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六段の調べ 破 二段 一、青葉のころに

前の話へ

序・初段一話へ


 五月初頭の連休に入ったある日、午後を回ったころに清隆は指定された喫茶店前で彼女を待った。そばに生えている木は青々しく葉を茂らせており、強い日差しを避けてその陰へ入る。何気なく自身の姿を見下ろし、衣服に乱れがないか探る。家を出る前、シャシャテンにも何度か確かめてもらったが、最後には呆れて突き放されてしまった。
「そなた、いくら女子と出掛けるからと言って、気に病むのが過ぎているのではないか? ここは思い切って、ありのままで八重崎殿の前に出るが良い!」
 蘇った言葉を振り切り、清隆は背後の喫茶店に視線を転じた。事前に調べた情報によると、この店はテーブルを挟むように設置された席がそれぞれ個室として区切られ、他の客を気にしなくても済む構造になっているらしい。確かに瑞香の資料だとされる品を見せるには適している場所だ。八重崎がそのようなものを隠し持っていたことに興味を抱いて誘いを受け、資料について知ることが今日の目的ではある。
 だが清隆の意識は、それ以外の方向にも向けられつつあった。八重崎と二人して外出するのは初めてだ。問題の件以外で何を話そうか、用が終わったらどうしようか――。なぜか続々と湧き出てくる考えを頭から追いやろうとしていた中、八重崎はやって来た。
 校則で肩より伸びた場合は結ぶことになっている髪も、プライベートの今は下ろしている。白いブラウスに青緑がかった長めのスカートと、普段の溌溂な印象とは違った装いが目を引く。そしてなぜか授業中でも首から下げているサックスのストラップを、ここでも身に着けていた。
 予定の時間より少し早かったが、二人は揃って店内に入った。案内された部屋は入り口の反対側に大きな窓があり、初夏の光が差し込んでいた。さすがに眩しく思えてカーテンを閉め、木造の椅子に向かい合って腰掛ける。注文した飲み物がそれぞれ届いてから、八重崎は本題を切り出した。
「で、これが『差流手事物さりゅうてごともの』っていうみたいなんだけど。清隆くんがこの前言っていた、瑞香から送られた……内容のよく分からないやつで」
 彼女が鞄から取り出したのは、紙がいくらか変色している和綴じの書籍だった。表紙をめくると文章がしばらく続いており、数ページ進むうちに清隆には見覚えのある表のようなものが現れた。紙全体に四角い囲みがあり、縦に数行割った中には漢数字や記号が書かれている。中学校を卒業して以来清隆がほとんど手を付けていない、箏の楽譜にも似ていた。
「わたしが瑞香を知らないだろうって清隆くんが気を使ってくれたのに悪いんだけど……瑞香って名前自体は、ずっと昔に聞いたことがあったんだよね。ちゃんと知らなかっただけで」
 この本は、江戸時代後期辺りに八重崎の先祖が、何らかの理由で来訪してきた瑞香人から貰ったという。八重崎自身はこれをほとんど覚えていなかったとはいえ、実は彼女と瑞香の間に接点があった事実に清隆は下唇を噛む。八重崎が瑞香を何も知らないと勝手に判断し、事件に巻き込まれないよう隠し続けてきた。そのせいで彼女に迷惑や心配を掛けてしまった時もある。それを思い詰めてもいた中で、『差流手事物』のような関わりがあると明らかになるとは。
 清隆は本を何回もめくりながら、これが本当に瑞香の資料なのか考えた。一見、日本でも作られていそうな古い和本ではある。しかし今の清隆に、これがいつどこで制作されたか判断する知識はない。瑞香に縁がありそうなものなら、シャシャテンに聞くしかない。
「ごめんね、なんか清隆くんには心配させちゃったみたいで」
 瑞香を黙った件を言っているのかと、清隆は顔を上げる。言葉は自然と出てきた。
「いや、悪いのは俺だ。先輩を勝手に決め付けていた」
 表情がわずかに暗く見える八重崎に、続けて何か言おうと必死になる。その態度がどこかおかしかったのか、やがて彼女から堪え切れないような笑みが漏れた。
「でも、ありがとう。ここまで清隆くんが気にしてくれていたなんて、思ってもなかった。やっぱり優しいんだね、そういうところ好きだよ」
 持ち上げかけていたカップを置いて、清隆は窓へ目を向ける。カーテンが閉まっていたと気付いてわずかにそれを開け、通行人の絶えない外を見る。なぜか今すぐここを出て、人の群れに飛び込みたくなる。
「それで、清隆くんに瑞香を教えてくれたのってどんな人だっけ? そういえばあんまり聞いてない気がする」
 八重崎の言葉でカーテンを元通りにし、カップの中身を少し飲んで清隆は口を開く。前は人前だったこともあって詳しく話せなかった事情を説明する。
「去年の四月――新入生オリエンテーションがあっただろう、あの日に来た居候だ。変な名前だが、シャシャテンっていう」
 彼女が姫であるとは隠し、清隆は居候との暮らしを話す。この一年であった出来事を細かく伝えている間に、自分が瑞香に翻弄されていたと再認識する。八重崎以外からはっきり勘付かれなかったことが不思議なほどだ。実際には見て見ぬふりをしていたという可能性もあるかもしれないが。
 この春にあった山住や梧桐宗、不死鳥にまつわる事柄も教える。シャシャテンに恋人がいると聞いた八重崎は、清隆自身がシャシャテンをどう思っているのか問うてきた。その顔に、少し不安が差しているようでもある。
「シャシャテンはあくまで瑞香を教えてくれた恩人だ。心配はいらない」
 何が「心配はいらない」、だ。清隆は自分で言った後になって疑問を覚える。一方の八重崎は、これまで真面目に聞いていた話を受けつつ、現在進行形で清隆が瑞香に関わっている状態を驚いていた。自身の知らない所で物事が動いている状況に、彼女は興味を持ったようだ。
 まだ『差流手事物』の本が自分の側にあったと気付き、清隆は返そうと八重崎に差し出す。しかし彼女はそれを受け取らなかった。
「そのシャシャテンさんって、崩し字が読めるんだっけ? じゃあ、ぜひこの本を『解読』してもらえないかな? 題名と伝わった経緯しか知らないから、気になってさ」
 清隆はそっと、『差流手事物』を見下ろす。この書がどのような品か、本当に瑞香と関わりがあるのか、次々と疑問が浮かぶ。やはりこうした崩し字の資料は、シャシャテンに任せた方が早い。そう思って、八重崎の頼みを受け入れた。
 清隆が本を鞄に仕舞ってからは、瑞香と縁のない談笑が始まった。互いの飲み物が空になるまでそれは続き、店に入って一時間ほどして会計を済ませた。主な目的が終わって清隆は帰ろうとしたが、八重崎に袖を掴まれ足が止まる。
「ちょっと付き合ってよ、買い物行きたいからさ。確かこの辺に楽器屋さんあったよね?」
 サックスを吹く際に不可欠なリードが欲しいのだと彼女は言う。清隆は腕時計を一瞥し、まだ日が暮れていない間なら構わないだろうと判断した。人の買い物を見るだけとはいえ、不思議と悪い気持ちはしなかった。
 
 
「清隆、八重崎殿との『でーと』はどうじゃった?」
 和室にいたシャシャテンから、いかにも気になるといった様子で問われ、清隆は襖を閉めた。『差流手事物』を受け取って散策を終え、夕方近くに帰宅して早々の言葉だった。後で出直そうと階段に足を掛けるが、襖を外れんばかりに引き開けたシャシャテンに止められる。
「おい、今日のは『でーと』だったのじゃろう? 私は幽閉されておった故、思い人と揃って外へ出るのが如何なるものか分からぬのじゃ! 詳しく聞かせてくれ!」
「大したことはない」
 迫ってくるシャシャテンへ、清隆はすげなく答える。事前に聞いていた通り、瑞香に関係のあるかもしれない書物を受け取り、買い物に付き合っただけだ。鞄から出した『差流手事物』をシャシャテンに渡し、八重崎家との由緒を伝えて「解読」を求める。
「嗚呼、これは瑞香ではよく知られておる書よ。私も欲しいと思っておったぞ、美央に箏を教えるためにな。しかし八重崎殿のものを勝手に使うのも駄目じゃな。やはり伯母上が送ってくださるのを待つか」
「これは、箏の楽譜だったのか」
「察しが良いのぅ」
 清隆の呟きにシャシャテンが笑う。正確には箏の楽譜も付属した地歌集で、「差流」の「差」は、瑞香の都である「差柳さしやなぎ」を意味するようだ。なぜか「そなたの思い人のためじゃからな」と言って、シャシャテンは地歌集の「解読」を引き受けた。勝手な「思い人」認定が、清隆に理由も分からない苛立ちを抱かせる。
「とはいえ、伯母上から届くものとさほど変わらぬであろうな。……いや、そうでもないやもしれぬ」
 表紙をめくってすぐ出てきた目次を見て、シャシャテンは早速眉をひそめた。
「私も昔、これを手本に箏を習っておったのじゃが……その時見た奴とは違うのじゃよ」
 それを今説明しても、自分たちには伝わらない。そう言って、シャシャテンはしばらく書を預からせてくれるよう頼んだ。四辻姫のもとから届いたものと比較するつもりらしい。なぜ同じ内容であるはずの本を比べる必要があるのか。くすぶる疑問を抑え、清隆は答えが明かされる日を待つことにした。

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