人生の恩師
私は人生始まってようやく四半世紀になるくらいだが、それまでに死について考える事が何度もあった。
歳を重ねていくほどによく友達と「死に際」について考える事も増えてきた。
私の理想の死に方は「こんな人生を送れてよかった」と心から思いながら安らかに命を終える事だ。そのために、自分の生きたいように生きようと人生を試行錯誤している最中である。
こんな死に際を思い描くようになったのは、私にとって掛け替えのない、ひいおばあちゃんの存在が大きい。
私がこの世に生を受けた時点でおじいちゃんという存在はもういなかった。父方の祖父は交通事故で、母方の祖父は病気で亡くなってしまった。だから私は生まれた頃から女性と関わる機会の方が圧倒的に多かったし、根っからのおばあちゃん子だった。小さい頃からめちゃくちゃ波乱万丈に生きてきたタフなおばあちゃんに恵まれたものだから、私の女性への尊敬の念は人一倍強い。
何より深すぎる愛情で包んでくれたその姿は今でも忘れられずにいる。
なんてったって衝撃的だったのはひいおばあちゃんのお葬式だ。90を過ぎたひいおばあちゃんの葬儀は愛が溢れていた。
親族にも地域の人にも愛されていたひいおばあちゃんとのお別れは、「悲しい」というじめじめした湿っぽさよりも「よく頑張ったね」という称賛ようなからっとした晴れやかさの方が大きかった。
本当の愛には、きちんと愛で返ってくるのだなあとその時思った。私の理想はこれだ、と直感した。
でもそれゆえにたまに悩む事もある。ただ夢を叶えて幕を閉じれるのであれば、独り身だったとしても50歳くらいに往生できれば御の字だとも思っているんだけれど、人生100年時代と言われるようになった昨今、70、80まで生きるならどうしようと思ってしまう。好きという感情も特に強く抱いたことがないまま生きてきた私だから、大事な人を見つけられたらまだしも一人でその歳まで生きるとなると流石に不安になる。
その年齢になっても懸垂とかジョギングでバリバリに体が動かせるおじいさんでいられるなら別にいいのだが、老いのスピードにはいつか負けてしまう日が来るだろう。
そうなった時、子どもも孫もいないと沢山の人に苦労かけるなあ、とか、やはりパートナーがいた方がいいだろうなあ、と思ったりもする。
社会人になった今こそ、改めてひいおばあちゃんと話せたらいいのにと思う。ひいおばあちゃんならこういう時なんというんだろうって聞きたい事が沢山ある。それぐらい人生の巨匠みたいな存在だった。偉大だ。
でももういない事は受け入れるしかない。だからただ私もひいおばあちゃんみたいな強くて聡明な人間になりたいと思う。
そのために立ちはだかる感情一つ一つ大事に受け入れて愛のある人になりたい。沢山の人に恵まれなくてもいいから、大切な人たちとずっと一緒に繋がっていられるような未来が過ごせたらいいなと思う。
そうしてとても豊かな人間になって、生き切って死に際を迎えるのが最期の夢だ。
読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。