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ソウルフィルド・シャングリラ 第二章(3)

承前

 部屋の隅に控える給仕をちらりと見てから、悠理は挨拶をする。
「お久しぶりです、お父様。今宵はお招きに預かり光栄です」
 声は上擦らなかったと思う。悠理は家の作法に則り礼を三度する。理生は会釈で応えると、手振りで対面に座るように促した。そして悠理が座ったのを確認すると、ようやく口を開く。
「急に呼び立ててすみませんね、ユウリさん。仕事で疲れているのでしょう?」
 仕事、の部分で微かに笑いのような表情を閃かせる――先の会議の議事録を見たか、或いはわざわざ直接叡覧あそばしていらっしゃったのか。
「いえ――私の仕事など、所詮ままごとみたいなものですので」
 悠理の言葉に、理生は今度こそはっきりと苦笑した。会議上での悠理の『ままごとの相手』の様子を思い返したのだろう。
「謙遜する必要は全くないのですよ、悠理さん。市議会からの受勲者が公社から出るのは15年来の出来事なのですから。私も現職に就く前は公社の一研究者でしたからその凄さは分かるつもりです」
「それは――ありが、とうございます」
 言葉が詰まる。
 違和感。忌避感。齟齬感。
 父が。天宮理生が。私を褒めて。笑って――笑って。その笑顔は違うその笑顔は違うその笑顔は違う、
 視界隅でバイタルアラートが明滅する。空っぽの胃が収縮し胃酸がせり上がってくる。注入したナノマシンに補助された副脳が心拍数や血圧を自動制御。悠理は、少なくとも肉体的には即座に落ち着きを取り戻す。
 ――そうだ。私は五年前の無力な子供ではない。父に対抗できるだけの力と知識を、身につけたのだ。
 折よく食前酒のキールが運ばれて来たので悠理はグラスを手に取り掲げる。
「公社の発展と、親子の夕餉に」
 震えもなく、完璧な微笑を浮かべる悠理に、理生も鷹揚に頷く。
「乾杯」
 オードブルが運ばれて、その食器が下げられるまでの間の会話は、表面上は極めて穏やかに進んだ。この五年間の無関心は何だったのか問いただしたくなるほど、理生は良く喋った。
「再開発事業に対する投資は運営部の強固な反対にあって今回も前年比でマイナスです。これ以上廃棄区画の数を増やすのは自分たちの首をも絞めることになると理解出来ていないようですね。当主権限などこんなものなのですよ」
 やれやれと首を振る。理生の身振りはまるで人間というものを全く知らない知性体が、データから推測して模倣しているかのように、悠理の目には映る。正確無比な動きのくせに、ぎこちない。
「恐らくただの古いビルすらも『文化遺産』として保存せよという空宮の圧力があったのでしょう。昨今の社内における空宮派の台頭は頭痛の種ですね」
「再開発地区の放置は治安の悪化に繋がります。お父様が市議会に掛けあってみては?」
「ええ、既にやっていますよ。けれど市議会も今では空宮派が多いのですよ、実際。ここ五年で特に失効テクノロジーの基準が強化され、我々の勢力は大分削がれましたから」
「五年前……」
「ええ、ちょうどユウリさんが大学に通い始めた頃ですね」
 悠理のナイフを持つ手が、ナノマシンの制御があるにも関わらず思わず強張った。
 お前が。
 お前たちが、
 私から友達を奪った頃だろう。
「大学生活はどうでしたか? 市立大学は私の母校でもあります。首席卒のユウリさんと違って私の席次は六番目でしたが、楽しいものでしたよ」
「――二年ほどしか在籍しなかったのであまり思い出はありません。授業もほとんど通信講座でしたので」
「では公社内にあるキャンパスにも行ってないのですか? それはもったいないことをしましたね。あそこの学食の味は最高ですよ――おっと、こんなことを言うと今調理してくれているシェフに悪いですね」
「――我ながら華のない青春を送っていると、思います」
 空々しい会話を続けながら悠理は考える。この夕食自体が誰かの罠だろうか? 例えば――社内では主に政敵としてしか関わり合わない親族たちとか。
 継承権第壱位を保持していようとも、五年前までの悠理は何の脅威もないただの子供として見られていた。故に社内の骨肉の争いとも無縁でいられた。また主に母が権力の利害調整を担っていたのも大きい。だがその母が消え、悠理自身も無視できぬ力をつけ始めた。
 悠理としては政争にかかずらう暇も意味も見出だせなかったので、身内の足の引っ張り合いからは距離を取り、仕事に打ち込んできた。だがそうやって名声を高めるほど敵は増えていき、気付けば悠理の所属する開発室ですらも孤立気味だった。
 理生がそんな娘を見兼ねて、慰め、親子の絆を深めよう等と思っている――わけでは当然ないだろう。
 悠理は内心の混乱を悟られぬよう苦労して会話を繋ぐ。幾つかの皿が下げられ、話題は移り変わり、シタビラメのムニエルにナイフを入れた時のことだった。ちなみに、四方を海に囲まれた澄崎市だが、〝蓋〟のせいで魚介類は非常に希少だ。これも遺伝子アーカイブから復刻したサンプルかもしれない。
 優雅に白身を切り分けながら、理生が言った。
「来月の予定ですが……久方ぶりに休暇を取りましたよ」
「お父様が、ですか? 保養区にでも行かれるのですか?」
 演技でなく本気で驚いた。悠理の記憶の中にある父は、常に仕事をしていた。いつ休んでいるのか疑問に思うほどの過密労働だ。悠理も現在の地位に着くまで、思えばずいぶんと無茶な働き方をしてきたが、そんなものがそれこそ『おままごと』に見えるほど理生は業務をこなし続けていた。
「ええ。行き先は保養区ではありませんが。祭りの見学を少々、ね」
「――ああ。なるほど」
 7月1日の市政開始記念日には、毎年祭りがある。社内もその時期だけはどこか浮ついた空気になるものだ。そう言えばちょうど一ヶ月後か。
 しかも今年は確か100周年記念で、かなり大規模にやるらしい。開発室の若い部下(悠理より年上だが)たちが既に色めき立っていたのを思い出す。市の財政も最近は火の車だろうに豪気なことだ。
 天宮理生が当主の立場として参加するのでなく、一私人として祭りを愉しむ様を想像するのは困難であったが、咎める者も止め立てする者もいまい。
 しかしこの話をこちらに振ってどういう意図があるのだろう。まさか誘おうとするなんてことはないだろうが。毎年の祭りを悠理はまさに異世界の出来事として遠くから傍観してきた。
「ユウリさん、貴女の休暇も一緒に申請しておきましたので」
 悠理の操るナイフとフォークがぶつかり、小さな音が鳴った。
 今。なんと?
「これは公社の社員としての仕事ではないので、休まざるを得ないのですよ。研究で忙しいでしょうが、申し訳ないですね」
「公社以外の、仕事、ですか?」
「左様。仕事です、一種の。天宮家の者としての、ね。
 市政100周年祭。そこでユウリさん、市民に対し貴女のお披露目をします。
 天宮家次期当主候補から、候補の文字を取り去るための儀式、手続き、宣誓ですよ」
「え……」
 思わず、間の抜けた声が漏れた。それをどう受け取ったのか、理生は頷き言葉を接ぐ。
「私が父の跡を襲ったのも18の時ですから、それほど早い訳ではありません。ユウリさんの実績も十分ですしね。親族会議にはまだ諮っていませんが、異論はほぼないでしょう」
 この言い草だともう周囲への根回しは済んでいるのだろう。それなら噂くらいは耳に入ってもいいものだが――悠理は心の裡で苦笑いを浮かべる。孤立している者にわざわざお節介を焼く人間など、もう悠理の周りには五年前から、いないのだ。
 それよりも、
「――私が、外に?」
「貴女も15ですからね。いつまでも箱入り娘をやっているわけにもいかないでしょう? 本当なら叙勲を受けた時にするべきだったのですが、予定が延びてしまい申し訳ありません」
 五年ぶりに会話らしい会話を交わした父からの言葉は――想定外のさらに外、悠理の論理フレームが一瞬判断停止に追い込まれるくらいに意外なものだった。
 外に――外へ?
 私が。天宮悠理が。
 この世界の外に行く。可能性すら検討したことのなかった話だ。
 理生の視線を感じる。温度のない視線を。笑いかけながらも、話しかけながらも、全く変わることのなかった、虚無よりさらに深い井戸の如き目。こちらを見ていないくせに、魂の底を探られるような。
  この天宮家当主には悠理に対する期待も失望もないのだ。ここで従おうが逆らおうが、彼の計画には些細な影響もないのだろう。
「大勢の前に出るのは気後れするかも知れませんが……政り事とは即ち祭り事、暗い世情を明るくさせるのも上に立つものの務めです。あまり堅苦しく考えなくて大丈夫ですよ」
 当主継承の儀ならば別にわざわざ市民の前でやる必要はない。理生が当主の座についたのは悠理の誕生以前なので知識でしか知らないが、社内と市議会の承認があれば書類上の手続きだけでも済むはずだ。
 理生は年齢にも健康にも不安はなく、このタイミングで悠理に後を継がせる意味を図りかねる。先の会話でも話題に上ったが、空宮の台頭を許したためにいささか苦しい立場に置かれてはいるかもしれない――が、社員の理生に対する忠誠と畏怖は相当なものだ。
 そもそも悠理をこの籠の中の世界に閉じ込めてきたのは、他ならぬこの父なのだ。
 幼い頃はなんの疑問も抱かなかった。数少ない友達と一緒に、この巨大すぎる家でそれなりに傷つき、それなりに平穏に暮らしていた。
 五年前までは。
 大学に通い、公社の社員となってからようやくその異常性に気がついた。この世界の外には、別の世界がある。そして私はそちらから疎外され、隔離されている――だが何の問題があろう? 幸も、不幸も……その他全てを悠理にもたらすのは〝こちら〟の世界なのだから。
 ここで正しく生きていればもうかなしいことは起こらないのだから。
 だけど――。
 理生の提案にどう答えるべきか――逡巡は自分でも意外なほど短かった。
 ――後になって、悠理は自分がなぜあのような選択をしたのか、その理由を考察することになる。そうすればあのような事件に遭うことも、そしてこのような出会いもなかったのに、と。
 断ることもできた。悠理が五年間で築き上げた信用と実績、そして影響力は現当主である天宮理生に対するささやかな反逆を許容する程度には充分に機能する。悠理の後のスケジュールを大幅に圧迫する、唐突すぎる提案を拒否する理由は10以上も挙げることができた。
 だがしかし、悠理は外を望んだ。
 自ら定め、命を賭して戦い続けてきた世界からのわずかばかりの逸脱。それはあの日の誓いを破ることになるのかもしれない。
 ――だからこそ、か?
 五年間。私は万事に対し最善を尽くし、最上の結果を得てきた。そうすればかなしいことはなにも起こらなかった。
 ――だけど。
 たのしいことも、なに一つとしてなかった。
「御意の儘に、お父様」
 そうさ、私は天宮の飾り姫。
 祭祀には偶像が用意されるもの。畢竟、私の役割はそれ以上でも以下でもないだろう。
 だけど、もし祭りの中で、世界の、運命の外へ少しでも踏み出せたなら。
 見たいものや、やりたいことがそこで見つかったのなら。
 その時、私は――。

      †

 食事が終わり、理生は最後まで作法を違えず静かに退室していった娘を――ユウリを座ったまま見送った。
「奇妙なものだ――」
 呟く。
「あれを〝造っ〟て〝入れる〟前に悠灯さんは消えたというのに、年々立ち振舞が似通ってくるとは――それとも〝彼女〟と混じっているのでしょうかね」
 それは不愉快な想像であると同時に、朗報でもあった。五年間外界への反応を示さない〝彼女〟がまだあれの中に確かにいるということなのだから。どちらにせよこの不本意な状況もあと少し――祭りの場で決着のつくことだ。
 手元の呼び鈴を鳴らす。
「時臥峰」
「はい。ここに」
 いつの間にか横に控えていた執事は慇懃に身を折って主人に答える。
「屑代に連絡を。引瀬の〝遺作〟に例の依頼をするようにと」
「かしこまりました、理生様」
 遺作が発見されたのは今から一年前近く前だ。以前から天宮家に対して破壊工作などをしかけていたらしいが、ユウリ開放の失敗が原因で空宮の目が厳しくなったのもあり、こちらからの接触はずっと出来なかった。
 だがプロジェクト・アズライールが最終段階に進んだ今、最早そういった考慮は必要がない。
 計画が成就さえすれば、都市は、澄崎は救われるのだから。
「さて。今度こそ上手くいくとよいのですが」
 微笑を浮かべた表情とは裏腹に、理生の口調はどこまでも冷めていた。

(第三章へ続く)

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