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六段の調べ 急 五段 三、もう一度姿を現して

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序・初段一話へ


「もう亥の刻も迫るぞ。あやつは何をしておる?」
 火鉢に手をかざし、シャシャテンは部屋にある行灯の光を眺めていた。箏の返却を求めた相手は、一向に帰ってこない。見かねた妙音院が賀茂のもとへ行き、シャシャテンは山住と共にその帰りを待っていた。隣に座る従者は、今にも王女へ倒れ込まんばかりに舟を漕いでいる。神器がある件について、昨日から対応に追われていたのだろう。
「城秀、そなたはもう休め。後は私が済ませておく」
「しかし……」
 山住の返事も、はっきりと聞き取れない。意地でもこの部屋に残るつもりなら、何とかして寝室へ連れて行くべきだろう。シャシャテンは決心して立ち上がると、山住の背へ腕を伸ばしてから膝下へ手を入れようとした。日本で俗に言う「お姫様抱っこ」をやりたかったのだが、肝心の相手に止められる。
「姫様には荷が重過ぎます。そこまでなさるようなら、お言葉に甘えて」
 寝ぼけ眼の山住が苦笑する。彼が廊下へ出てしばらくしてから、何かにぶつかるような音をシャシャテンは聞き付けた。あの少し不覚を取りがちな心様はどうにかならないものか。そこが彼の愛らしい点でもあるのだが。
 やがて妙音院が部屋へ戻ってきた。賀茂に調べてもらった末、美央は内裏にいるらしいと分かる。夕方辺りにここを出たのにまだあそこにいるとは、何かあったに違いない。伯母から宮城へ戻る許しは得ていないが、入り口くらいなら大丈夫だろうとシャシャテンは考えた。
「しかし、衛士から止められるというのもありえるのでは?」
「伯母上が会ったこともある恩人の件じゃ。聞き入れてくださるじゃろう」
 妙音院が止めるのも振り切り、屋敷の女中が用意した提灯を手に、シャシャテンは一人で外へ出た。屋根との境も分からない闇の空に、いびつな丸をした月が浮かんでいる。こんな刻に外出する町人などいないと思っていたが、大通りに入ったところで一人の民と行き合った。参賀の場にもいた六段姫か確かめられ、嘘をつけずそうだと認める。するとその町人が眠っている人々を呼び寄せ、たちまち数人の寝間着姿に囲まれてしまった。
 時々瞼をこすって民が訴えるのは、四辻姫に対する恐れだった。祭りで倉橋や不死鳥が語っていたことを信じ、女王が本気で「建国回帰」を行うのか尋ねてくる。幽閉されていた間、自分を育んでくれた伯母を思い浮かべながら、シャシャテンは民を宥めた。
「あれは伯母上が乱心しておるだけじゃ。いずれ収まる故、安心せい」
 しかし町人は、すぐに引き下がらなかった。なぜそこまで四辻姫の味方を出来るのか問うてくる。袖を引っ張られ、髪にも触れられながら抗わず、シャシャテンは返す。
「私はのぅ、伯母上のもとで十年ほど育てられたのじゃ。あの方は母上を失った私へ、様々なことを教えてくださった……」
 言葉を口に出す度に、白い息が立ち上がる。一年中どこかで薄く雪を被っていたあの山は、ここよりも厳しい寒さだった。屋敷で初めて冬を迎えた時、何度も赤くなってひび割れる指に泣いた自分の手を、伯母は優しくさすってくれた。
 もちろん彼女は、ただ親身だっただけではない。母を殺した伊勢へ仇討ちがしたいために武術を学ぶ許しを得ようとした折は、なかなか認められなかった。政や瑞香の史といった学を厳しく教え込まれたことも、シャシャテンは覚えている。伯母が大友に王位を奪われる前に行っていた治世を語った話は、今でもためになると思っている。こうして十年以上、彼女から学び続けたのだ。
 十年以上、と気付いてシャシャテンは目を見開く。この年月は、自分が母と過ごした日々より長かったではないか。母は王家の習わしを破って、乳母に頼らず自ら自分を育てたと聞いたが、それでも彼女と共にいた年は二桁にも満たなかった。そう考えると、自分にとって四辻姫は、もはや「母」と同じなのかもしれない――。
「姫様が尊敬されるほど、陛下はよい治世を行っておられたとおっしゃられますか? ではなぜ今になって、あの方はよく分からぬことをお考えに?」
 自分に縋りつく若い町人の悲痛な声に、シャシャテンは目を閉じる。何が女王を変えてしまったのか。一度目と二度目の即位にある違いを考え、シャシャテンは思い付いた。
「屋敷に幽閉されておった間に、何かあったのかのぅ……?」
 途端に自分を囲む人々が、責めるような目を投げてきた。その訳をシャシャテンは分かりかねていたが、やがて耳にした一言に虚を突かれた。
「姫様は何も気付かれなかったのでございますか!? 屋敷におられた間に、陛下が変わってしまわれたことに!」
 人々に掴まれていた両手が、急に重く感じる。これまで考えもしなかったことが頭の中を占め、シャシャテンには誰の声も聞こえなくなった。
 寒さの厳しい見知らぬ土地に追いやられたという点では、自分も伯母も変わらなかったのだ。そしてその苦しみも自分と同じ――もしくはそれ以上だったかもしれない。あの幽閉で、四辻姫も悩みがなかったとはいえないのだ。
 それなのに自分とくれば、四辻姫をただ元女王として尊敬し、伯母として慕っていただけだった。彼女が私事に抱いていた悩みを、全く見抜けなかった。十年以上ずっとそばにいながら、何一つ察していなかった。もしその間に、四辻姫が「乱心」してしまっていたとしたら。民を恐れに陥れている所以は、己にあるのではないか――?
「姫様は陛下の治世に倣われますか? それなら姫様も、不死鳥様のおっしゃっていたことをなさるおつもりでいらっしゃいますか!?」
 一人の声に、シャシャテンは我に返った。名前も分からぬ町人が、こちらを涙目で見つめてくる。恐らく四辻姫の顔もよく覚えていない一介の民が、彼女について何も知らずに畏怖しているのだ。胸に湧き上がる思いを鎮めようと、シャシャテンは冷たい気を吸い込んで声を上げた。
「伯母上を悪う言うでない! 伯母上は伯母上なりの術で、瑞香を平らかにせんとしておるのじゃ! ……それが、そなたたちには計り知れぬだけじゃ」
 思えば自分は、その女王に申し出をするために御所へ向かっているところだったのだ。用があると言い残し、シャシャテンは自分を囲む人の間へ入り込んだ。後ろから袖を引かれているように感じたが、それを力ずくで払う。
「……伯母上へ、会いに行くのじゃ」
 振り返らず言い放った声は、ひどく低いように聞こえた。雪が解けてぬかるんだ道を進み、宮城へ着く。門の前に立つ衛士へ、客が来なかったかシャシャテンは尋ねた。そして「明るい髪色の女が、鳳凰の箏を盗んだ罪で牢に入れられている」と聞く。衛士の言う女が美央であるとは明らかだった。
「その者に罪はない。疾く放してやれ」
 子細を伝えるも、固い物腰の衛士は聞き入れない。そこに、昔からよく顔を合わせていた伯母付きの女官が現れた。
「申し訳ながら、姫様のお望みといえども、私たちは陛下に従わねばなりません。どうかお引き取りくださいませ」
 それだけ言って去ろうとする彼女を、シャシャテンは大声で呼び止めた。
「待て、せめて伯母上には会わせてくれ! 私が悪かったのじゃ! 私は伯母上のことを、何も見ていなかった!」
 自分にとって四辻姫は、立派な女王であり、頼れる親だった。そして、その面でしか彼女を捉えていなかったのだ。
「私は伯母上が苦しんでおったとは知らなかったのじゃ。それは謝る。悩みがあるのなら聞く。じゃからそのためにも、伯母上に会わせてくれ!」
 門に足を踏み入れようとすると、衛士に腕を掴まれた。女官はシャシャテンの頼みを聞くそぶりも見せなかったが、途中でゆっくりとこちらを向いた。内裏へ続く道の両側に並んだかがり火が、女官の瞳を冷たく光らせる。
「陛下が最も苦しんでおられる所以こそ、姫様なのでございます」
 その心を真っ先に知りたかった。去っていく女官を追いたくても止められる。だが諦めるまいと、シャシャテンは奥にいるはずの伯母を何度も呼んだ。実の母より母らしかった、それでいて何の孝行も出来なかった大切な人へ。

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