないのかしばし呆然と相手を見つめていた。
 どうやら山住がつつがなくやってきたのを掻き乱してしまったらしい。それでも、ちょうど妙音院に関する話をするために来たのだ。山住もこの部屋に留め、三人で語らいを始めた。まず倉橋が、女王の臣下に問い掛ける。
「四辻姫が、なぜ貴方をここへ遣わしたか分かりますか?」
 ただ妙音院を探るためではと答える山住に、倉橋は首を振る。
「それだけではありませんよ。六段姫が四辻姫との連絡・宮城への出入りを禁止されたとはご存知ですよね?」
「六段姫さまが!?」
 驚愕の声を出したのは妙音院だった。倉橋がこの屋敷に来る途中、都の町人も噂し合っていた話を、この変わり者は知らなかったようだ。世間への疎さに呆れながら、倉橋は続ける。六段姫が伯母や内裏との関わりを禁じられたのは、四辻姫が自身の思惑を知られることを懸念したためだ。そして六段姫と縁の深い山住も、そばに置いておけば自分の事情を知られかねないと考え、女王は宮城から離れさせた。
「つまり山住さん、貴方は四辻姫から体よく追い出されたということです」
 倉橋が告げると、山住は少しの間沈黙した後、困惑の叫びを上げた。両手で抱えた頭を畳に付け、深くうなだれている。倉橋も妙音院も、哀れな女王の臣下が落ち着くまで眺めることしか出来なかった。
「……しかし思い返せば、陛下の御有様を怪しいと睨んでもいました」
 やがて山住はゆっくり起き上がり、去年から不自然に思っていたという話を語った。諸田寺に集まった人々を捕縛し処刑するという残虐さは、それまでの女王に考えられないものだった。そして四辻姫は、不死鳥を負傷させられる太刀が梧桐宗に渡らぬよう六段姫に預けたが、それが奪われるなり彼女へ責任を押し付けようとした。少なくとも去年に再即位するまで、四辻姫は姪を大事に思う心優しき方だったはずだ。
 なぜこのようなことになってしまったのかと悩む山住には答えず、倉橋はじっと聞いているだけだった妙音院を一瞥する。元いた上東門家について詳しく知っているか彼に問うと、妙音院は苦笑した。
「あんな家、大したことありませんよ」
「そんな訳ありますか!」
 倉橋だけでなく、山住も突っ込みを入れていた。思わず顔を見合わせ、山住が妙音院へ頭を下げる。上東門家の件も、彼は調べていた。しかし倉橋の知る限りでは最も素晴らしい家を、「大したことがない」と称するのはいかがなものか。期待通りに行くか不安に思いつつも居住まいを正し、倉橋は本題へ進めた。
「どうしても貴方の力が必要なのです。四辻姫を排するため、貴方にはその中心に立っていただきたい。場合によっては、『返り咲いて』もらうこともあり得ます」
「申し訳ながら、それはお断りします」
 即答した妙音院に続き、山住も身を乗り出す。
「四辻姫様の跡は、順当に六段姫様へ継がせれば良いのでは?」
「それは上手くいきませんよ。六段姫は、王位へ就く前に殺されます。あの人は――」
 ここまで密かに探った結果明らかになった思惑、そして王女自身さえ知らないであろう秘密を、倉橋ははっきりと口に出す。これが世間に知られれば、王家の名誉は下がるだろう。むやみに他言しないよう約束させて話を終えると、山住は放心した様子だった。逆に妙音院は、気まずい顔をしつつもこの件を知っていたと呟く。
「昔に友から教えられました。忘れられるはずがありませんよ……」

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