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六段の調べ 急 四段 五、玉の緒よ

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「じゃから、言った通りよ。八重崎殿はそなたを打ち忍んでおり、思い暮らしておるのじゃ」
 シャシャテンの冷静な対応にも、清隆はしばらく言い返せなかった。八重崎の思いは本物なのか。自分への好意とやらが呪いと関係あるのか。最初に告げられた時より感情は収まっていたが、それでも考えが終わりなく頭を巡る。
「八重崎殿は、己の思いが外に知られることを恐れておるようじゃ。特に、親しい者にはのぅ。そして……何かの拍子で思いが漏れるよりは、死を望んでおる」
 シャシャテンは心配そうに、眠っている少女を見下ろしている。最近八重崎が周囲を気にしていたり、自分と二人でいることを嫌がったりしていたのは、その感情が原因なのかと清隆は理解が行く。自分の知らない場所で、彼女は死を求めるほど追い詰められていたのだ。
 膝の上で拳を握り、歯を食い縛る。もっと早く気付いていれば、こうはならなかったはずだ。それなのに、自分は何をしてきた。八重崎の心に裏を勘付きながら、結局何もしなかったではないか。彼女は瑞香に振り回される自分を、気遣ってくれていたのに。己がどうしようもない者に思えてきて、清隆は呟いた。
「先輩を助ける方法はないか。俺はどうしても、あの人に生きてほしい」
「その心意気は良いがのぅ。まずそなた、八重崎殿を如何なる者だと思っておる?」
 浮かんだ限りのことを、清隆は口にする。八重崎は部活で右も左も分からなかった自分を導いてくれた人で、頼れる親切な人で――。
「戯け者! それを聞いておるのではない!」
 清隆が言い終わる前に、片頬へ衝撃が走った。はたかれた部分を押さえ、清隆は呆然と正面の女を見る。シャシャテンの眉間には皺が寄り、自分の回答に納得がいっていないようだった。
「そなた、本当は八重崎殿を思っておるな? 加えて思いを寄せられておると気付きながら、それを疑ってきたのじゃろう。喜んで食い付けば良いものを、なぜそうせぬのか? ……そなたは恐れておるのじゃよ。八重崎殿に疎まれることをな」
 清隆は為す術もなく、シャシャテンの言葉を聞いていた。記憶を少しずつ掘り返しながら、改めて自覚する。自分は、臆病なだけだった。見抜いたと思ったことが勘違いで、恥を掻くのが怖かった。誤解がもとで彼女に去られるのが、耐えられなかった。
「そなたは人であれものであれ、何に対しても恐れておる。じゃから疑うのじゃよ。初めから裏切られると心に入れておけば、傷付きもせぬとな」
 シャシャテンに指摘されて、清隆は息をついた。よく考えれば、全く人を見ていなかった。意識は常に自分へ向けられ、保身に手一杯だったのだ。そして本当の心にも目を背けた結果、何を思っていたのかも忘れそうになっていた。
「清隆、このまま八重崎殿が目覚めなかったら、如何にする?」
 シャシャテンに問われ、清隆は今まで見るのを避けていた少女へ視線を移した。八重崎は声も立てず、ゆっくりと呼吸をしている。それが次第に開いていく様を、清隆は想像してしまった。このまま息も鼓動も止まって、八重崎が帰ってこないとしたら。もう教室でも部活でも、彼女と会話を交わせない。華奢な体格には似合わぬ楽器から響く、重厚で甘い音色も聞けない。何より、密かに大事な存在だと見てくれていた人を失ってしまう。それを思い知って、清隆の心臓が跳ねた。
 シャシャテンに顔を見られぬよう、少し俯く。なぜか喉が熱く、痛い。その熱が目元へ来る前に、清隆は自覚した本心を告げた。シャシャテンの満足そうな声がする。
「やっとそなたも、心を決めたか。賀茂殿、清隆はまた冥土の入り口とやらに行けば良いのか?」
「はい、朝重様の時と同じかと。わたくしめが力添えを致しましょう」
 シャシャテンに肩を叩かれ、清隆はようやく顔を上げた。賀茂が低く呪文を唱え、再び襖が開く。先ほどと変わらぬ不気味な灰色の空間が、奥に広がっていた。深呼吸を一つし、清隆は一人でそこに踏み入っていく。あっという間に部屋の光景は、靄に阻まれ見えなくなった。
 歩く感覚には慣れたが、それでも不気味な印象の絶えない空間を行く。この先に八重崎はいるはずだ。彼女に会ったら、まず何を話そうか。些細な一言で幻滅させないよう、どうしても慎重になる。白い靄がぼんやりと広がる周囲で、やがて一つの影を見つけた。いったん足を止め、遠くからそれを観察する。
 彼女はこちらを向いて座り込んでいた。顎を深く引いており、まだ清隆の存在は認識していないようだ。朝重と違って、髪は黒いままだった。その体は周囲から少しずつ、靄に溶けかけているかにも見える。
 行くなら今しかない。清隆は意を決して、足音の立たない空間を進みだした。近寄ってもなかなか気付かれず、清隆の爪先が彼女を蹴りそうな辺りまで来て、ようやくその顔が上がった。白装束は左前で、胸には普段と変わらずストラップを下げている。黒い目は怯えたようにこちらを見上げ、すぐに逸らされた。
「なんで、ここまで来たの? せっかく一人になれたんだし、好きにさせてよ」
 八重崎の声は、靄にすぐ吸い込まれそうだった。その言葉も本気ではないように見えて、むしろそうあってほしいと願ってしまう。清隆は八重崎を見据え、シャシャテンに話を聞いたと伝えた。そして、なぜ思いがばれることを恐れるのか尋ねる。八重崎はしばらく口ごもってから答えた。
「……中学の時だけどさ。部活でなんとなく気になる人がいて――それがなんでかよく分からないんだけど。恋って呼ぶのも微妙だし。いや、単純に知識がなかっただけか」
 それを耳にしただけでも、清隆の胸が騒ぐ。彼女はその同級生と積極的に関わっているうちに、部活の女子生徒たちから囃されたという。同級生も八重崎の心を感じ取り、周囲の反応を煩わしく思った。そして八重崎自身も、相手の素っ気なさと周りのからかいに嫌気が差し、自ら思いを捨てた。後にその同級生は、中学卒業と同時に別の高校へ進学した。
「それでもしばらくは、女子から色々言われたりしてね。決めたんだよ、自分の心は周りにばれないようにしようって」
 八重崎の語りは、清隆には聞いていられないものだった。理由は分からないが、「悔しい」という気持ちが浮かぶ。妙に腹が立っていき、身が熱くなる。前にシャシャテンが指摘したような、怒りに近い感情が渦巻く。例の同級生を今は顔も忘れかけていると言われても、裏では深い情を持っているのではなど考えてしまう。
「でもいつの間にか……わたしは清隆くんが気になっていた」
 それまで湧いていた情念が、ふっと冷めていく。部活で清隆を助け、瑞香の事件に巻き込まれているとは知らず心配しているうちに、思いが募っていったらしい。
「きみのことを考えている間は、嫌なあいつのことも忘れられた。最初のうちはそうだったんだよ。でもね……」
 思いが再び周りに知られるのを恐れる八重崎を、過去の記憶が蝕んでいった。昔言われた言葉が蘇り、それが現在のクラスメイトや吹奏楽部員が噂をしている幻聴へと広がった。そして誰もいないのに彼らから見られている感覚、自分の考えが外に漏れている感覚が生まれる。今年に入ると、それは隠すことも難しくなるほど悪化していった。
 ここ一年で清隆も見てきた不自然な動きは、全て自分への気持ちがきっかけだったのだ。八重崎を深く考えることを避けてきた結果として、彼女を苦しめてしまった。今まさに、少女は薄暗く不穏な靄へ自ら呑まれようとしている。
「ここで死ねば、誰も怪しまない。なんでここにいたのか知らないけど、ちょうどいいや。きみもシャシャテンから聞いたばかりで、心を決めたはずもないよ。だから今のうちに――」
「決心なら付いた」
 驚く八重崎へ足が触れる所まで、清隆はわずかに踏み出す。一人で悩んできた「先輩」を見下ろし、深く息を吸い込んだ。

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