見出し画像

六段の調べ 破 四段 四、怒りの日

前の話へ

四段一話へ

序・初段一話へ


 喫茶店で倉橋と会ってから帰るまで、美央の脳内は一つの考えに埋め尽くされていた。不老不死の方法を知っただろう賢順に頼めば、自分を「人でなし」にしてくれるだろうか。しかし帰宅して急に、「箏を習いに来たはずが、いつの間にか興味のない話を聞かされていた」と言っていた男の姿が蘇る。自分が「人でなし」になったとして、その反応が真っ先に気になるのが、なぜか彼であった。
 この頃、何をするにしても彼がどう思うかと考えてしまう。昔はそうしたことなど、微塵もなかった。今は例えば彼に思いを巡らせると、体の内から熱が出てくるように感じる。それは怒りと呼ぶのかもしれないし、別の言葉で表されるのかもしれない。
 人を気に掛けてこなかった自分は、変わってしまった。箏教室に誘われた際、彼にも変化を指摘された。いつの間にこうした事態になっていたのだろう。無自覚のそれが、恐ろしい。
 おかしい、こんなはずではなかった。自室に入るなり、ピアノの蓋を開けて美央は手を鍵盤に押し付けた。音の不調和など気にならない。昔の自分は、他人を気にしない存在であった。大方の人間とは違っていたのが、崩れてしまう。自分が自分でなくなってしまう。思わず美央は胸を掻きむしった。変化を受け入れたくない。周りに何も思わない、昔の心を取り戻さなければ。何が何でも、「人間のようでなかった」元の自分にならなければ――!
 美央は廊下へ飛び出し、階段を駆け下りる。襖を開けてすぐ、文机に向かっていたシャシャテンに原稿の場所が分かったか問うた。
「これから聞く所じゃよ、気が早いのぅ。そうか、そなたも手伝ってくれるのか?」
「違う、『人でなし』に興味があるだけ」
「言っておくが、私は『人』じゃよ。たまに『人でなし』か悩みはするがな。何気なく日々を生きている間は、『人』と思うておる」
「不死鳥の血だかが入ってるのに、よくそう言えるね」
 呆れて吐き捨てる美央に、シャシャテンはさらりと返す。
「別に良いじゃろう。血筋など構わず、人と共に生きたいならな」
 鼻歌交じりに筆を進める彼女の手元に、美央はじっと目を注ぐ。別に自分は、人と馴れ合いたいわけでも、諍いを起こしたいわけでもない。ただ余計な波風は立たせたくないだけだ。
「……こんなわたしでも、『人』として生きていいの?」
 ふと零した美央に、シャシャテンはあっけらかんと言う。
「そなたは人に興味がないのではなかろう。千鶴にそそのかされながらも私たちを救わんとしておったそなたはどこに行った? そうじゃ、信には特に――」
 胸に湧いた熱が全身を駆け巡ると同時に、美央は畳に掌を叩き付けていた。筆先から墨を垂らして振り向き、呆然とするシャシャテンに叫ぶ。
「もうわたしに、あいつがどうとか言わないで!」
 先ほどから速い鼓動が収まらない。心臓が動く度に、体中を不快が走る。時々圧迫してくるような感覚は、痛みだろうか。どうにも出来ない不調を隠し、美央は襖を壊れんばかりに引いて部屋を出た。
 
 
 居間の本棚を探し、清隆は北が倉橋を知ったという音楽雑誌を見つけた。倉橋がヴァイオリニストとしてデビューしたばかりの号で、見開き二ページ分しかないインタビュー記事を開く。倉橋は自身が菅宗三の子であると明かしておらず、また瑞香についても曖昧に表現していた。この話で北はすぐに瑞香だと理解できたのか、怪しいほどのものだった。
 棚に並んでいるバックナンバーを眺めていると、菅について大々的に特集している号もあった。一通り読んだが、瑞香に関する記述はない。本を仕舞って座卓に置いていたスマートフォンを見ると、倉橋から連絡が来ていた。メッセージには、ただ「話がしたい」との記述がある。まだシャシャテンに原稿の行方については何も聞いていないが、一応経過は報告すべきだろう。提示されていた日付が空いていたか確認し、清隆は了承の返事を入れた。
 そして数日後、清隆は予定通りに待ち合わせ場所へ向かうはずだった。しかしその朝シャシャテンに届いた手紙が、全てを狂わせた。
「聞け、清隆! まずいことになったぞ!」
 四辻姫からの手紙を握り締め、居間にいた清隆のもとにシャシャテンが駆け込んだ。彼女の懸念が現実になり、あの原稿は既に諸田寺へ渡っていると。それを本当に四辻姫に聞いたのか確かめようとして、清隆は文を受け取る。崩し字で全体の内容は分からなかったが、最後に記されていた差出人の名は辛うじて読み取れた。四辻姫が梧桐宗の事情を知っているのは、やはり倉橋が聞いていたように賢順とのやり取りがあったからか。
「そなた、諸田寺には行ったことがあるじゃろう? 案内せい!」
 今にもこちらへ掴み掛からんとするシャシャテンに、清隆は渋々承知する。それに満足したシャシャテンは、扉を開けて階上の美央を呼んだ。妹も連れて行くつもりなのか怪訝に思いながら、清隆は倉橋に連絡を入れる。申し訳ないが、この状況では約束を果たせない。
「おい、そなたもあれが気になるのであろう? 私と諸田寺へ行こうではないか!」
 まだ寝間着だった妹は、即座に頷いて部屋へ戻った。その間にシャシャテンは和室で荒らすような音を立て、地図を手に戻ってくる。諸田寺は行ったことがないからと、その場所を念入りに確認していた。
 慌ただしく支度を終え、清隆たちは玄関に並んだ。シャシャテンが地図を懐に入れ、呼吸を整える。失敗しても怒るなと言い付けてから、彼女は結界を手繰った。輪の中には、清隆にも見覚えのある山門が立っている。寺の前に下り立つと、シャシャテンはここが諸田寺だと知って安堵の表情を見せた。
「よし、早速賢順に聞こうではないか! 奴はどこにおる?」
「賢順が原稿の在り処を知っているとは限らないだろう」
 清隆はそう言いながらも、ざっくりと見当を付けていた。諸田寺にいる誰かが持っているとすれば、まず行くべき所は一つだ。清隆は記憶を頼りに、回廊を隔てて門と反対側にある僧坊へ歩きだした。玄関を抜けて廊下を進む中、並ぶ襖から人の声がしないのが気に掛かる。あの火事や処刑で無事だった信者たちは、消火のため半分ほど取り壊され、再建の進みつつあるという講堂にでもいるのか。賢順の居場所にも清隆は不安を覚えたが、それは杞憂に終わった。最奥の部屋で、探していた男は眉一つ動かさず紙束を眺めていた。
 シャシャテンの部屋より狭い空間に佇む姿は、清隆が儀礼の時に遠目で見たものとほとんど変わっていなかった。ただ近くにいるからか、以前には分からなかった静かな圧――威厳にも似た気迫は感じられた。それも大友よりは穏やかだが、一方で何を考えているのか読み取れない不気味さもある。
「これはこれは。微塵も兄に似ていませんね、六段姫」
 原稿用紙の束を閉じ、賢順は顔を上げた。
「こちらの書は一通り読ませていただきました。しかし、そうたやすく不老不死は叶いそうにはない。……ところで、外が静かだとは思いませんか?」
 清隆は賢順の向こうに備えられた窓を見、そこ越しに屋外の様子を探る。小鳥のさえずりや虫の鳴き声はするが、それもわずかでしかない。より大きく、広く響いていた声だけがない。いまだ戻らぬ不死鳥を考えるうちに、清隆は思い当たる。
「不死鳥は不老不死を実現させかねない梧桐宗を警戒して、瑞香を離れたんじゃないか」
 人が不老不死になるには、不死鳥の血や肉が必要だ。もし梧桐宗がそれを知った場合、自らが傷付けられる脅威を、不死鳥は覚えていたのかもしれない。現に彼らが姿を消したのと、梧桐宗が流行りだした時期は近い。清隆が見解を伝えると、賢順は残念そうに紙束へ目を落とした。
「わたしたちは尊い不死鳥に近付きたいのに、向こうから去られてしまうとは。何と皮肉な」
「不死鳥と等しくありたいのか? それは不敬じゃぞ、賢順。いくら王家でもせぬことよ」
 シャシャテンの呆れ声に、賢順が視線を動かす。彼は感情の分からない瞳でじっと王女を見据えると、低く言い放った。
「不敬なのはそちらでは? あなたの家は分家でしょう、六段姫。あなたの祖は、正しき血筋であった主家を追い払い、勝手に王位へ就きました」
「はぁ? 私は我が家が古より正しいと伯母上から聞いたぞ。そんな出鱈目をどこで……」
 賢順が静かに原稿を指差す。右上がクリップで止められていた束を数十枚ほどめくった所を示し、彼はシャシャテンに差し出した。初めは興味深そうに呼んでいた彼女だったが、次第に表情が怒りを堪えるようなものになっていく。そして何枚か読んでから最初の紙へと戻り、五本の指先でそれを軽く叩く。
 シャシャテンが紙束の両端を持ち、自分たちにも見せる気かと清隆は思っていた。しかしシャシャテンは手を束の上、真ん中辺りへ移し、そこに皺が寄るほどの力を込めた。
「嘘じゃ……嘘じゃ、こんなものぉっ!」
 立て続けに紙の破れる音がした。クリップの閉じていない方の紙は、投げ捨てられて行き場をなくし、ばらばらとなって宙を舞う。対して留められていた側は、端の破れが揃わぬ束と化し、重い音を立てて落ちた。それを拾ってさらに引き裂こうとしたシャシャテンの袖を、清隆は掴む。すかさずこちらに顔を向けた女の目には、今にも涙が溢れようとしていた。

次の話へ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?