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『深い河』を読んだ

こんにちは。

遠藤周作の『深い河』をついさっき読み終えた。少しだけ感想を綴ります


『深い河』の扱うテーマ

小説を読むのは実に3年ぶりくらいであったが、表現の洗練されていることや、学術書とは異なる形で投げかけられる種々の問題によって専ら傾倒させられた。

この本では、死と生輪廻転生というテーマがまず第一にあると思うが、それ以上に宗教多元主義という問題やイエスや神の捉え方など神学的、宗教学的な議論があらゆる登場人物、場面において持ち出されていたことが僕の興味を惹きつけた。

カトリックの神父や教会という正統的権威とそこからはみ出す大津、また神を否定していた成瀬や他者の宗教や考えに全く歩み寄らない三條の構図。また明らかな宗教間対立であるインディラ・ガンジーの事件、一方で宗教の垣根を超えた(?)大津。このような個々の具体的なエピソードが示唆するものは多く、複雑で難しいものである。他にも宗教とはまるで無縁のように描かれているエピソードもあった。3章美津子の場合の「心の奥の闇」や、「人間の河」「人間の深い河の悲しみ」と言った表現がそうである。それらはスピリチュアリティ研究(それに関連する著作)でよく目にするものであったりする。スピリチュアリティも同様に、水や川といったメタファーで語られる。


文学、日本語の素晴らしさ

また、僕は文学の表現にも心を打たれたわけで、最後部の「こみ上げる悲しみを…人生全体で怺えている」というところなどは非常に美しさを感じる。

そのフレーズ自体もそうであるが、「怺える」という漢字が素晴らしい。

「コラエル」を漢字に直すとき普通は「堪える」という漢字を使う。この2つの漢字で何か意味が違うのだろうかと思って、グーグルで調べてみた。以下の記事が見つかった。

https://ameblo.jp/k-konnothalasso/entry-12375560227.html

「怺える」には我慢するだけではなく許しが入っています。
…この時はただけ耐えているのではなく、我慢を強いている相手を許すことも含んでいます。許しがたい事を許し破滅し合わないことを意味しています。

ただ我慢すること、それが「堪える」。しかし我慢しつつも、その耐えるべき事柄に対して受容の姿勢を持とうとし、そうであることを認めるような意味合いが含まれているのが「怺える」。

道教的な姿勢ですが、実は「怺」は国字だそう。

そして漢字自体に言及すれば、「忄」は心という漢字を伸ばしたものであり、また「永」は永遠性であり、時の限りがないことを表す。つまり永遠の心で我慢し、耐え、受容し、許すことなんでしょう。

この漢字1つだけで小説のテーマを、この小説の全てを一手に担っているように思えませんか。末尾から数えて3頁めにあってこの漢字を使ったのは、意図的なんでしょうか。深読みしすぎている気も多分にしますが。


といった感じで、この小説が扱うテーマや、それを表している表現のことについて書いてみました。

とても面白かったので是非ご一読を。

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