デモの暴徒化?

アメリカのミネソタ州で警察による過度の暴力(?)で男性が死亡した件で、デモが暴徒化している。という言葉をよく見る。そしてその「暴徒化」という言葉は、しばしば批判を含み、批判を呼び起こす。

私は、それは違うと思う。

同じような話題は、2019年から香港で起きている(あえて現在進行形で記載する)反逃亡犯条例改正案運動がある。7月1日に立法会を反政府派が占領、長期にわたるデモでは、しばしば火炎瓶や落書きをする姿が報道された。

「平和的に。」「同じになってしまうよ。」「暴力はいけない。」

優しい批判では、しばしばこのような言葉がみられる。きつい批判は、私は反吐が出そうなので記載しないが、まぁ皆さんは想像できるであろう。SNSで人を殺せる時代である。

私は、この2件のデモに対する批判は、平和ボケの産物であると考える。言っていることは、正しい。ただ、発信者は何を見て発信しているのだろうか。今、自分の目の前にある報道、言葉、それだけを自分のその「平和的な立場」のもとで発信しているのではないか。

私は、アメリカに詳しくはない。でも、キング牧師やK.K.Kの存在は知っている。少なくとも何十年も前から問題視されている問題である。そして、少なくとも「問題視された。」、「声をあげる人が日の当たる場所に出てこられた。」、その段階まで行ったのが、その何十年も前である。果たして、その理不尽さに耐えてきた人、声をあげ続けていたのに消された人・スポットライトの下に出られないで死んでいった人が、何十年、何百年、どれほどの長い間、それほど多くの人がいたのであろうか。黒人の大統領が当選して、喜んでいる、黒人の歌手が活躍して話題になる。その時点で、彼らが違うものとして扱われている。彼らが真に求めているのはそこではないのではないか。

香港の問題も、同様である。私が自ら香港の社会問題に食いついたのは2014年雨傘運動。その時にはすでに、香港人は世界を巻き込む大規模なデモを引き起こしていたのだ。2014年には、すでにそのレベルまで達していたのだ。あれから何年がたったのか。6年。平和的なデモをして、何が変わった?求めていたものは何も変わらなかった。変わったのは「平和的なデモをしても何も変わらない。」という事実や思いが香港人の中で芽生えたのと、中央に対しての、もっというと、その国に対しての憎しみである。(注、私は幼いころ5年以上香港に住んでおり、1年ほど香港の大学に留学もした。その縁と経験をベースに、現地メディアや専門の先生方の文章を読んでの考えである。)

別に、デモに共感しろとも同情しろとも言わない。

個人の自由である。

ただ、むやみに批判していい話題ではないと思う。

貴方は、何年も何十年も理不尽さに向かって戦ったことはあるの?

「平和的に」は、貴方が実現したの?それとも平和的な今の立場から、今だけを見て夢を語っているの?

次回は、デモに関して経験談や思いを書こうかな。


最後に、私は、国や国籍の是非を問うているのではない。アメリカも素敵な国だし、中国も魅力的な国である。



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