見出し画像

六段の調べ 急 五段 四、貴方と夜と音楽と

前の話へ

五段一話へ

序・初段一話へ


 高窓から零れる光が、美央の瞼を刺した。いつの間にか牢の床で横になっていた。土埃を軽く払って起き上がり、美央はポケットのスマートフォンで時間を確認する。そろそろ学校に行く時間だが、日本にいないのだからどうしようもない。電波は相変わらず通じず、充電も切れそうだった。スマートフォンを仕舞い、牢の隅に縮こまる。
 女官が見回りに現れ、昨夜残した包みを回収して新しい包みと水筒を差し入れた。夏ならともかく、手も切れそうな寒さの冬なら少しくらい水分を取らなくても問題あるまい。美央は食事から目を逸らし、牢内に漏れる日を見て時を過ごした。やがて再び、女官が差し入れに牢を開ける。どうやら昼になったらしい。
「あなたは昨日より、何も召し上がっていないとお見受けしますが」
 古い包みを片手に持ち、女官が呆れ声を出した。何が悪いのか咎めるような目をする彼女に、美央は平然と答える。
「早く死にたいですから」
「そこまでされなくても、神器を盗んだとなれば死罪もあり得ますよ」
 四辻姫は神器を盗んだことを、重罪と考えているようだ。その裁定に、美央はほんのわずかな期待を覚えた。
「自分で何かしなくても死ねるのは楽ですね。処刑するのなら、早くしてほしいです」
 美央がそう話すと、女官は重い音を立てて包みを落とした。
「あなたは王の座を得るつもりなどないとおっしゃりますか?」
「瑞香がどうなるかなんて、興味ありません。そもそもわたしが箏を盗んだわけではないので」
「されば、なぜそれを明らかにされませんか! 罪を犯していないのに刑を受けるおつもりでございますか?」
 女官は扉が全開であると忘れたように、牢の中へ顔を突っ込んでいる。その必死さがおかしく見えて、美央は小さく息を漏らした。知らない人に心配されるなど、自分が何の徳を積んだというのか。女官の顔から視線を外し、美央は答える。
「わたしは単純に、死にたいんですよ」
 女官が姿を消しても、美央は動かなかった。空腹という感覚は遠のき、もはや何も覚えない。ここで食事を取れば、逆に体調を崩しそうだ。日が傾くにつれて寒さは厳しくなり、両手をこすり合わせても効果がなくなる。夕食にも手を伸ばさず、美央は夜を迎えた。
 早めに眠りへ就いて何時間経っただろうか。乱暴に扉が開けられた音で、闇に落ちていた意識は引き戻された。鍵が掛かるとまた静かになったが、美央はうっすらと目を開けるだけだった。窓からは淡い光が入り込んでいる。夜空には月が出ているのだろう。その光が自分の存在を暴きそうで、美央はより背を丸めた。
「美央さん、美央さん」
 忘れようとしていた高い声が呼ぶ。無視の決め込みも出来たが、本人か確認するためにも美央は起き上がった。そして月光に映る姿に、彼だと確信する。少年はズボンのポケットを漁ってから肩を竦めた。
「シャシャテンから手紙もらったんだけど、ここへ入れられる前に没収されたみたい」
 美央が捕まったと知ったシャシャテンが、兄と信へ連絡したらしい。先に動いた信は自分の救出に失敗し、逆に牢へ入れられたそうだ。
「清隆が後で来るみたいだからさ、それを待つしかないよね……」
 信が息をつきながら、美央へ手招きをする。暖房もないこの環境だからとは言い切れない寒気が走り、美央は後ずさる。だがその時、信が少し眉根を下げたように見えた。それに何を動かされたのか、気付けば美央は彼の隣に移っていた。
「ここへ連れこんだ女官さんに聞いたよ。美央さん、なんも食べてないんだって?」
 信の方から転がってきた包みが、美央にぶつかって動きを止める。美央はそれを手に取らず、ただ見やった。
「早く死にたいんです。こんな弱い自分で生きていくなんて、嫌です」
 ここ数日浮かんでいた思いを、美央は口にした。以前の自分にはなかった考えが、些細なことで己を蝕んでいく。以前自分を「強い」と言っていた人へ、美央は牢にしか響かない声で訴える。
「わたしは強くなんてありません。最近は人に振り回されてばかりです。昨日から今日も、あなたのことを――」
 そこまで言いかけて、はっとする。何気なく触れた顔が熱い。ここは暖もなく、冷え切っているはずなのに。彼が浮かぶ度、自分はおかしくなっていく。間違いなく、彼に侵食されている――それに恐ろしさと、怒りが湧き上がった。咄嗟に彼の方を向き、ポケットに手を入れる。
「あなたのせいですよ。あなたが、わたしをここまで捻じ曲げたんですよ!」
 ポケットから取り出した端末を、一心に床へ叩き付けた。画面の割れる音がし、細かい破片が足元に跳ね返る。それも気にせず、美央は牢の壁を見つめた。月に照らされていない方の壁は、その木目模様も見られない。
 落ちたものを拾う音がする。端末の故障を確信した信が苦笑し、話しだした。
「このスマホも今壊れちゃったけどさ、たぶん美央さんもこれと同じだよ。一度変わっちゃったら、もう前と同じには戻れないんじゃないかな。……申し訳ない。悩んでたなんて、ちっとも知らなかった」
「そんなこと――」
 自責する彼を止めようとして、口を閉ざす。彼の傷付く様を見たくなくて、またも心配の言葉を掛けている。そのやり取りがちょうど諸田寺の時と重なる。もう簡単に治りそうにない。加えて自分を変えた存在がいなくなっても、以前のようになれないというのか。
 床の上で拳を握る。自分が戻れないのなら。美央はゆっくりと首を動かした。己を歪めた男の顔は、月にぼんやりと照らされている。元通りになれないなら、腹をくくるしかない。彼の横顔から、美央は目を離さなかった。本当は横顔を見るのでは不十分なのかもしれない。新しい自分を作った彼とは、正面から向き合うべきなのだ。
 彼の手に、壊れたスマートフォンが握られている。修理しても、前と同じにはならない。それに自分を重ね、美央は拳に力を込めた。もう昔とは違う存在になったのだ。人に全く興味のなかった自分は死んだ。その一因である彼を遠ざけるのは、いつまでも自分の「死」を受け入れないのと同じだ。瑞香に来て以降も信を忘れようとした自分を思い出す。彼から逃げるべきではなかったのだ。そして、彼によって自覚させられたものも――。
 そばに転がっていたままだった包みを、美央は元の姿勢に立て直した。そういえば、彼に言おうとしていた話がある。
「あのオルゴールの曲、どんな曲だったか知ってましたか?」
 信が驚いてこちらを見、首を振る。それなら話甲斐があると、美央は調べた詳細を語った。作者と題名しか知らなかったという信は、舞台の具体的な内容などを教えてくれたことにひどく感謝してきた。
「それにしてもあれ、いい歌だったんだね」
「わたしも意外でしたよ。……これを、ずっと話したかったんです」
 他に考えていたことといえば、死への意識くらいだった。自分はそれほど、彼に囚われていたようだ。
 主人公が良い人なのか尋ねた信へ、美央はシャシャテンが言っていた「人でなし」の定義を聞かせた。人を思わず自分のために利用するのを、彼女は「人でなし」と称していた。以前尋ねた時には答えてくれなかったが、シャシャテンの思う「人」とは、その逆なのだろう。
 オルゴールの原曲に付いていた歌詞を、美央は小さく口ずさんだ。生贄として自分のもとへ来た人間を容赦なく殺していた主人公が、初めてヒロインを思っていると自覚して歌ったものだ。
「『微かな瞬きでも 私を照らすに足りる ただ一つの灯』――ああ、それでシャシャテンは、彼を『人』って言ったのか」
 何百年も死ななかった異常体質を持っていたが、最後はヒロイン一人へ心を寄せ続けた。梧桐宗への入信を望んでいた美央なら、その主人公を「人でなし」と見做していただろう。しかし「人」であるのに、身体の事情は関係ないのだ。傷が治る速さがどうであれ、心の在り方次第でいかようにも「人」か「人でなし」になり得る。
「……じゃあ、やっぱりおれも、ちゃんと『人』っていえるのかなぁ」
 少し薄暗くなった信の顔を、美央は一瞥する。祭りの場でははっきり「人」だと豪語していたのに、今さら何を言うのか。それを指摘すると、信は左のこめかみをさすりながら口元を緩めた。
「清隆たちならともかく、ほかの人ならどう思われるか気になってさ。『人』認定してもらえるのかなって」
 信は以前、自分に憧れていると言った。あれは昔からぶれない様を羨んでからだったか。
「それならあなたも、まっすぐに『自分』を持ってほしいですね。わたしのようになりたければですが」
 暗くなった信の姿が、大きく伸びをする。この牢でよく呑気になれるものだ。美央が呆れている間に、月の光は窓の向こうから消えていく。
「そうだね。おれも将来とか考えてみるよ。だから美央さんも、今のままでいてね」
 牢を照らす光は何もなくなった。目の前にいるはずの信が、どんな顔をしているかも分からない。美央は窓側の壁へ向き直り、改めて「人」としての在り方を考える。これまで受けた否定や提案を組み合わせるうちに、手助けをくれた居候に感謝が湧いてきた。じわりと温かいものが胸に広がるが、それに不快は感じない。そして答えがやっと一つにまとまりかけた時だった。
 壁に明かりが差し込んだかと思えば、戸の開く音がした。手燭を持つ女官の後ろに、衛士が立っている。箏を盗んだ人物が自白したので、美央たち二人は解放すると言われた。事態の急変に戸惑う暇もなく、牢から引きずり出される。先頭を行く衛士と女官が前を見ている隙に、信が美央へものを手渡してきた。それが画面の割れたスマートフォンだと気付き、美央はちらりと見てズボンのポケットに入れた。
 牢のある棟を出ると、随所に焚かれていたかがり火が眩しかった。両脇に立つその間を抜け、門の外へ出る。正面には、無表情の妙音院が手を後ろに回されて立っていた。よく見ると背の側から縄が伸びており、見知らぬ男がその先端を握っている。ここまで案内した二人が柱のそばに移った後、足を止めた信が声を上げた。
「妙音院さん、どういうことですか!?」
「落ち着け、小僧。これには訳があってのぅ」
 門の向こうから、誰かが近付いてくる。やがてシャシャテンと兄だと分かった。二人は揃って、妙音院の後ろに並ぶ。月は見当たらなかったが、門の左右で燃えるかがり火がはっきりとその姿を照らしていた。

次の話へ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?