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六段の調べ 急 四段 三、誰も寝てはならぬ

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序・初段一話へ


 シャシャテンが清隆を見返る。思い詰めているのが伝わってしまったのか、彼女はしばし目を伏せてから言った。
「そなたに覚えはないのじゃろう? なら、何者かが勝手にそなたを使って呪いを掛けておるのやもしれぬ」
「……それでも、俺は色々と許されないことをしてきたからな」
 清隆に浮かんだのは、もう何度も頭で繰り返されている言葉だった。良かれと思ってやった動きが、悲劇へ繋がる。実際、この夏に自分は妙音院を救った代わりに朝重を見捨てた。彼女に恨まれてもおかしくないのだ。そう意識せずに、拳を握り締める。
「のぅ、清隆。朝重殿がはかなくなった時、私がそなたへ何を言ったか覚えておるか?」
 シャシャテンに問われてから思い出すまでに時間を要した。やがて、はたと気付く。
「また同じことが起きないようにするしかない……か」
 清隆が答えると、シャシャテンが笑顔で頷いた。今度こそ、自分が進んでこの事態を止めるべきなのだと清隆は心得る。
 ゆっくりと手を開き、長い息を吐く。ここで人々を助けたからといって、朝重が戻ってくるわけでもない。ただ自分が安堵するだけだろう。しかし、自己満足でも良い。何もしなかったら、朝重の二の舞となる。そしてまた意気地なく自分を悔やみ、責めるだけではないか――!
「分かった。今度こそ、誰も死なせない。これ以上、眠らせるものか」
 清隆は素早くシャシャテンへ向きを転じ、呪いを解く方法はあるのか尋ねた。そこにちょうど人々の様子を見終わってこちらへ来た賀茂に、シャシャテンが話し掛けた。清隆の要望を聞いた賀茂は目を丸くし、すかさず首を振る。
「此度の事はわたくしめが悪いので御座います。ここはわたくしだけにお任せを――」
「賀茂さん、俺にも協力させてください」
 話を遮った清隆に、賀茂が口ごもる。先ほども浮かんだ朝重への罪悪感や事件への後悔、そして今回の騒動に向けた意志を、清隆は伝えた。その声には、心なしか力が籠もっているように自身でも聞こえた。初めは渋い顔をしていた陰陽師も、ついに頷く。
「では、せめて亡霊には誘われないようお気を付け下さい」
 亡霊との語に、目を瞬かせる。この部屋にいる大勢を眠らせているのは、生きている者ではないのか。と、左隣の部屋を仕切っている襖から、救いたかった女の声がした。
『わたしですよ、朝重です。呪っている張本人』
 襖はぴったり閉じているはずなのに、冷たい隙間風らしきものが入り込んでくる。部屋は一瞬で不穏な寒気に包まれ、シャシャテンも思わず身を震わせる。清隆がじっと襖を見ていると、突如それは大きく開かれた。
 襖の先に、畳張りの光景はなかった。歩く所さえ分からない、一面が薄い灰色に塗られた空間に、時々白い靄が現れては消えていく。そこからは呼吸でもしているかのような、規則的な空気の音が響いていた。
『わたしに会いたかったら、こっちに来てください。早くしないと、もっと大勢にお休みしてもらいますよ』
 朝重の声は、彼女が目の前にいると思わせるほどはっきり聞こえた。しかし彼女自身は襖の奥、果てさえも分からぬ禍々しい空間にいるようだ。足を踏み入れる気が起こらず、清隆は立ち尽くす。あの中へ入った瞬間、歩きも出来ず落ちてしまったら。朝重が実は別の場所にいて、徒労に終わったら。不安が駆け巡っていた清隆の肩が、急に後ろから掴まれた。
「清隆になんかあったら心配だからさ、おれも一緒に行くよ」
 振り返った先にいる信は、恐れなど欠片もないように笑う。この男はどこまで呑気なのだろう。それでも味方がいることは心強く、おのずと清隆は首を縦に振っていた。
 シャシャテンと賀茂はここに残り、うち賀茂は術を使って清隆たちを補助すると名乗り出た。二人が呪いに遭わないよう願い、清隆は信と揃って襖の先へ入っていった。幸い足が抜けはしなかったが、地面や床を踏んでいる感覚はない。ふわふわと浮きながら空中で足踏みをしているようで、清隆は気分が悪くなりそうだった。
「おれたち、どこに向かってるのかなぁ」
 時々転びそうになりつつ、信が呟く。すると「冥界の入り口」なる返事が、ぼんやりと空間に反響した。振り返ってもシャシャテンたちのいる部屋は見えず、かといって前には何もない。歩いている間に周囲は靄で覆われ始め、視野がはっきりしなくなってきた。遠くで風の唸る音以外は何も聞こえず、匂いも感じない。自分たちを取り巻く靄に湿り気はなく、知らないうちに接触しているような不気味な感覚があった。
 これほどおぞましい状況を払拭しようとでもしているのか、隣を行く信が口笛を吹き始めた。清隆も聞き覚えのある、有名なオペラのアリアだ。音自体は素朴なのに、旋律の壮大さが失われていない。自分も合わせて吹いてみようかと、清隆が思い浮かんだ時だった。
 前方からはっきりと形を伴っている黒い雲が、清隆に迫ってきた。顔ほどの大きさだったものが、徐々に体積を広げていく。あれに呑み込まれればひとたまりもないと感じ取った直後、背を強く押されて清隆は倒れそうになった。口笛の音が遠ざかっていく。
 顔を上げた清隆は、口笛を吹き続けている信が雲へ手招きしながら後ずさっているのを認めた。やがて黒雲が信の体全体を覆い、その姿を消す。そしてすぐに風さえ吹いていない、静かな空間に戻った。
 立ち止まると、自分がどこまで歩いてきたのか、この先どう進めば良いのか分からなくなる。視界があやふやな中で、清隆は雲が湧き出てきた方を眺めた。あれは朝重が操っていたのではないか。冥界に近いというこの場には、もう彼女と自分しかいないだろう。清隆は意を決して、まっすぐに前へ足を動かした。
 靄が少しずつ薄くなっていく。まだ霞んでいる視線の先で、白い人影を見つけた。動こうともしないそれに近寄り、清隆はようやく正体を認識する。毛束の長さがばらばらな白い髪を持つのは、間違いなく朝重だった。だがその容姿は、生前と異なる点がいくつも見受けられる。髪はもちろん、肌も病人のように青白い。身に着けているのは白い着物で、通常とは逆の右前であった。さらに足元辺りは近くでもはっきりと見えず、幽霊であることを彷彿とさせる。
「『れい』って名前だったのが、本当に『霊』になってしまいました。おかしな話ですよね」
 はかなげな容姿に比べ、朝重の表情は生前で見られなかった明るいものだった。白い瞳は生きている間よりも光が灯っているようで、無邪気とも呼べる微笑みを浮かべている。その顔で、朝重は清隆に何気ない様子で問う。
「なんであなたは、妙音院さんを助けたんですか?」
 なぜ自分を救わなかったのか責めているような印象は、全くなかった。それでも心に隠しているだけかもしれないと、清隆は気を抜かず答える。一つは、自分も妙音院の出自を聞きたかったから。もう一つは、「滅んでも良い」と言われて耐えられなかったから。彼には後を継ぐかもしれない幼い息子がいるのに、決め付けられるのが嫌だったのだろうとも話した。蝉麻呂の存在を朝重は知らなかったらしく、小さな手を口元に持ってきて唖然としていた。だがそれも、すぐに笑みへと切り替わる。
「そう、後継ぎがいたんですね。じゃあ、別にあの人が亡くなったところで問題はなかったのでは?」
「蝉麻呂の父親が死んでも良いと思っているのか。お前も、親がいなかった身だろう」
 親から取り残される不安を、朝重は身に染みて知っているはずだ。清隆はそう期待していたが、思いも寄らぬ反応が返ってきた。
「……お友だちが増えると思ったんですけど。学校にも御所にも、仲のいい人はいなかったので。まぁ、期待通りになんてなりませんよね」
 その顔が悲しげに伏せられ、清隆は何も言い返せなかった。しばらく沈黙があるだけで、この薄暗く陰鬱な空間は重みを増す。それを打ち破ったのは、再び頬を緩めた朝重だった。
「ああ、それから妙音院さんの出自ですか? あの人が生きていても、どうせ話してくれるわけがないでしょう」
 朝重の言う通りだと清隆は思った。妙音院は彼女の死を経てもなお、その裏を明かすのを躊躇っていた。彼がいくら生き永らえたところで、清隆たちにその出自を教えはしないだろう。そんな諦めが心にありながら、清隆は思わず口を開いていた。
「……それでも、あの人が死んで良い理由にはならないだろう。彼を殺そうとしたのは、やはり受け入れられない」
 朝重がわずかに顔をしかめた。それなら自分は死んで良かったのかと低い声で問う彼女に、清隆は否定する。賢順の言葉を話し、救えなかったことを謝る。亡霊となった少女へ、深々と頭を下げた。
「俺が妙音院を優先したのが、全部悪い。本当に申し訳ないことをした……と言っても、許すはずがないと思うが――」
「許しますよ」
 清隆はわずかに目を上げただけで、姿勢はほとんどそのままでいた。
「わたしが死にたかったんだから、気にしなくていいです。すべてに裏切られて、どう生きていいかもわからなくなったんですから」
 倉橋とは今年の春、そもそもの価値観に違いがあったと判明した。あの人は変化を許容し、瑞香が世に広まることも許している。対して、朝重は故郷の在り方が変わることを拒んだ。瑞香に戻るまで我慢して倉橋と共同生活を続けたが、それも限界が来ていた。瑞香にも日本にも居場所はない。
「――これじゃあ、残された道は、死しかないじゃないですか」
「他に選択肢は浮かばなかったのか。いきなり死を選ぶのは早急過ぎるだろう」
「あの苦しさとか傷を抱えたまま、何十年も生きたくありません。現世にはこりごりです」
 片袖をまくって現れた腕を撫で、朝重は言う。つらつらと話を聞かされたものの、いまだに清隆は納得がいかなかった。前にシャシャテンは、「思いで病や生霊になる」と言っていた。もしかしたら、亡霊も似たものかもしれない。
「お前はなぜ、亡霊になっている。この世に何か心残りがあるのか」
 ゆっくりと身を起こして尋ねた清隆に、朝重は答えた。妙音院の件とは関係ないのだと。
「わたしがどうしても知りたいのは、瑞香とまったく縁のなかったはずのあなたが、なんであの国で起きている騒ぎとかに頭を突っこんでるのかってことです」
 瑞香に生まれた少女の霊が、怪訝に清隆を見つめていた。

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