東京藝大DOORプロジェクトから見たigokuといつだれkitchen
こんにちは。福島県いわき市の地方公務員で、igokuやいつだれkitchenというプロジェクトを立ち上げ、ライターやデザイナーたちと謎のクリエイティブユニット「そこをなんとか」を画策しようとしている、猪狩と申します。
igokuプロジェクトで、なんとなんと「グッドデザイン2019金賞&ファイナリスト」という身に余る評価を頂き、そこからいくつかのメディアからの取材や講演のオファーを頂くようになりました。
先日、東京藝術大学DOOR(Diversity on the Arts Project)プロジェクトの公開講座でお話させて頂きました。新型コロナの現状から、地元いわき市からのリモートでお送りしたので、講演中の皆さんのリアクションが全く分からず、ただPC画面に向かって話していたのですが、後日、事務局から受講された方の感想が送られてきました。
今回は、その感想の一部を抜粋させて頂き、自分たちではなかなか客観視できていない、igokuやいつだれkitchenのことを、往復書簡のような形を取りつつ、見つめ直してみたいと思います。
【感想1】
自分が読みたいか、参加したいか、という視点から、フラットに見ている視点がとても素敵でした。
福祉素人の私が、高齢者福祉部署に異動となって始まったigoku。
メインターゲットは、自分と同じように40ー50代で、親元気。介護なんてまだ何も知りませんという層。プロジェクトのメンバーも福祉も介護も知りませんな40代。いずれこれから親の介護や看取りが来るんだろうけど、ピンと来ない我々自身が、「読みたい」「手に取りたい」「行ってみようかな」と思えるかが、igokuの企画やアウトプットの基準です。
【感想2】
いつだれキッチンは人の善意がとてもうまく循環している例だなと思いました。これを目指してもなかなかうまくいかない所が多いのではないかなと思います。なぜうまくいったのか、深堀りしたいと興味がわきました。
igokuでもいつだれkitchen(以下、いつだれ)でも、よく訊かれます。
「こうすればうまくいくかも」なんてメソッドがあるわけでもありません。
でも、「いわきだから、猪狩だから、あのメンバーだからうまくいったんだよ」で終わらせるのは、なんかイヤだし、もったいないとも思います。
自分でも考えますし、皆さんともやり取りを続けながら、再現性のヒントのようなものを考え続けていきます。
【感想3】
「我々の偏見から我々を解放する」「認知症というくくりで人をみてしまっていて、"その人"をみていない」というコンセプトの落とし込み方のお話が、一デザイン科の学生としてはグッとゾクッとくるものがありました。
行政の内側から地域をデザインする取り組みがなされるというのも本当に広がって欲しい試みです。先行事例があれば後発も動きやすくなるのでは、ということも仰っていましたが、まさにその通りだと思います。
「一括りにするな、人を見よ!」は、今回のパンチラインでしたねw
でも、これ、皆さんに言ってるんじゃなくて、毎日自分に言ってるんです。
「ローカル×デザイン」「福祉×デザイン」が注目されるようになってきましたが、「ローカル×デザイン×福祉」の更なる掛け算が来ますよね。
その時に、「ローカル×福祉×デザイン×行政」に、意図的にもでも、たまたまでも相なった事例が出てくると、すげーことになると思ってます。
【感想4】
やはり人の関心を向けるには 面白い、楽しい、かっこいいを入り口にする必要があると思いましたが、実際に具体的にどの様な方法で進めるかは難しいものですが、カマボコのデザインから積極的にコンタクトして口説いたという話は 勉強になりました。
面白い、楽しい、かっこいい、あと僕らの経験的には「美味しい」という食の力があるともっと無敵ですが、五感と言いますか、感情と言いますか、頭だけでなく、心が動く(いごく)っていうのは、思ってた以上に大事だなとやってみて実感しました。
カマボコのパッケージからの、ドラクエ的仲間探しのお話は、コチラをw!
【感想5】
日本において、死ぬことについて話し合うことは少し失礼とか配慮が足りないという倫理観がこれまでありましたが、高齢多死社会を迎え、どのように死んでいくかに関して早めに当事者も家族も医療者も話し合っていく時代に変わっていくべきであると考えていて、igokuの取り組みはそのひとつの重要な在り方であると思いました。
地域に根付いたご活動であり、とてもユニークなモデルケースとして日本の各地に「老いること」と「死ぬこと」を考える取り組みとして広く伝わってほしいです。そして、どうやって最期のときを迎えようかということをみんなで話し合える、豊かな日本になってほしいと思います。
igokuはとても洗練されたデザイン性をもっていることが素敵であると思いました。ぜひ「そこをなんとか」さんに仕事をお願いできればと考えています。
ヤバw!超嬉しい!
igokuのモデルケースを日本の各地に広く伝えるのに、「いごく本」を制作・出版したら、買ってくれる人いますかね?ニーズがあれば、自費出版でも作ろうかな。
”ぜひ、そこをなんとかさんに仕事をお願いできれば”!!!!!
絶対、ずーっと待ってますからねーw
【感想6】
柔軟にものの見方が変わっていく姿勢が素敵だなと思いました。やり始めた時の目的と、今は少しずつ違ってきているという言葉が印象に残りました。
ひととの関わりの中で意図していない相互作用が生まれて、その結果を受けて、自分自身の価値観も変わっていくことを素直に受け取ることができるのはすごいと思いました。
これは、私自身が柔軟なのでも謙虚なのでもなく、どちらかと言うと、超生意気な男が、ごくごく自然に、当たり前にそうなっていきました。それだけ、人生のパイセンたちが、その生き様がスゴいということかなと。
また、「いずれは遺影に、でも素敵な今を写真に残しておきましょう」のシニアポートレートが、実際に「遺影」として使われていくケースが増えていく度に、「老いと死をテーマにするって、そういうことなんだ」と気が引き締まっていきます。
※関連記事:『生きて行くし、死んで行く追悼 みろく沢炭砿資料館館主、渡辺為雄さん』
【感想7】
「認知症」もそうですが、なんでも一括りにしがちだなぁと思います。
一括りにしてラベルを貼ったほうがわかったような気になるし、わかりやすいように思えるから、無意識的にいろんなものにラベルを貼っているように思います。そういう私にもいろんなラベルが貼られて、自分に貼られたラベルにモヤモヤする場面はたくさんあるのに、誰かにもラベルを貼ってわかった気でいたなぁと襟を正す思いがしました。
【感想8】
認知症解放宣言!一括りにするな、人を見ろ!という言葉、心に響きました。本当におっしゃる通りだと思います。認知症だけでなく、障害者という括りもおかしい。色々な人がいて、色々な不自由さを抱えていて、誰一人として、同じではないのに。
認知症という言葉がついた途端に、自分たちとは意思の疎通ができない、何を考えているかわからない、将来は閉ざされた人だと思ってしまう、障がい者という言葉で、弱い人、助けが必要な人、その人のできないことだけを見てしまう。認知症も、障がい者も、「人」として生きていく上のほんの一部分が不自由なだけだし、その上、その不自由さの程度も人それぞれで、一人として同じ人はいないのに。
感想7、8をセットで。
一括りにするのって、楽ですよね。特に、脳みそがラクですよね。
それ以上、考えなくていいので。思考停止。
でも、この「一括りにしない」っていうのも、ある意味、汎用性のかたまりかなとも思うんです。
認知症、障害、被災地、国籍、男女、LGBTQ、年齢、、、、、、、
多様性が叫ばれている中、何であれ、やることは同じ。
「一括りにしない」「ラベルを貼らない」「その人を見る」
【感想9】
猪狩さんのスライドに写っている方たちはみんな笑顔だった。楽しいから笑顔なんだ。
利用者さんの笑顔を…、笑っている顔がみたい…等ありきたりな感じで福祉を語ってしまう自分もいるが、その時の自分の気持ちってどんなだったのか思い出す。業務の中で、何を考えて仕事をしているのか合理的に業務を回す、利用者さんの対処に追われるというなんだかネガティブな感じで仕事をしているのではないかと。利用者さんの笑顔になっている理由、背景までみたか。一緒に楽しめる時には自分は心から笑っていたか。
猪狩さんの活動は、高齢者を笑顔にするのではなく、高齢者の笑顔になっている理由を見つけ、一緒に面白がる。それが伝播しているのではないかと感じた。
すげー嬉しい。igokuを立ち上げる前も、立ち上げた後も、医療・介護・福祉の皆さんにはとってもお世話になったので、igokuの活動が、少しでも介護の皆さんのお仕事や視点や気付きにお役に立てたら、ちょっと恩返しできたみたいで、超嬉しい。
【感想10】
人が目をそむけがちな重いテーマにエンタテインメントを活用するというのは、ステキだなぁとも思いました。
講義資料のPDFは、まるで一冊の雑誌のようで見ごたえ読みごたえがあり、魅力的な内容でした。どのテキストもとても分かりやすく、考えさせられる文章でした。(授業後に読み返したいと思っています。)
その中で、「仏も、福祉も、医療も、音楽も芸術も、どうせいずれは誰もが死んでしまう辛い人生を、よりよく生きようとする私たちのためにある。・・・」の一文が心に残りました。芸術と福祉の親和性はここにあるのかもしれないと。
講義資料が一冊の雑誌のように感じてもらえたということは、やはり「いごく本」を出版しても、読んでくれる人はいるかもしれないな(しつこい!)
「仏も、福祉も、、、」のくだりは、いごく史上でもTOP3に入る名文です。全文は、コチラ↓
『あの世もこの世も美しい igoku Fes2018「前夜祭」レポート』
【感想11】
人が老いるって、素晴らしい。
確かに身体は動かなくなるし、いろんな厄介なことも多くなるけど、それらも含めて、いわきの人は楽しんでいる。
生きていく上で大切な視点に気づかせてくれる、様々な発信や表現の数々。
猪狩さんの講義を聴いて、先ず何よりも、ご自身が福祉の問題を「まじめに、不真面目」に楽しんでいらっしゃる様子が伝わってきて、素敵だなと思った。
「課題を解決するのではなく、問いを立てる」という言葉も印象的。
きっと、私たちの方が沢山のことを学んでいる。
このワクワクした多世代交流のカタチが、智慧や経験の循環を促して、多様な社会を創っていくのだと思う。
いわきのような人間的な温かいコミュニティを、社会的孤立に直面しがちな都市部での展開にも結びつけていきたい、そう感じました。
【感想12】
地域にずっと住んでいる年配の方の知識や経験を上手に引き出していらっしゃる。生きる力を学ぶ関係は素晴らしいと思いました。
それは、いわゆる田舎、地方に住んでいらっしゃるから出来ることなのか、都心部に住んでいる人たちでも出来ることなのか・・・ 自分の周りを見て、それが出来る気がしないのは、ちゃんと見ていないだけなのかもしれません。
igoku的な取り組みや視点が、他地域でもできるものなのか、更には、「都市部」でもworkするものなのかは、私も興味あります。
講演とセットで『そこをなんとかpresents いごく的視点でまちあるき』みたいなワークショップをオファーしてくださる地域をお待ちしております。
igoku的な視点や面白がり方で、あなたの町を僕らと歩けば、見慣れた景色がガラッと変わるかも。是非、コチラも読んで欲しい。
※関連記事:『ここにはなにもない』
【感想13】
igokuのように、高齢者福祉、文化、踊り、手作り、食などに派生しながら、色々なものが結果的に広がっていく。
「福祉」や「アート」みたいなものはそこを入り口に大々的に掲げるのではなく、またそれに携わる専門的な人たちだけで設定した目標に向かっていくのでもなく、やっていくうちに色を変え登場人物が増え、混ざりながら「気付いたら福祉的なことをやっていた」「気づいたらアート的なものがそこにあった」というところが、実はとてもポイントで大切なのだろうと、対話させていただく中で改めて感じました。
そうなんです!これは、僕らもigokuを進めていくうちに、自然にそうなっていったし、進めていくうちに気づいたことなんです。
でも考えてみりゃ当たり前のことで、「高齢者福祉」なんていうのは、後から人が勝手にカテゴライズしたもので、根っこには人間の営み・日々の暮らしがあるだけです。高齢者福祉から入っていった我々が、日々の暮らしやその土地の歴史に触れ、食や踊り、祭り、風習、文化にも出会っていく、面白がるのは当然の帰結でした。
①世の中のカテゴリーに「横串し」をさすこと、
②「えっ、これって福祉だったの?!」
「あたしが昔からやってることって、アートだったのげ?!」は、おもしろ集団「そこをなんとか」が、igoku以外でもやっていきたいことです。
【感想14】
わたしも看護師で勤め、色んな方の死を病院で看取らせてきていただいてきて、死と向き合うことは、どう生きるか?どう生きていくか?自分自身が生きることに向き合わせていただいてきたきがしています。
このような死生観を、猪狩先生がステキにデザインされている様子や活動を拝見して、明るく楽しく感銘を受けながら拝見させていただきました。
お仕事として多くの看取りを体験されてきた方に、このように言って頂いて、恐縮と、嬉しさと、そして「あながち間違いじゃなかったんだな」というちょっとの自信を頂きました。ありがとうございます。
【感想15】
今回の講義で「私はどうやって・どこで・どのように死にたいんだろう」と考えた。そこから「私はどうやって生きたいのだろう、生きていきたいのだろう」という自問に至った。猪狩さんがおっしゃったように、どう死にたいかはどう生きたいかに繋がる。
「よりよく死ぬことは、よりよく生きることにつながる」と、igokuを通じて思うようになりました。今日と同じ明日が永遠に続かないこと、命に限りがあることをちょっとでも意識できると、残された時間、今日という一日をもっと大事にできるのだと思っています。
【感想16】
igokuの素晴らしいところは、よくありがちな、福祉を福祉のまま伝えるのではなく、アートやデザインの力で、身近に、そして、楽しく、でも、強烈にその人の記憶や体験に残るように伝えているところだと感じます。これまで正しいことを正しく伝えることに、あまりにも慣れてしまった自治体職員が多いとは思いますが、今のままのやり方で進めたのでは、本当に伝えたい人にいつまでも伝えたいことが伝わらないのではないかという危機感を、多くの職員が持っていると思います。私も、いろいろなやり方で、伝え方を変えたりと、もがいてきましたが、igokuを初めて拝見した時に、そのあまりのエッジのきかせて方と、取材力に、このウェブサイトを運営していくと決めたチームの決断力と信念と、ずっと続けていくことの重みを感じました。
逆にスゴい気づきを頂きました。
”福祉を福祉のまま伝える”や
”正しいことを正しく伝える”では、
”本当に伝えたい人にいつまでも伝えたいことが伝わらない”
誰も傷つけないように、決してクレームが出ないようにを社会や役所が求めるあまりに、「結果、誰にも届いてない」ということがあるかもしれません。公平に広く万人にではなく、”たった一人のために”を意識した方が、かえって、広く多くの人に届くのではないかと、igokuやいつだれを通じて、私としては感じました。
※関連記事:『はじまりは4年前、、、 |いつだれkitchen物語 #02』
【感想17】
終末は在宅医療にしたいねと夫と話すこともあります。
でも、やはり、暗い気持ちになるし、あまり楽しい会話にはなりません。
ところが、igoku fesの入棺体験!
なんてユニークな企画でしょう。昔のラブレターを沢山顔の周りにおいてもらって、リハーサルをしているおばあちゃんの写真、最高でした!
「こんな体験ならしてみたい」。「自分のお葬式なのだから、自分でデザインしたい」と思いました。そしてできれば家族と笑いながら、「自分ならこうしたい」、「ああしたらどうか」と、あれこれ話し合いたいです。そして、一番自分が素敵だと思う最期のイメージを決める事ができれば、死を恐ろしいものとだけ感じるのではなく、自分の晴れ姿を想像して、ちょっと楽しみに思うこともできるかもしれないと思いました。どんな人でもいずれは必ず死ぬと100回言われても実感がわかなかった事が、一回の入棺体験の話で気持ちの中にストンと落ちてきました。
igokuフェスでの入棺体験コーナーに、旦那さんから結婚前にもらったラブレターを持参して、自分が棺桶に入った後、顔の周りにラブレターを置いて欲しいというおばあちゃん。将来の葬式のリハーサルに来たというエピソード。本当にスゴい話ですよね、その場にいた俺も超びっくり!
物語をこちら側が作るのではなく、「場」を用意したら、人と物語がどんどん勝手にやってくるという素敵な経験でした。
まだ内緒ですがw、次の紙のigokuは「いごく的終活特集」。これまで多くのパイセン方に、その人生と生き様ごと教えていただいたことの集大成として、igokuらしい、我々らしい「終活」特集が組めればと思っています。
講義の感想へのアンサーや補足という形で、2016年からの私のアクションと学び、そして考えたこと、経験させてもらったことのほぼ全てを書くことができました。貴重な機会を下さった東京藝大DOORプロジェクトの皆さん、講義を聞いて下さった皆さん、そしてこれをお読み頂いた皆さん、ありがとうございました。
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