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ソウルフィルド・シャングリラ 第二章(2)

承前 

 アズライールとは、かつて人が陸で暮らしていた頃に存在した宗教の神話に出てくる天使の名だ。命を操る術に長けていたため、死を告げる役割を神から与えられた異形の存在。その名の意味するところは『神を助く者』。秘密の計画には仰々しすぎるようにも思えるし、ある意味とても相応しいとも思える。
 表向きにされているだけでも――最も決算報告書などには決して載っていないが――悠理が所属している開発室の年間予算に等しい資金が毎年投入されているくせに、この五年間、誰の口からも直接プロジェクト・アズライールなる言葉を聞いた試しがない。巧妙に擬装された裏の予算も含めると、概算で実に公社全体の28%もの物的、知的、魂魄的資産がこの計画のために徴発され運用されている、らしい。そこまではある程度の技術や知識があれば誰でも調べられる、公然の秘密だった。
 だがその裏を調べようとすると途端に機密の壁は分厚くなる。それでも当主の娘という身分と開発室副室長という地位をも駆使して悠理は調査を続けた。
 そうして幾つかの事実が判明した。まず、このプロジェクトが始まったのは悠理の誕生と同時だということ。このプロジェクトは〝都市救済計画〟という大それた別称で呼ばれていること――都市救済。何も知らない人間ならばあまりのスケールの大きさに笑ってしまうだろう。
 だが市警軍や市議会、更には空宮までがこのプロジェクトに関わっていると知れば笑いは吹き飛ぶか凍りつく。悠理も空宮の名を引き当てた時には驚愕したものだ。
「空宮……空宮ね。なんであいつらが出てくるんだろう……」
 空宮文明維持財団。その起源は天宮と同じく、洋上閉鎖都市である澄崎の設計に関わった者達だという。『技術的発散』の再発生を防ぐことを建前に、澄崎市全ての企業や教育機関を監視する。高度な人工知能、不死の研究、戦略兵器の開発、量子コンピュータの性能アップ、その他諸々。彼らは数え切れないほどの技術や研究を失効テクノロジーに認定してきた。だがその基準は非常に曖昧で恣意的だ。
 例えば澄崎市では当たり前に使われ、今や生活の基盤となっているナノマシン。記録は隠匿されており今や市民の知るところではないが、澄崎市孤立の黎明期、およそ90年前に暴走事故を起こしており、テラフロートの地下居住区は汚染され誰も住めなくなってしまった。除染作業も事故後すぐに取りやめになっており、地下に収められていた様々な機器や技術は空宮の記念すべき失効テクノロジー認定第一号となっている。そしてそれだけの危険な事故を起こした方の技術に関しては、おざなりな審議を繰り返し、結局ただの経過観察処分に収まった。
 そもそも技術的発散自体、一切の記録が残っておらずただ傍証――つまり今現在澄崎市がこうやって海の上を漂っていることなど――によってのみ〝あったらしい〟と確認されているような代物なのだ。そして科学者たちによる技術的発散の研究は、市議会と空宮によって禁じられている。〝発散〟を起こさないためとされているが、ようするに奴らは自分の都合の悪い物を〝なかったこと〟としてこの閉鎖都市を操作し、君臨してきた。
 公社内であの教条主義者共を嫌っていない人間など存在しない。天宮家当主、悠理の父親、理生ですらもだ。
 ――父。そして母。
 あの日以来変わってしまったものに、当然彼らも含まれている。
 まず、母は病んでしまった。肉体でも精神でなくもっと深い部分、魂を。
 擬魂の移植も検討されたが、天宮の夫人がゾンビではあまりに体裁が悪い。絶縁、追放、処分。一族会議は紛糾したが結局は一番無難なところに収まった。即ち軟禁。元々不安定な人だったが、何が彼女を壊したのか。
 それはもちろん、自分だろう。友人たちと永遠の別れを告げたあの日の後、しばらくしてから母と対面した瞬間、悠理の白い髪と紅い瞳を見て彼女は絶叫を上げ、そして外界への感情の出力を一切断った。現在はALICEネットにすら繋がっておらず、病床から起き上がることもない。
 父は悠理に対する一切の関心を失くしたように見えた。悠理が継承権序列第壱位に足る振る舞いを心がけ、様々な研究で功績を上げても何一つ声をかけてこない。こちらからもそうなので、公の会議などを除くとこの五年間親子としての会話は皆無に等しい。
 そして、だからこそ分かるあの日の異常。父の笑顔と積極的な語り口。父は本当に愉しみにしていた――悠理の〝機能障害が正される〟ことを。それに失敗したからこその無関心か。
 悠理は未だ彼らを憎むべきなのか迷っていた。呪ったこともあった、殺害を誓ったこともあった。
 だがそんな情動などこの世界ではなんの価値も意味もなくて。世界の主たる彼らの方も悠理になんの価値も意味も見出していなくて。そして憎しみを抱えたままではこの複雑な世界で戦うことなど出来なくて。
 だからいつまで経っても態度は留保せざるを得ない。
 プロジェクト・アズライールの真相もそんな悠理の精神を反映してか雲を掴むような情報ばかりがALICEネットを通じて入ってくる。
 天使。都市救済。空宮。そして、
「引瀬――由美子博士……」
 引瀬眞由美の母親にして、プロジェクト・アズライールの総指揮者。
 これが悠理の迷いを決定的にしている。眞由美を奪った、天宮。彼らの計画の中心人物は彼女の母。調べ得る限りの情報によれば彼女は未だに計画の中枢として研究を続けているという。
 彼女のことについては、遅々として調べがついていない。プロテクトが固いのはもちろんだがそれ以前に怖気ついてしまう。加害者意識を働かせてしまう。おかしな話だ。危害を加えてきたのは向こうなのに。
 でも――私の一言が。不用意な言葉が。最後の一押しだった。
 そして私の無力のせいで、友人たちを護れなかった。平穏を留められなかった。
 正しく生きるためには公社の裏事情など調べるべきではない。
 しかし自分たちをこの運命に放り込んだ世界の成り立ちは知っておきたい――眞由美のためにも。だけどそれは眞由美の母親のためになるのだろうか?
 二律背反な思考と情動の境界線上で、悠理は揺れ続ける。
 熱いお湯を浴びても、なんだかちっとも身体が温まった気がしないのは余計なことを考えていたせいだろう。気分転換に入ったのにこれじゃ意味が無い。シャワーを止め、代わりに温風を吹き下ろさせて身体を乾かし、浴室を出る――前に姿見に自分の裸体を映してチェックする。
「変わってない……」
 自分の胸を下から持ち上げて、悠理は呟いた。血筋なのか環境なのか、はたまたプロジェクト・アズライールのせいなのか。悠理の胸囲は同年代の其れに比べて少し――いやだいぶ慎ましやかだった。
「むううう…………!」
 悠理は絶対にばれないように3重の欺瞞経路と18種のウイルスと6箇所の偽装工作と11個の論理爆弾を用いて調べた、日課のバストアップ体操を行う。
「眞由美のは、おっきかったなあ……」
 成長して初めて実感する真実。昔抱きしめられた時の感触と、今自分の手の中で頼りなくもにゅもにゅと形を変えている感触を比べてがっくりと落ち込む。後天的遺伝子発現剤や整形手術でこの手の身体的特徴はいくらでも変えることが出来るのだが――それはなんだか激しく〝負け〟な気がする。いや何に対しての勝ち負けなのかは分からないけども。
 体操を終えると、簡易な寝間着に着替え、ベッドに倒れこむ。放り出していた古ぼけた目覚まし時計に目をやると午後7時を指していた。今日はこの後の予定は入っていない。部下や秘書エージェントにも、緊急の報告以外は通さないように言ってある。久々のオフの時間が取れた。退屈な会議を我慢した甲斐があったというものだ。
 溜息一つ。
「もう、寝ちゃおう……」
 寝てしまえば、ひとまずこの複雑系に支配された世界から隠れることができる。それは目の前の問題からの逃避だろうが、悠理の体が純粋に睡眠を求めているのも事実だった。もう70時間以上一睡もしていない。15歳の女の子が考える休日の使い方ではないなあ、と急速に落ちていく意識の中でちらりと考え――
 通信で叩き起こされた。
『――お休みのところ失礼いたします、お嬢様』
 上級執事の時臥峰〈ときがみね〉からだった。ALICEネットを介した通信でなく、電波、しかも出力方法が骨伝導というのは寝入り端の悠里にとって完全な嫌がらせだったが、恐らく悪意はあるまい。確実に悠理にメッセージを聴かせられる方法だから選択しただけだろう。悠理がそうであるように、時臥峰も悠理に対して敬意も関心も持っていなかった。
「……なんですか。今から就寝するところだったのですが」
 部下たちが聞いたらそれだけで逃げ出し、三日は目を逸らす調子で返事をする。
『お食事の時間でございます』
 柳に風といった感じで、時臥峰は答えた。そう言えば、睡眠同様まともな食事も最近摂っていない。もっとも、ALICEネットに接続されている限り生きるのに必要なエネルギーは常に供給されているので、空腹は覚えていない。だから澄崎市において食事とはただの嗜好だ。だが特に上流階級の者ほど、ALICEネットが存在しなかった頃の、不便極まりない生活様式を敢えて重んじる傾向があった。
 形式だけの食事よりも、実質的な睡眠欲求の方が今は遥かに優っていた。
「――すみませんが、今は食欲がありません。下げさせるように」
『理生様からのご要請です。至急、夕餐にご出席なさるようにと』
「――父、いえ御当主の?」
『はい。第二食堂でお待ちです。繰り返しますが、至急、との仰せです、お嬢様。それでは失礼いたします』
 眠気などどこかへ吹き飛んだ。父から夕餐に誘われるなど、この五年どころか産まれてこの方初めてのはずだ。
 跳ね起きる。
 例え実父といえど、いや実父だからこそ待たせるわけにはいかない。
 脱ぎ捨てた服から小型のケースを探り当て取り出す。中には注射器。無色透明の液体を躊躇わずに静脈内投与する。体内環境調整用のナノマシン混合溶液。化学合成された覚醒剤より遥かに安全で効果も高い。悠理の自作の品だ。
 これから会うのは最大の敵であり、そして最大の敬意を――形式上払うべき相手だ。寝ぼけた頭で対峙など出来ようもない。副脳のレセプターがナノマシンを感知。体内パラメータの最適化を開始。並列して脳内で様々なタスクを起動する。
 ノック音。プライベートフロアに来る者など普段はいない。監視カメラの映像が論理網膜内にポップ。時臥峰の手配した侍女たちだ。
「入りなさい」
 端的に言い放つ。その間にも意識はクリアになり身体は軽くなっていく。
「……失礼いたします」
 恐る恐るといった体で三人の侍女が入室してきた。子供じみていると自覚しているが、その言葉を聞くだけで精神にささくれが立つ。柔らかな笑顔と共に入室してきた、年上のくせに泣き虫だった侍女はもういない。
 主人の気配の変化を敏感に察知した一番若い侍女は既に顔面蒼白だ。自分のせいだがわずかに同情した。
 寝間着を脱ぎ捨て裸体を晒す。侍女たちは無言で床に散らかった服を片付け、新しい下着を用意し、化粧の準備を始めた。
 戦闘準備だ、と悠理は胸中でひとりごちる。社内で働いている時はめかしこむことなどない。かつては要請があれば晩餐会などにも出ていたが、研究者としての悠理の優秀さが知れ渡ると周囲が勝手にそういうものからは遠ざけて仕事に集中させてくれた。
 髪を結い上げられ、口には紅がさされる。姿見に映った自分は冷めた眼でこちらを見つめ返してくる。父が用意したイブニングドレスは黒色のデコルテ。ワンポイントに天使の羽根の模様が赤い刺繍で施されている。過剰な装飾もなく悠理の趣味に良くあっていた。
 それが――薄ら寒い。ろくに会話もしたこともない娘の、趣味すら把握するその情報力と、それを可能にする権力が。
 準備が整い、侍女を伴い部屋を出る。足音を完璧に吸収する長い廊下を歩き、高速エレベータを使い10フロア上のスカイラウンジへ。本社ビルの120階以上は全て天宮家の私有地である。
 扉が開き、履きなれないハイヒールを少し気にしながらエレベータを出ると、食堂の扉の前に時臥峰が無感情に立っていた。
「理生様はこちらでお待ちでございます」
 分かっている。声に出さずに極低温の一瞥だけくれると、時臥峰も流石に黙って扉を開いた。
 まず迎えたのは一面の夜景。悠理の部屋のリアルタイム映像とは違い合成されたものだが――本物の景色にはこれほどきらびやかな色彩は存在しない――思わず息を呑むほどの見事さだ。
 そして食卓。クリスタルグラスに銀食器、金の燭台や澄崎市では貴重な生花など、清々しいほど贅を尽くした調度品やカトラリーが、その豪奢さを全く下品に見せない配置で並んでいる。
 そこには既に着席者がいた。悠理は気付かれないように息を呑む。心拍数は安定している。大丈夫。
 無表情。無感情。人型の空白がそこに座っているのかと錯覚するほど――いや、表情も感情も確かに存在しはする。ただ悠理にはその感情の種類が推し測れないだけだ。五年前から全く皺も白髪も増えないその顔立ちは高度な抗老化措置と遺伝子医療の賜物だが、彼の非人間性に拍車をかけている。
 当主、父親、敵、世界の主――天宮理生。

(続く)

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