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六段の調べ 破 二段 四、人でなし

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序・初段一話へ


 北の家を出た時、まだ外の日は高く昇っていた。清隆が八重崎へ『差流手事物』を返すと、彼女は腕時計を一瞥して頼んできた。
「まだ時間あるし、シャシャテンさんに会いに行ってもいい? 前からどんな人か気になってたんだよ」
 平井家の一員でもないのに「いいよ!」と即答した信に突っ込んでから、清隆は考える。シャシャテンが勝手に「思い人」などと決め付けている者の紹介に、少しばかり気が引ける。しかし八重崎も話だけでシャシャテンを知っていたのでは、実感が湧かないだろう。居候が深入りしないことを望んで、清隆は八重崎を家へ案内した。
 帰宅するなり耳に入ってきたのは、和室で奏でられている箏の音だった。シャシャテンは譜面台に、四辻姫から送られた方の『差流手事物』を広げて演奏していたが、清隆たちが顔を出すとすぐに立ち上がった。
「今のを聞いておったのか? あれは私が幼きころより好きじゃった歌でのぅ。夫を思うあまり、戦で敗れたそやつの首を抱いて炎に消えるというのが何とも――いや、それどころではなかったか」
 シャシャテンの趣味に不穏なものを覚えつつ、清隆は八重崎を紹介した。歓迎する居候は特に自分との関係にあれこれ言ってこず、とりあえず胸を撫で下ろす。八重崎も『差流手事物』について教えてくれた件をシャシャテンに感謝した。
「あれが何物か分からなかったから、本当に助かりました。シャシャテンさん」
「そう堅苦しくならずとも良いし、私のことも気安く『シャシャテン』と呼べ」
 シャシャテンは手招きして客を畳の上に座らせた。八重崎がちらりと箏を見、その脇に腰を下ろす。清隆たちも居候に促され、部屋に入った。
「どうぞくつろいでくだされ。そうじゃ、何か瑞香について聞きたいことはないか?」
 しっくりくる座り方を決めた後、八重崎は異国から来た者へ立て続けに質問をしてきた。意外にも興味津々な様子に、清隆は胸が冷えるのを覚える。もし早めに瑞香を教えていたら、彼女はより多くの知識を得られただろうか。
「……これ、聞いていいのか分かんないけど。不老不死ってどう思う?」
 単刀直入な八重崎の問いが耳に入り、清隆は顔を上げた。シャシャテンは神妙な表情で、衣の膝辺りを握っている。
「あれはあってならぬものよ。今は亡き母上が言っておったのじゃ、『終わらぬものなどない』とのぅ」
 母の言葉を素直に受け止め続けた彼女は、『差流手事物』の抜けた二曲を知って、より不老不死の恐ろしさを感じたという。あの曲を消さなければならなかったほど、多くの人々には広まってはならない禁忌だと分かった。それに嫌われ抜かれた末、外の様子も分からない場所へ押し込められるのは堪らない。
「じゃが、八重崎殿は聞いておるか? 私は不死鳥の血を引く、ある意味では『人でなし』よ。まぁ、面と向かって言われようものなら反するがな」
 シャシャテンが箪笥から、紙縒りの付いていない短刀を取り出す。まだきょとんとしている八重崎に「人でなし」である身の証明をするつもりか疑い、清隆は慌てて武器に手を伸ばした。それに気付いたシャシャテンが動きを止め、急に笑い始める。
「清隆、そなたは心配性と言う奴か? 軽い傷なら案ずる必要はないと分かっておろう! しかしその心尽くしはありがたいぞ」
 短刀を引き出しに入れ、シャシャテンは袖で口元を押さえて微笑みを残す。しかしふと真顔になり、八重崎の前で素早く居住まいを正した。思い直したように首を振り、彼女は低く呟く。
「いや、下手したら軽い傷でも死に至ることがあるやもしれぬのぅ。……そもそも私は、死ぬことが出来るのか? 私は清隆や美央、八重崎殿とも異なるある種の『人でなし』じゃからのぅ」
「ちょっと、おれを忘れてない!?」
 さらりと一人だけ飛ばされた信が突っ込むも、シャシャテンはそれがおかしいかのように吹き出すだけだ。まさかシャシャテンが早まらないか心配する信へ、彼女はきっぱり否定する。毅然とした態度だったが、果たして実際にはどうだか清隆には不安が兆す。四辻姫に自死を誘われた時は、危うく受け入れるところだった彼女だ。仮に山住とそのような状況に置かれたら、外からの止めがない限り同じことを繰り返すかもしれない。
「それで八重崎殿、他に気になっておることはないか?」
 シャシャテンが話を逸らしても、清隆はしばらくそのやり取りに聞き入れなかった。


 信と八重崎が帰宅した後、美央は再び和室に足を踏み入れた。シャシャテンはちょうど書き終えたばかりの手紙を瑞香に送っており、文机には幻影の炎が立っていた。それが消えるのを見届け、シャシャテンは美央を振り返る。
「八重崎殿は良い人ではないか、そうじゃろう?」
 この春に桜台高校の吹奏楽部に入った美央は、そもそも部員全員の顔と名前を把握するつもりがない。それでもここまで接点を持った八重崎の存在は、否応なく覚えられそうだ。そう思いながら、箪笥のそばに座り込んだ。
 開けっ放しだった引き出しにある短刀が目に入る。シャシャテンはこれで自身を傷付けてもすぐに治る「人でなし」だった。そして彼女は、不老不死である点もまた「人でなし」だと言う。
 一体「人」とそうでないものを区別する基準は何で、どこから決まってくるのか。人の形はしている自分だが、本当に「人」として生まれてきたのか。こちらを見てもいないシャシャテンに、美央は何気なく尋ねる。仮に自身が、生まれつきの「人」だと定めて。
「人として生まれた者が、後から『人でなし』になることはある?」
「あの刀鍛冶が良い例じゃ。そなたが『人でなし』になりたいと言うなら、それを追うのはやめておけ」
「……わたしが元から、人でない可能性もあるでしょう?」
 美央は引き出しの中に手を伸ばしたが、シャシャテンに阻まれた。無理に手を外に出され、引き出しが閉じられる。それでも不安が残っているようで、シャシャテンは美央の手を強く握ったまま目を離さないでいた。人と視線を合わせるのは苦手だと、美央は改めて思い知る。
「では美央、そもそも『人』とは何じゃろう?」
 シャシャテンからさりげなくされた質問に、美央はすぐ答えられない。意外と難しい問いに窮している間、シャシャテンは真摯な顔で続ける。
「悪しき道に落ちようとするな。せっかくそなたたちを思って忠告したのじゃから」
「『人でなし』のどこがつらいの?」
「人に疎まれるのが恐ろしいのじゃよ」
 瑞香なら誰もがその体質を理解しているが、日本ではそうもいかない。身近な人たちは受け入れてくれたから良かったものの、これが別の人間だとどのような態度を取るか。あの絵巻にあったがごとく、迫害をしてくるかもしれない。
「そなたも、髪のことで思い悩んでいたのであろう。それで千鶴に使われておったのじゃったな。やはり人から如何に思われるかは、気になるじゃろう?」
「そんなことない」
 愛想のないように答えながら、美央はふと目の奥が熱くなるのを覚えた。あれは無意識に、嫌な記憶を封じ込んでいたのだろうか。信への仕打ちを思い出しかけて、やめる。完全に再生されようものなら、今すぐ引き出しの短刀で胸を刺したい。
「別に周りと違うだけで、『人でなし』とは限らぬであろう。確かにそなたは変わり者であるやもしれぬが」
 自分は人の目を気にしているのか。美央は黙って考える。誰からどう言われようと、関係ないだろうに。罵詈雑言が直接首を刎ねてくるわけでも、賞賛が物理的に宙へ舞い上がらせるわけでもないのだ。音楽家として尊敬している北は批判をやたらと恐れていたが、いちいち気にしていたのでは切りがない。そもそもあの人は、単に自らを否定したいだけではないのか。心から「人でなし」と自覚しているようには見えない。
「……まったく、人なんてのはよくわからない。なんでもないことに振り回されて、滑稽ってやつよ」
「そなたもそうなのではないか?」
 また髪の話かと、美央は居候を睨む。相手は溜息をつき、軽くこちらから顔を背ける。
「いつか人に興味がないなどとそなたは言っておったが……本当かのぅ? 人と関わらねば、誰しも生きていけぬよ。それに、そなたがやっておる吹奏楽というのは、多くの者と楽を奏でるのであろう? 人と心を合わせねば出来ぬのではないか?」
「そこは一時的に、ブレスを揃えたりはするけどさ」
 音程やリズムを合わせるだけなら、その場でやろうとすれば出来る。それは技術的な問題であり、人への絶対的な信頼や心の繋がりが必要だとも限らない。友人を作れだの絆を大事にしろなどと大人は言ってくるが、人に興味がなくてもちゃんと音楽に向き合ってさえいれば、合奏は何とかなるのだ。
 どうもシャシャテンに、その理屈は分からないらしい。納得できていない様子の彼女に何を言っても無駄だろう。美央は自室へ戻り、ベッドに座ろうとして窓際のピアノに目をやった。閉じられていた蓋を開け、オルゴールでもよく聴いている旋律を弾いてみる。それで疑問が解消されるはずもなく、いつの間にか手を止めて「人でなし」について考えていた。シャシャテンは何を恐れて、自分を「人」に留めようとするのか。彼女があそこまで止めようとするなら、仮に自分が本当の「人でなし」になったとして、どう思うだろうか。
 気付けば美央は、全ての指を鍵盤に押し付けていた。耳障りな和音が響く中、自分の口角が上がっていると気付く。「人」が何かも分からず、自分が何者かで悩むくらいなら、いっそ「人でなし」になりたい。そして自分を心配しているシャシャテンを困惑させるのだ。
 誰が反対しようと気にならない、むしろシャシャテンが抵抗すれば思う壺だ――そう浮かんだのも束の間、急に胸がざわついた。何ともない存在であるはずの者がどう思うか、なぜか引っ掛かる。その人が悲しむ顔を想像すると、眼前が揺らぐ。他人の反応など、気にしなければ良いだけなのに。
 目を強く押さえてから、美央は椅子へ腰掛ける。ぐだぐだと悩んでいる暇はない。兄が真剣に語っていた刀鍛冶の話を振り返りながら、美央は「人でなし」になれるだろう術へ思いを巡らせていた。

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