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短編小説 嵐の日に

一体いつどこの誰が始めたことなのか皆目見当はつかないが、台風には名前がある。今日本列島を横断している台風三号。名前はメイヌー。意味は不明。調べていないからわからない。

近年稀に見る巨大台風で、中心気圧は970ペクトパスカルだそうだ。普通に生活していたら、970ヘクトパスカルの台風がどれくらいの規模なのかイメージしづらいと思う。でも僕にはわかる。僕の頭は気圧の変化に敏感だから、昔からよく調べていた。とにかく、とんでもなく強いということだ。

だから僕は家を出た。時刻は午前2時。夜はとっくに更けきって、街灯以外の明かりは街から消えている。今恐らく、僕がこの街で唯一の外出者だ。

吹き荒れる強風に乗った雨粒が弾丸のようにあらゆる方向に飛び交う。まるで戦場にいるみたいだった。おでこに弾丸が当たり、あまりの痛さに僕は思わずよろめいた。

自宅から5分ほど坂を下ると、神田川に辿り着く。予想通り、濁流は怒り狂う龍のように轟音を立てながら流れていた。

「川の様子を見てくる」と言い残して外出するお爺さんはほぼ確実に死ぬ。現実世界でよくある死亡フラグだ。

僕は今日死ぬためにここに来た。970ヘクトパスカルの巨大台風に殺されるために。

「あれ? 香坂くんじゃん」

鉄柵に掛けた右足を下ろす。いつの間にか、隣にクラスメイトの女の子が立っていた。彼女はずぶ濡れだった。もちろん僕もずぶ濡れだ。

「香坂くん。何してるのこんな嵐の日に」

彼女は両手を後ろで組み、不思議そうな表情を僕に向けて言った。僕としては、彼女がここにいることの方が不思議でならなかった。

「北川さんこそ、こんな夜遅くに何してるの」

「散歩だよ。明日から始まる中間テストの勉強してたんだけどね。現実逃避」

「傘もささないで?」

「傘なんてさしても意味ないから」

「そっか」

僕らは見つめ合った。それ以上交わす言葉が見つからなかったからだ。僕らは同じ高校の同じクラスに通っているけど接点はそれくらいで、仲は良くも悪くもない。家が近所だとは認識していたが、近所を散歩して遭遇したことはなかった。

こんな嵐の日に。しかも死ぬ直前に。

「香坂くん。とりあえずさ、一緒に散歩しない?」

「うん」

天気予報によると雨風のピークは午前3時で、そこから徐々に弱まり、朝には台風一過の空模様が広がるそうだ。

「明日は台風一過らしいよ」と僕は言った。今の僕には明日の天気ほどどうでもいい話題はなかった。でも多分、彼女には大切な話題だと思った。

「あぁ、それは残念。臨時休校ならなそうだね」と彼女は肩を落とした。

弾丸のような雨粒が頬にぶつかった。「痛い」と口に出しそうになった。

「香坂くんさ」

「うん」

「死のうとしてたでしょ。さっき」

「うん」

「どうして?」

僕には数人の友達がいる。父と母と兄もいる。愛犬もいる。好きな先生も嫌いな先生もいる。勉強は苦手だけど、やればできる方だ。運動はてんでダメ。社交性もない。映画や漫画が好きで、シチューが嫌い。面倒臭いことはなるべく避けて生きてきた。将来の夢はない。彼女はほしいけど結婚はしたくない。お金はほしいけど大金持ちになりたいわけじゃない。繰り返される毎日。繰り返される毎日。毎日。毎日。破顔するほど楽しくもなければ絶望するほどつまらなくもない。だけど、ややマイナス寄りの日常。希望はなし。

「そういうのを全部ひっくるめて、全部が嫌になった」と僕は言った。驚くほど素直に、また大きな声量ではっきりと伝えることができた。

彼女はしばらく沈黙を貫いた。それがよかった。「自殺なんてダメだよ」とか「生きていればいいことがあるよ」とか言われたら、逆上して手をかけてしまいそうだった。

僕らはずぶ濡れになりながら、公園のベンチに腰掛けた。

「香坂くんって生きづらそう」と彼女は言った。

「生きづらい。何か別に、考えなくてもいいことを深く考えてしまうのが、そういうのが、もう、本当に」

「でもね、多分私の方が生きづらいよ」

「北川さんの方が?」

彼女が力なく笑った。

「私ね、3年前、13歳の頃、部活の顧問から性加害受けてね。それからしばらく声が出せなくなっちゃって。それはもう治ったんだけど、味覚がないの。食べるって幸せじゃん。それが奪われたの。それでね、顧問は懲戒免職になって学校からいなくなったんだけど、結構OBやらOGやら父母会から愛されてるジジイだったみたいで、みーんな私のこと責めるの。私が色目使ったとか。そんなわけないのにね。で、男性恐怖症になり、結婚はおろか彼氏すら作れない状態になっちゃったってわけ。ね、生きづらいでしょ」

濁流の轟音が二人の間に流れる。

「何で、そんな大事なこと僕に。てか、僕男性だけど、普通に話せてるじゃん」

「ね。わかんない。不思議。今から死ぬからかな」

嵐の日に、傘もささず川の様子を見にくる人間の目的が散歩のはずなかった。

海上で発達した積乱雲が集まり、熱帯低気圧になる。熱帯低気圧の風速が17メートル毎秒を超えると台風になり、メイヌーだの何だの名前をつけられる。台風は日本列島に近づきながら力を増し、やがて本州へ上陸する。上陸した台風は発達をやめ、徐々に気圧を落としていき、最後には温帯低気圧になって消える。

僕の心も、そうやって順序よく綺麗に追い込まれていった。大きなきっかけがあったわけではない。今日までずっと積み重ねたネガティヴの風船が今日破裂しただけのことであって、もしかしたら明日の可能性だってあった。

明日の中間テストの勉強をしていた北川さんだって、今夜死のうと思ったんだ。

「香坂くんさ、死生観って言葉知ってる?」

「死生観?」

「うん。読んで字の如くなんだけど、生き死にに対する考えのことでね。私、この3年間毎日ずーっと苦しかった。普通に登校できるようになったのが奇跡ってくらい苦しくて、毎日生と死について考えてたんだ。で、さっきわかったの」

嬉々とした表情で語る彼女の目には、光が宿っていた。明らかにこれから死ぬ人間の目ではなかった。

「『どっちでもいいんだ』って。生きていくって決断しようが、死ぬって決断しようが、どっちでもいいの。だってまず、私たちがこれまで生きてこられたことが既に奇跡でしょ? 小さい頃とか無茶なことしなかった? 高いところから飛び降りたり、過度な悪戯しちゃったり。そういう無茶を乗り越えて今、私が生きていることと、誰も殺さずにいられたことが奇跡でしかないって思ったの」

「だからって、死ぬ理由にはならないんじゃ」

「なるよ」と彼女は笑い、長袖を捲って左手首を見せた。そこには無数の切り傷が刻まれていた。

「こうやって自分を痛めつけないとね、生きてるって思えなくなる時があるの。本当はもう死んでるんじゃないかって。そう感じているってことはつまり死んでいて、だから、さっきの考えは正当なはずだよ」

僕は何も言い返せずにいた。俯き、滴り落ちる雨粒を鬱陶しく感じていた。

「じゃ、私、いくね」と言い彼女は立ち上がった。

「行くってどこに」

ただ微笑み、彼女は公園を後にした。僕は彼女の背中を見つめることしかできなかった。

今までで一番の突風が吹いた。僕はとてつもない恐怖心に襲われ、体が震えだし、駆け足で自宅まで戻った。

翌日、予報通りの台風一過で快晴の空模様が広がっていた。対照的に、僕の心には暗雲が立ち込めていた。中間テストの勉強をしていなかったからでも、臨時休校にならなかったからでもない。彼女の行方がわからなかったからだ。

「あれ? 香坂くん。おはよう。通学路で会うの初めてだね」

「北川さん……」

「予報通りの台風一過だね」

言いようのない多幸感と安堵感に包まれた僕は、晴れ渡った空を見上げた。

幾重にも重なり合った奇跡が、辻褄の合わない人生を彩る。「どっちでもいい」から、もう少しだけ生きてみようと思った。

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