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六段の調べ 急 三段 二、物忌み

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序・初段一話へ


 多くを打ち明けた倉橋が帰った後、妙音院は山住と共に部屋を動けず、座り込んでいた。かつて拷問吏の身から宮廷女官となった友に、王女を取り巻く怪しい動きとその発端について明かされた。ここで改めて耳にしても恐ろしいと、妙音院は身を震わせる。
「……師長様。本当にかの所業をお考えになっている陛下に、抗うつもりはないと?」
 言いにくそうに尋ねてきた山住へ、少し悩んで頷く。自分は政に関わらないと決めてこれまで生きてきた。そして倉橋が案を出したように、我が子を使うつもりもない。その心を言い切ると、山住が微笑んだ後真顔になり、どこともなく壁を見つめた。
 昔から生家に馴染めなかった。一族の者が持つ思いに呆れ、集まっては悪態をつく彼らに心が曇った。ついに耐えかね、賀茂と企てて里を飛び出し、父には勘当された。それでもここでの暮らしを苦に思いはしなかった。身近なことは、賀茂に教えてもらった陰陽道で使役している式神がやってくれている。妻子が無事でいて、死ぬまで安穏に過ごせれば十分だ。
 もちろん、六段姫の件は痛ましく思っている。彼女と縁がないとは言えない点も、己にはある。そして倉橋が四辻姫や王家を嫌う所以も気の毒だ。それでも、今の自分があの人の横に立って強く戦う気にはなれない。
 閉じていた襖が動き、女中が顔を出した。彼女から渡された封には、差出人の名がない。しかし文使いや飛脚ではなく、書いた人物が直接届けに来たように見えると女中は伝えてきた。恐らく元服したばかりで、髪が不揃いに切られている女だという。
 紙面を一瞥し、すぐさま怪しいと妙音院は感じ取った。廊下に控えたままだった女中に、この文を賀茂のもとへ届けるよう頼む。
 その返事が来たのは夜だった。行灯に紙を照らし、文面に肩を落とす。賀茂が良いと言うまで物忌みを命じられてしまった。屋根の上で楽器を弾くのも禁止される。好みまで絶たれてしまったのは痛いが、賀茂の頼みだから聞き入れるしかない。同時に、もうずっと前に亡くなった恩人の言葉も思い出された。
 最後には諦めるべし、というのが座右の銘であった人だった。見え方の暗くなった左目に憂う自分と関わってくれながら、いつも疲れた顔をしていた。散る桜を見て、あれは己そのものだと言っていた時もある。彼のように、今の状況を甘んじて受けるしか生き残る術はないのだろう。
 賀茂の指示を忠実に守りながら、八日が過ぎた。さすがに何日も籠もっていると心地が悪くなる。澱んだ気の中、妙音院は昨日と変わらず自室で箏を奏でていた。部屋に窓はあるが、それも閉ざすように言われている。しかし妙音院がふとそちらを見ると、障子張りの角窓は横に引き開けられていた。
 確か閉めていたはずだと己に問い、妙音院は立ち上がる。そっと窓に手を伸ばすと、指先が外に出たところで別の手が向こうから掴んできた。振り払おうとするが、細腕とは思えない力で引っ張られていく。山住を呼んだが、間に合わなかった。窓の周囲にある壁が燃え上がったかと思えば、その中に入り込む。咄嗟に目を閉じた妙音院は、物忌みでは縁遠かった生ぬるい風が頬へ触れるのに気付いた。
 足元は勾配になっており、灰色の固いものが並んでいる。それが瓦だと認めた刹那、妙音院は鈴のような女の声を耳にした。
「こんにちは、妙音院師長さん。ちょっとお聞きしたいことがありまして」
 女中が言っていた姿に似た、元服したばかりであろう女がそばに立っていた。不揃いの髪先を揺らし、彼女は口元を綻ばせる。なぜ自分をここまで連れて来たのか尋ねようとして、妙音院の袖が握られた。そして何が起きたかも分からず、屋根に寝かせられる。地面へと下がっている方に頭は向けられ、目の前には雲一つない空がある。屋根から地上を見下ろすのは平気だが、見上げることには強い恐れを覚える。妙音院が目を閉じると、女の名乗りが聞こえてきた。元宮廷女官の前川みな改め、朝重れいだと。
 
 
 去年までなら部活で忙しかった八月も、今は別の事情に追われている。午後二時を回っても、清隆は外に出ず自室の机へ向かっていた。カーテン越しにも戸外の日差しが強いと分かる。暑さが厳しいだろう表に出なくて良いのが、受験勉強における少しの利点かもしれない。
 休憩がてらに結婚式で演奏する曲の楽譜を見る。箏の譜、そして吹奏楽の五線譜を眺めていると、これを受験後の一ヵ月ほどで完成させられるか不安になる。加えて先日、吹奏楽と箏を合わせる企画にて箏のソロのうち一つを弾くよう、母に頼まれてしまった。断ろうとしても、なかなか彼女は聞かなかった。
「シャシャテンちゃんともお別れしちゃうんだし、最後に一曲くらいどう? 美央ももう一ヵ所のところでやるって決めてるから。ねぇ、英幸くんも良いでしょ?」
 そう言われた父も初めは反対していたが、母の長々した説得で折れた。一つ年上だからか、どうも妻の力が強いらしい。結局、シャシャテンのためとして受験後に念入りな練習をすることになった。とはいえ今から出来が心許なくて仕方がない。
 楽譜をファイルに仕舞っていた時、スマートフォンに連絡が入った。通知欄に、倉橋からの連絡が映される。開いてみると、朝重が四辻姫の女官をやめたという旨が記されていた。彼女は今、妙音院について調べているそうだ。
 それらが事実なのかという疑問が、まず清隆に浮かぶ。しかし同時に、倉橋が自分の過去を知っているようであった記憶がよぎり、引き出しの中を探った。取り出した手紙を、改めて読み返す。あの人はなぜ、自分が明かしていない心を言い当てたのか。四辻姫の「建国回帰」を知っていた件といえ、どうも倉橋には怪しいものがある。北はあの人が度々御所などへ忍び込んでいると言っていたか。
 倉橋を不審に思わせる点は、四辻姫への態度にもあった。祭りで彼女のもとへ上がり込み、責め立てるような物言いをしていた。そしてシャシャテンに対しても、今の女王と同じ所業をするのではないかと警戒している。倉橋はなぜ、あそこまで四辻姫たちに否定的なのか。昨夏の処刑などは清隆も快く思えないとはいえ、さすがに倉橋の言い分は強過ぎる。
 スマートフォンを片手に、清隆は和室へ下りた。倉橋の連絡をシャシャテンに伝えようかと思ったが、彼女があの人に批判的だったと思い出して取りやめる。代わりに、山住から妙音院について何か聞いているか尋ねた。居候の婚約者は今、妙音院邸に住んでいると耳にしている。
「妙音院殿は生まれた家――上東門家に嫌気が差して出て行ったそうな。あの家にも何やかやあったとな。しかし城秀は、いつになったら宮へ戻れるのかのぅ」
 箏を弾きながら、シャシャテンは答える。山住が妙音院のもとに向かったのは、彼について知りたいという四辻姫の命令がきっかけだったはずだ。だが彼は、いつまで経っても内裏へ帰る許しを得ていない。四辻姫が深く探りたいと思うほど、妙音院には隠されている事情があるのか。
「思えばあの方も、公家の生まれにしては変わっておるのぅ」
 シャシャテンは信を救いに行った時と祭りの時と、妙音院には二回会っている。そのどちらともから感じた印象は、奇妙なものだったと彼女は話す。世話をする人が比較的少なく、彼らもどこか人でない気がする。そもそも生まれた家から縁を切られるなど、よほどのやらかしをしない限りあり得ない。
「その実家がどんな所か、シャシャテンは知っているか」
「いや、知らぬな。城秀なら分かるやもしれぬ。待てよ、直に妙音院殿へ尋ねるか?」
 口から笑いを漏らすシャシャテンを、清隆はわずかに見やる。疑問の答えは、瑞香に赴いて確かめた方が早いかもしれない。倉橋もそうして、四辻姫の「建国回帰」に気付いたのだろうから。
「朝重が女官をやめたって聞いたんだが、それが本当か分からない。妙音院のことと合わせて、調べに行かないか」
「何、朝重殿がか? しかしそなたには受験なる奴が……いや、たまには良いか。そなたは瑞香ばかり考えおって、学びに手が付かなくなりそうじゃからのぅ」
 シャシャテンは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに言い直した。清隆が返す暇もなく、彼女は出掛ける準備を促す。今から行くのかと驚いたが、善は急げとのことだ。シャシャテンにうるさく急かされ、清隆はまず部屋着を着替えるべく自室に戻っていった。

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