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六段の調べ 破 二段 五、狙われた書

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序・初段一話へ


 四辻姫のもとに勤め始めて一ヵ月が過ぎたころ、前川は日に日に主への疑問を募らせていた。異国から来た新人にもかかわらず、前川はそれにあるまじき待遇を受けている。地位が高く経験のある女官でもほとんど許されない、女王の部屋よりそう遠くない専用の個室を与えられている。職務も常に女王のそばにいて、何かあれば対応するというものだ。長年仕えてきた女官と比べても優遇されており、彼女たちによるいじめは激化していく。部屋の名を取って、嫌味たらしく「『やなぎ』様」と呼ばれるのは不愉快でならない。四辻姫から届けるよう頼まれた手紙を隠されたり、自室のそばで聞こえるように悪口を言われたりするなど日常的になっていた。
 瑞香で桜が葉を付け始めたこの日も、前川は主に呼ばれて彼女との談話に付き合っていた。知人に聞かされた前評判と違い、女王は「良い人」に見えた。前川にいつも微笑んでくれるかと思えば、仕事はしっかりとこなしている。この穏やかながら堅実そうな人にふと、さらなるいじめを明かそうか迷ったがやめる。
「なぜ、しがないわたしを、おそばに置いてくださるのですか?」
 四辻姫は袖で口元を隠して笑いながら、前川は日本から来た人物で興味深いと答えた。しかし彼女は日本に住んでいる六段姫に、向こうの様子を聞いているはずだ。それを尋ねたところ、「六段姫」という言葉に主の顔が曇った気がした。そこにちょうど四辻姫の隣で炎が立ち上がり、封が現れる。いつもの姪からによるものだろう。
 四辻姫は封を開け、時折顔をしかめて文を読んだ。前から話題になっていた古い『差流手事物』について、新しいことが分かったという。瑞香で禁じられている不老不死になる術が書かれており、梧桐宗に渡れば一気に大勢の不老不死が達成されかねない。その懸念を前川に伝えてすぐ、四辻姫は文机に向かった。走り書きの手紙を封に収めてこちらへ渡し、届けるよう頼んでくる。
 了承の返事をして退室してから、前川は梧桐宗本山・諸田寺宛ての封に首を傾げた。これまでにも何度か向こうへ手紙を送りはしたが、そこまでやり取りが出来るのならなぜ四辻姫は梧桐宗を厳しく問わないのか。彼らは大友の行おうとしていた「建国回帰」を継ぎかねない脅威なのに。
 そして『差流手事物』の名は、前川も瑞香に来る前から聞いていた。さすがに初版本は家になかったが、いつぞやの版は数多の歴史資料と合わせて知人に渡している。思えばあの人は、自分の家が代々受け継いできたものを何に使うのだろう。今さらながら浮かんだ問いを、前川はいったん置いておく。
 廊下で同僚とすれ違わず、安堵する。山住も少し恋しかったが、彼が諸田寺にいる今は高望みをしてはいけない。墨の渇きを確かめて封を懐に入れ、前川は門へ足を速めた。
 
 
 来月にはコンクールに向けたオーディションが行われるが、清隆がそれに向けて焦る必要はなくなった。去年出場した先輩は受験のため部活を休んでおり、新入生にテナーサックスの者が入ることはなかった。一人でパートを受け持たなければならないのは、責任が重い。オーディションがないからと気を緩めてもいられず、清隆は練習に励んでいた。
 部室で基礎合奏を終え、パートごとに教室を分かれる。サックスパートも上は高校二年生、下は中学一年生までがまとまって、気になる部分を練習していた。制服が衣替えの期間に入り、冬服と夏服が混じっている。今日は比較的気温が高く、夏服の生徒が多い。そんな中で八重崎は、ジャケットこそ脱いでいるものの、冬服として認められている白いセーターを着用していた。加えて中途半端に、セーターの右袖だけを高くまくっている。
 自身は夏服を着ていた清隆は、どうしても八重崎の装いが気になった。気温が今日より少し暑かった程度であった昨日は、白地に薄い水色で縞模様の入ったシャツに、学校指定の白いカーディガンという夏服だったはずだ。疑念が拭えずにいる中、パートで合わせている間に八重崎の左袖が譜面台に引っ掛かり、手首がわずかに見えた。セーターとワイシャツで隠されていた所には、赤っぽい打撲痕のようなものがある。倒れかけた譜面台を元に戻しているうちにそれは隠れてしまったが、清隆の胸騒ぎはしばらく収まらなかった。
 休憩中に多くの生徒が廊下に出たのを見計らい、清隆は八重崎に傷のことを尋ねた。
「……やっぱり鋭いね、平井くん」
 周りに人がいる時の呼び方をし、八重崎は笑いを噛み殺している。その傷をよく見ようと、清隆は手首の周辺を調べる。他に負傷した箇所はないようだが、なぜこのようなことになったのか――。
「きみねぇ。一応ここは学校の教室で、みんなの前だよ?」
 自分の右手首が強く締められ、清隆は冷や汗を掻く。気付かないうちに八重崎の左手を掴んでいた上に袖をまくっており、向こうの空いた手が報復をしていた。彼女が持つ武術の腕は何度か目にしてきたが、自らがそれによる仕打ちを受ける羽目になるとは。
 清隆は八重崎から手を離したが、相手の方はすぐに許さなかった。教室に残っていた生徒たちがからかうように、そのまま清隆へやり返せと八重崎に促してくる。このまま相手が力を込め続ければ、しばらく楽器が吹けなくなりそうだ。清隆が自分の詮索を謝ってから、ようやく解放される。痛みの残る手を振っていると、八重崎が思い直したかのように清隆へ小声で話し掛けてきた。
「この傷も、実は瑞香に絡んでるんだよね」
 パート練習中に詳しく出来る話でもないので、下校時に改めて事情を聞くことになった。午後六時を回っても少し明るい帰り道を、八重崎は時々周囲を気にしながら歩く。
「この前、清隆くんから『差流手事物』を返してもらったけど、そのことで変な人たちに絡まれてね。梧桐宗って名乗っていたんだけど、これって――」
 耳にした単語に、清隆は息を呑む。白い頭巾を被り、袈裟を着て杖らしきものを持っていたと八重崎が語る信者は、『差流手事物』がどこにあるか聞いてきたという。八重崎が持っていると分かっている様子だったらしい。
「知らないふりをしていたら怒って襲い掛かってきたから、返り討ちにしてやったよ。それでちょっとけがしたんだけど……心配させちゃったね」
 八重崎は左手首を揺らし、何でもないように語る。しかし清隆には、ただ事では済まされなかった。八重崎を襲ったのは、本当に梧桐宗と縁のある者なのか。なぜ彼らは、不老不死になる術が書かれている『差流手事物』を知っていたのか。
 自分たちから瑞香へ情報が伝わる手段として、清隆は四辻姫の顔が浮かんだ。シャシャテンは日本で起きた重要そうな事柄を、いつも伯母へ連絡している。そして八重崎が帰ってからも、シャシャテンは手紙を書いていた。山住にも伝えないのか聞いたが、彼の調査している諸田寺内で誰かに読まれたら一大事だと言われた。
 となれば、やはり四辻姫から伝わった可能性が一番高い。しかし梧桐宗を警戒して部下に調べさせるほどの彼女が、情報を漏らすのか。何らかの手違いで『差流手事物』について流出してしまったともあり得る。
「それで、あの本――『差流手事物』のことで頼みがあるんだけど」
 八重崎の声に、清隆はいったん考えをやめる。今後も書を巡って何か起きかねないと案じる彼女は、これから同じような事態が起きた時にどうすれば良いか尋ねてきた。
「シャシャテンにも相談してくれる? あの人なら、いいこと考えてくれそう!」
 先日の邂逅で、八重崎は居候にどのような印象を持ったのか。些細な疑念を抱きつつ、清隆はそれを受け入れた。少なくとも清隆には、シャシャテンが四辻姫ほど策を練ることが得意なようには見えない。しかし現状、瑞香に関する事件で最も頼れるのはあの居候だけだ。
 帰宅後、そのシャシャテンに八重崎のことを話すと、彼女は難しい顔をした。
「八重崎殿が……そうか。ここは手を打たねばならぬのぅ」
 やはり不老不死になる方法を梧桐宗に知られてしまうのが一番良くない。シャシャテンはしばらく悩んだ末、清隆に提案をしてきた。
「『差流手事物』をな、なくしたと梧桐宗の者に言ってやるのじゃ」
 恐らくわずかしか広まっていない初版本の捜索自体に骨が折れる。加えて現存が確定していたものも失われたと分かれば、信者のやる気が削がれるとシャシャテンは期待する。
 次に彼らと会った際、紛失を伝える。翌日、清隆がその案を伝えると、八重崎は喜んで受け入れてくれた。
「しかし、学校の行き帰りに先輩が襲われたらどうするんだ」
「なるべく女友だちと一緒にいるようにするよ。まぁ、何かあってもこの前みたいに撃退できるし」
 どうも自分が狙われていた時とは態度が違うのではないか。怪訝に思いながら、清隆もまた八重崎の身に危険が及ばないよう、彼女のそばにいる間は注意を怠らなかった。

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