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六段の調べ 破 四段 七、G線上のアリア

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四段一話へ

序・初段一話へ


 入院から二ヵ月ほどして、北は退院した。その様子を見に行こうと、美央は北の家に向かった。たまには一人で、彼と話がしたい。そう思っていた美央を、北は穏やかな顔で出迎えた。右腕に包帯はなく、動かすのにも支障はないように見える。
「清隆くんから聞いたよ。あの原稿は、やっぱり倉橋さんが持っていたほうがいいと思うね」
 ソファーに座る美央の前で、北はピアノの蓋を開ける。不老不死にまつわる記述はやはり気になるが、もう自分たちのもとにない以上は仕方がない。美央がそんな物思いに耽っていると、有名なクラシックの音色が耳に入ってきた。よくヴァイオリンと合わせて演奏されるものだが、その旋律をピアノだけで奏でている。
 一定のテンポで置かれる左手の伴奏が、意識をぼんやりと曲の中へ引き込んでいく。全音符だろうか、右手の指で長く伸びる高音に、なぜか目頭が熱くなる。今まで何度も北の演奏を聴いたが、こうして体に変化が生じるなど美央の経験にはなかった。
 治ったばかりだという右腕は、滑らかに動いている。ブランクがあるとは思えなかったが、北はまだ以前のようではないと苦笑する。演奏が終わってから、北は美央の向かい側にあるソファーに腰掛けた。
「美央さんもあのお寺に行ったんだってね。やっぱりシャシャテンさんがあんなことするなんて、驚いた?」
「もったいないなとは思いました」
 そこから、美央は諸田寺で自分が試みようとしたことを明かした。「人でなし」になりたくて不老不死を望む賢順と話をしたかったが、断られてしまった。恐怖を感じないのが原因である点が、今も腑に落ちない。
「わたしは、おかしいんでしょうか?」
「どうして、そう思うの?」
「興味を持ったもの以外に感情が湧きませんし、人間関係なんてどうでもいいですし」
「美央さんは、これまでどんなことに興味を持ってきた?」
 問い掛けた北から、美央は視線を逸らす。彼の演奏はもちろん、吹奏楽の曲や所持しているオルゴール、そして不老不死に関する一連の経過についてなどを思い浮かべる。
「だったらそれらと同じように、人が気になるってこともあるんじゃないかな。それに美央さんみたいな人、ほかにもいるはずだよ。きみだけが変わっているわけじゃない。そんなこと言ったらさ、なんの取り柄もないぼくだっておかしいよ」
 そう卑下する北には、ピアノが上手いという長所があるではないか。反論する美央にすぐ答えず、北は部屋半分を占める大きな楽器を眺める。
「いくらピアノを弾いても、ぼくは満足できないんだよね」
 元々下手であったのに、骨折でさらに腕が落ちてしまう。何も出来ない自分こそ「人でなし」だと呟く北に言い返そうとして、美央は思い留まった。自分がはっきりと「人でなし」の何たるかを分かっていないのに、違うと決め付けるのもどうなのか。
「『人でなし』って、なんでしょう?」
「ぼくみたいな人のことだよ」
 ざっくりとした回答は、参考になりそうにない。聞かなかったことにしようかと思ったが、ここでまた北が口を開いた。
「ああ、でもね。さすがに不老不死っていうのは、人から外れていると思うよ」
 美央は顔を上げる。やはり不老不死になれば、「人でなし」になれるだろうか。わずかに期待が浮かんだが、北の言葉が胸をざわつかせる。
「不老不死に憧れるなんて、ぼくには理解できないね。美央さんにも、ぼくのわからないものにはなってほしくないよ。死なないから苦しむこともあるだろうし。やっぱり死っていうのは、救いの一つでもある気がするね」
 必死で揺れる心を持ち直そうとする。相変わらずここ最近の自分は、人の一言一句に敏感となり過ぎている。冷静な声を出すべく努め、死ぬのが怖いと思った時はあるか美央は聞いてみた。
「あまりないね。死ぬっていうのも、眠っている間のことを覚えてないのと同じ感じじゃないかな? 美央さんはどう思ってる?」
「わたしもなんとも思いません。……よかった」
 自分と似たような人の存在に、鼓動が落ち着く。気分も多少良くなってきたところで、美央は帰ることにした。北に見送られながら、改めて「人でなし」について思う。やはりシャシャテンが言っていた気質の問題ではなく、別の基準があるのではないか。乾いた音を立てて道路を転がる落ち葉を見やり、日は高くとも冷えてきた中を美央は歩いていった。

 
 あの少女は、本気で不老不死を目指しているのだろうか。先ほど彼女から聞いた話を思い出す北の胸には、一抹の不安が浮かんでいた。あの年頃の少年少女が、色々と迷いやすいのはよく分かる。しかし一度道を踏み外してしまったら、もう戻れないのだ。人と違う存在になれば、彼女がどれほど苦しむか。もっと強く、何か言っておけば良かったかもしれない。
 心配を吹っ切ろうと、北は蓋が開いたままだったピアノへ向かった。特に決まった旋律もなく、全ての指をばらばらに動かす。突如聞こえてきたインターホンも無視したが、何回も続けて押されるとついに諦めた。玄関前を映すモニターを見ると、予想していなかった来客がいた。リハビリ支援だと言って楽器まで持参したその人を、ここに入れてやる。
「この前は本当にすみませんでした。清隆さんたちにも迷惑を掛けてしまって……」
 ソファーに座って頭を下げる倉橋が本当に反省しているのか、北は若干の恐怖を覚えた。時間が経っているとはいえ、あれほど怒りを見せていた様子から一転した姿は、すぐに受け入れられない。不安を顔に出さないようにしながら、北は許しの言葉を掛けた。
「しかしあの姫も、いくら何でも嘘だと切り捨てて破るのは、どうかと思いますよ」
 菅の原稿を破損させた六段姫に、倉橋はやはり腹を立てたのか愚痴じみたものを零す。それを黙って聞きながら、北は一途に四辻姫を思うシャシャテンのことを考えていた。あの人が王女と倉橋に聞いたのは、今年の初めだった。どんなに悪く言われても、伯母の良い面を信じて庇おうとする彼女は、優しい人なのだろう。そのシャシャテンについて、北は前から引っ掛かっていた点を尋ねる。
「ぼくも少しだけ原稿を見てしまったんだけどね。シャシャテンさんの家が分家――もとは正統じゃなかったっていうのは、本当?」
 倉橋は即座に肯定する。偉大な歴史家である朝重一族の資料や、父が何度も瑞香に足を運んで確かめたものをまとめた上で書かれたのだから、間違いないと。しかしそこにあるのが本当だとしても、姫にすぐ信じてもらうのは難しいだろう。そう零し、倉橋は楽器の準備を始めた。こうして二人で合奏するのは久しぶりだと笑っている。
 思えばこの人とは、ある事実を告げられてからその付き合い方に悩んで、距離を置いていたはずだ。それがなぜ、ここまでよりを戻すほどになったのか。
「瑞香をもっと知りたいって、あなたから言ってきたんじゃないですか」
 北の疑問に返した倉橋が、楽器を構える。どうやら自分も、苦手な人付き合いに立ち向かってまで瑞香に惹かれていたようだ。そのきっかけを作ってくれた少年たちに心の中で感謝を述べてから、北は鍵盤に指を置いた。
 演奏したのは、美央の前でも奏でた曲だ。彼女には言い忘れたが、二人が出会ったテレビ出演でも披露していたものだった。北が静かに伴奏を置いていく中、倉橋が大らかな旋律を奏でていく。ヴァイオリニストは普段と変わらぬ凛とした佇まいで、感情を溢れさせるように音色を響かせている。ビブラートを掛けながら伸ばす部分は羽を広げるがごとく、細かく動く箇所は繊細にと、所々で色が変わる。この人が弾いている裏では、自分の伴奏など霞のようなものだ。負傷した後となっては、なおさら肩身が狭い。
 ただ最後の一音が消えてからは、すがすがしさを感じていた。人と楽器を合わせた経験があまりなかった分、別の音が入ってくることが新鮮だった。楽器を下ろした倉橋に、北は思いを漏らした。
「やっぱり、ぼくは音楽が好きなんだね。入院中はピアノを弾けなかったから、落ちつかなかったんだよね。たぶん、楽器をやるってことをずっと捨てられないんじゃないかな」
「清隆さんも、似たことを言っていましたよ」
 口角を上げて頷く倉橋は、清隆と何を話したのか。北はピアノ椅子に座ったまま、詳しく聞かせてもらおうと身を乗り出した。

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