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六段の調べ 破 四段 一、奈落に落ちて

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序・初段一話へ


 桜台高校の文化祭が終わって行われた、後夜祭の帰りだった。北は降りた駅から別の路線に移る階段を進みながら、既に出発してしまった電車を見送っていた。次に来るのは数分後で、隣の駅で乗り換えなければ目的地まで着かない。つくづく自分には運がないと思い、北はホームの真ん中辺りで到着を待つことにした。
 鞄から、今朝貰ったばかりの紙束を取り出す。知人に渡されたもので、ある音楽家が遺した原稿だった。作曲家・指揮者であったその男は、また別の一面を持っていた。人目を気にしつつ紙をぱらぱらとめくり、北は呆れを覚える。知人が警戒されているのは分かっている。あんな無茶をしたのだから当然だ。しかしだからといって、大事なものを自分に託さなくても良かったではないか。
 ワープロもなかった時代から書かれた何百枚もの紙のある部分に、北は目を留める。これまで清隆たちとの会話でも話題に上らなかった内容だ。瑞香で知られてしまえば、大きな騒動になりかねないだろう。こんな重要そうなことを、あの人は日本全体へ伝えてしまって良いのか。
 電車の到着を告げる放送が耳に入り、北は原稿を仕舞った。一駅で降りるので席には座らず、奥の扉近くにあった吊り革に掴まる。いくら動いても景色の変わらない車窓には、あまり好きではない自分の容貌が映っている。それをすぐ後ろにいた着物姿の人物に見られている気がして、北は次の駅を知らせる電光掲示板に顔を向けた。
 そろそろ到着するころになって、北は何気なく前の扉に目を転じた。開くのは反対側であるはずだが、なぜか気になってしまう。その時、北の見ていた扉が炎に包まれ、やがて暗い線路とは別の光景を露わにした。少し枯れた所も見える草原が、静かな風に揺れている。扉周りの人は驚いていたが、彼らを除くこの号車にいるほとんどの乗客はそれをさほど気にする様子がなかった。
 清隆たちの話で、瑞香への行き方やその景色は聞いていた。もしかしたら今正面に通じているのは、瑞香かもしれない。思わず興味を持って風景へ顔を近付けると、不意に体が前に押された。
 振り返った北は、着物の男が片手を突き出しながらもう片方の手から炎を出し、消えていくのを認めた。これも清隆に聞いていた、日本と瑞香を自由に行き来する人だろうか。そして足が電車の床から離れて浮いている感覚に、北ははっとして下を見た。そこにあったはずの草原はなく、線路が敷かれている。思わず右腕を前に出した瞬間、強い衝撃と同時に意識が途絶えた。
 
 
 周囲が騒がしい。何が起きているのか知りたくて顔を上げようとすると、近くで生きていることを驚く声が聞こえてきた。足音が迫り、北はうわ言のように言う。
「どこかへ連れていってくれないかな……?」
 それからしばらくぼんやりとしていたが、やがて寝そべっている下のものに揺られていると気付く。自分は何かに載せられているのだろう。右腕に激しい痛みがあり、ぴくりとも動かせない。
「ぼくは、電車から落ちたのかな?」
 そばにいる人が「そうでしょう」と答え、それに北は納得した。少し前まで、地下鉄に乗車していたはずだ。記憶を辿りつつ、今度はここがどこか尋ねる。その駅名を聞いて、東京タワーが近いと何となく思い出していた。
 外の空気が感じられたと思えば、すぐ救急車へ移った。何やら手当てを受ける間、病院はまだか問う。もうすぐだと返されてしばらく後に車を出、屋内へ運ばれた。台の上で処置をされる間、看護師に名前と字を聞かれる。
「キタミチオ……『キタ』は方角の北、『ミチ』は道路の道、『オ』は雄です。……ここはどこですか?」
 病院名を教えられてから、今度は住所を尋ねられた。それを答えているうちに、北の意識は再び曖昧になっていった。
 
 
 北が電車から転落して右腕を骨折したのは、九月の末だった。その降車駅で開くはずのない側の扉から落下したという。目撃者の証言に「ドアが燃えた」とあったのを聞いて以来、清隆は瑞香との関連を疑っていた。シャシャテンも一連のニュースを見て、瑞香と日本の間にある結界を手繰る術を応用したのではと睨んでいた。
 しかし仮に瑞香人が絡んでいるとして、なぜ北があのような目に遭わなければならなかったのか。彼の入院する病院に地下鉄で向かう中、清隆は考える。事故から二週間が経っているが、北は今何を思っているだろうか。
 久しぶりに電車へ乗るシャシャテンも、いつもなら誰かに話し掛けている信も、今日は大人しい。中身の分からない袋を持つ美央は軽く俯き、ぼうっとしている。やはり三人とも、北が気掛かりなのだろう。降りた駅で待ち合わせていた八重崎と会ったが、彼女の笑顔にも曇りが見えた。地図で場所を確認し、五人で病院へ歩きだす。人数が多くないか心配だったが、前に連絡した際の北はそれでも良いと述べていた。
「美央さん、諸田寺でのことは……」
「もういいですよ、その話」
 紙袋を持っていない手を立てて謝る信を、妹は一瞥するだけだった。彼女が若干呆れ顔なのも当然で、信は学校などで会う度に美央へ詫びを言っている。怪しい宗教にはまらせるところだったなどと自分を責める様が、清隆の中でどこか北と重なる。
「生田くん、もうやめなよ。美央ちゃんだって気まずくなるだけだよ」
「左様、小僧は考え過ぎじゃ。体にも毒となるぞ」
「いやいや、それでも罪悪感ってのがね」
 八重崎とシャシャテンの言葉を聞いても、信は首を振る。そんな彼を美央が睨み、少しだけ口を開いたがすぐに閉じた。彼女の内心を清隆が気にしている間に、病院へと辿り着く。
 受付に事情を説明すると、北の部屋にはまだ先客がいると言われた。空いていた長椅子に並んで座り、呼ばれるのを待つ。初めはそう掛からないだろうと思っていたが、なかなか先客が出てくる様子はなかった。清隆が読み始めたばかりの文庫本が四分の一ほど進んだ辺りで、看護師が謝罪を告げてこちらに来た。どうやら先客と患者が口論になっており、面会が長引いているようだ。
 北の性格からして、人に激しく言い返すようには見えない。喧嘩する姿を想像できないでいると、看護師が見舞客と思しき人を叱りつつ受付へ連れているのを清隆は目撃した。
「あ、あなたって確か……!」
 隣に座っていた信が声を上げる。それに気付いた先客が、頬を緩めて頭を下げた。相手が誰だか分からず呆然とする清隆に、信が倉橋輪だと耳打ちした。その名は四辻姫のもとに上がり込み、またコンクールを見に来ていた人のものだったか。まっすぐめな眉や吊り目が凛々しい印象を与え、長い髪は後ろに流している。真ん中に合わせ目のないシャツにズボンを履いており、体型は分かりづらい。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません。つい私も熱くなってしまって……」
 清隆たちに歩み寄った倉橋は謝罪し、持っていた鞄から名刺を出した。確かに「倉橋輪」と記されているそれを見、清隆は倉橋が話し続けるのを聞く。
「皆さんについては聞いています。ぜひ北さんのことで話をしたいのですが――」
 今度は筆記具を取り出し、書き付けたメモを倉橋は清隆へ渡した。ここへ来る途中でも目にした喫茶店の名があり、見舞いが終わったらそこに来てほしいと言う。詳しい事情を聞きたかったが、それより先に倉橋は一礼して去ってしまった。
 看護師に案内され、北のいる部屋へ入る。病院独特のつんとした臭いが鼻を突く。奥を隠すように広がっていた白いカーテンを開けると、これもまた白いベッドがあった。そしてその背にもたれ掛かり、北が宙を見つめている。右腕に包帯を巻いて首から吊り、痛々しい姿だった。ベッドのそばに五人で並び、まず清隆が一声掛ける。
「北さん、具合はどうですか」
 すぐに返事はなかった。溜息をつく北の口がやがて動く。そこから声が漏れているように聞こえて、清隆は顔を近付けた。今度ははっきりと耳に入る。
「……ぼくは、ばかで、最低だ」

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