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片想いのmusic(第5話)


30 水曜、渋谷

家でギターを弾く事が多くなった。
部室へ行ってもいるのは付きまとう美しい女と鳴り止まない騒音。そして、目の前にあるのはドラムだけ。
叩いたところで、何も合わさってはこない。
以前なら少し叩くだけでやかましい男が歌いだし、可憐な女と美しい女がギターを奏でていたのに。
今ではやかましい男はやる事を見つけ外へ行き、可憐な女は生き甲斐を見つけた。
残ったのは、俺と美しい女と奏でる事のない愛だけ。
坂本は近く女子高でライブをやると聞いた。
これだけ世間に知れておきながら「乱入」もクソもない気がするが、まぁその辺は関係ないのだろう。
昨日久しぶりに部室で会った坂本美沙子に、「ライブを見に行こう」と誘われた。
彼女といるのは別に苦痛ではない。

ただ、俺は音楽がやりたい。
坂本が弾くのを、歌うのを、ただ「見に行く」なんて、どうにも我慢ならない。
だが、そこで断れば、あの女はあっさり沈むだろう。
俺は別に彼女が嫌いなわけではないのに。

行く事にした。
「見に」ではなく、「聴きに」。

あの女は嬉しそうにチケットを見せてきた。
女子高の文化祭となると、チケットがないと入れないらしい。
「香澄にもらったの!」まるで彼氏(まぁ、俺なんだが)にもらったクリスマスプレゼントを見せるような目をしていた。
そんな目を見たのは久しぶりだった気がする。

俺は一昨日、部活に来なかった坂本を見に行った。
「渋谷で可愛いファンができたんだ」と聞いていたので、以前渋谷へ行ってみた事があった。
部活を途中で切り上げて、5時過ぎに学校を出て、渋谷に着いたのは7時前だった。

辺りはもう日が落ちていた。
俺は渋谷なんて来たのはその時が初めてだ。
ハチ公は何となく聞いた事あったが、109が有名な店の名前だと知ったのは、家に帰ってからだ。
「渋谷に行ってきた」と言ったとたん、妹が食らいついてきて、その名を口にしたが、俺は何の事かわからなくて、馬鹿にされた。
腹いせに晩飯のオムライスにキムチを入れてやった。あいつが辛党だという事を忘れて。
自分で食べても美味しい新メニューが生まれただけだった。

部屋に戻って、俺は何気なくギターを持ったら、坂本が弾いていた曲を自然と弾いていた。
一昨日も、渋谷に着いたのは7時前。
日が長くなってきているとは言え、辺りはもう暗くなってきている。
JR渋谷駅の南口から右手へ出ると、これも有名らしい「モヤイ像」というふざけた石造がある。
それを過ぎ、東急百貨店とでかいホテルの間を抜けると、急に若者が多くなる。
ずいぶん長くなってきた夕日の中に、女子高生の姿が目立つ。
黒い顔に金髪の髪。汚いメイクに太い足に巻かれた図太い靴下。
足を開くのが簡単そうな、そんな人種に目をつけて声をかける、自称ホストの群れ。
点滅しだした信号でも渡るかのような足の早さで、OL風の女に声をかける茶パツの男。
巧みに人を避けながら、手元に持った超小型通信機器をにらむ人。
群集の中に、犬の銅像が見えた。
その周りを取り囲む大量の人間。
様々な音が入り乱れる騒音の中、俺の耳に聞きなれたエレキギターの音が入ってきた。
その音を頼りに足を進めると、犬の銅像の近くに、ある点を中心に、人が群がっているのがわかった。
手近にあった低い塀に足をかけ、昇った。

群集の中心に、後ろ流しにした茶色い髪を揺らす男、坂本健吾の姿があった。
エレキギターをかかえ、手を振る。
自分の前に立てたマイクスタンドに取り付けられたマイクに自分の声をあてる。
最前列から二列ほどの茶色い、あるいは金色の髪がリズムに合わせて揺れている。
あいつが言った「可愛いファン」はあの中にいるのだろうか?それともあれ全部か?
健吾の周りに集まった人の多さよりも、俺は奴の目の輝きが気になった。

部室でも、教室でも見た事がない。
俺の記憶にある、学校でのライブで見せている目の輝きよりも、あるいは美しいかもしれない。

ハチ公前という待ち合わせの定番スポットには、次から次へと人が入ってくる。
しかし、どこへ行こうともしないカップルが多くいた。
どうせどこへも行くあてがないのだから、ここで聞いていこうよ。
そんな声が聞こえてきそうだが、雑音と観衆の声、そして健吾の音楽で聞こえるはずもない。
だが、先に待ち合わせ場所に着いた者が、後から来た者を手招きで呼んでいる姿は多く見られた。

一曲弾き終わり、「センキュゥ!」という健吾の声に合わせて、拍手が沸き起こる。
その拍手がまた人を呼ぶ。

おい坂本。おまえいつからアイドルになったんだ?

健吾の声が響く。
「ありがとうございます。」
周りの雑音に負けてはいるが、その辺一帯には確実に届いている。
最前列の方から、「イエーイ!」という女の声が聞こえる。
「俺、横浜で高校生やってます、坂本健吾です。どうぞよろしく。」
また拍手が起こった。
「だんだん暖かくなってきて、もう恋の季節ですね。」

ここからは桜の木など見えないが、まるで学校の桜でも見ているような口調だ。
観客の女の子の一人が笑って「それ冬にも言ってたしー!」と言っている。

「みなさん良い恋してますか?」

待ち合わせの定番のこの場所には、多くのカップルがいる。
健吾のこのセリフに自然と体の間の距離が狭くなる。

「俺は、未だに何が恋で何が愛なのかわかりません。」

健吾の持つギターがいつのまにかアコスティックに変わっていた。

「でも、この歌を聴くたびに思うんです。この世界のどこかに、俺のために生まれた人がいるのだと。」

最前列の方から、大きな拍手が聞こえる。
それに合わせて、健吾のギターが音楽を奏でだした。

『前から知ってたような
 毎日遅くまで遊んで
 いつだってつるんでるアイツよりも
 どうして君の方が近く感じるのか
 ロクな付き合いもないアイツよりも
 出会ったのは後なのに

 君もそう思うかい
 俺の事すべて知ってるような
 そんな気になってみたいから
 今夜も君を強く
 強く抱きしめて
 そして眠りについて夢を見よう
 二人同じ夢を
 あの頃から変わらない
 いつまでも見ている気がする
 同じ夢を』

普段部室で聞きなれているはずの歌なのに、どうしてか惹き込まれた。
沿道の人間に混じって、俺も手を叩いていた。
そして気がついた頃には、最前列の女の群れの近くに立っていた。

さらに気付いた事があった。

制服姿の女子高生の中に紛れて一人の、ふっくらした頬で、最近伸ばし始め、これまた最近茶色く染めた髪の、優しい目の可愛い女が目についた。

そう言えば週に一度だけ、妹の帰りが遅い日があった。
決まって、坂本が部活に来ない日と重なっていた気がする。
妹はどこかのファーストフードで週に3日バイトをしている。
親は初め反対していたが、こずかいをもらわない、という条件で今でも続けている。
その中で一日だけ、そう、「毎週水曜は遅番なの。」と言っていた日があった。
毎週水曜は、坂本が部活に来ない日であり、妹が遅番の日であり、そして今日がその水曜だ。

俺は人の事には興味はない。

それに、何も聞かなくとも、坂本の表情と妹の目が全てを教えてくれている。
いや、その前に、ヤツは毎日のように家で俺に「坂本サンカッコイイよねぇ。」と言ってくる。

どうやら友達数人で来ているようだ。
前の方には制服の、恐らく学校帰りの女子高生が埋めていて、そのさらに前、つまり坂本の目の前にいる私服の女の子達。
彼女達が全て妹の知人だとすれば、あの妹意外の四人は「カッコイイ人いるから一緒に行こうよ!」とでも言って誘ったのだろう。
半分付き合いで来てはみたが、本当にカッコイイ男が目の前で歌ってくれ、今ではすっかりファンに。そんなところだろう。

坂本が三曲目を歌い終えた。

俺の近くの花壇に座っていたカップルが腕組んで立ちあがり、どこかへ消えた。
俺はそこに腰を下ろした。
これだけの人がいる中、ここからは坂本の顔がハッキリ見える。
俺の横のスペースに、一人の女が座った。
俺の右の眉毛が上がるのを見て、彼女は笑った。

「こんばんは。」

空の色を見ても、時計の針を見ても、その挨拶は間違ってはいなかったが、その女の口からは初めて聞いたから、違和感があった。

「おう。」

学校内では束ねて上げている茶色く塗られた長い髪をおろし、夏を先取りした薄着の可憐な女。
軽音楽部の中で、数少ない俺の知ってる名前の女。たしか、フルネームは、そう。

緒方香澄。

普段とは違う姿格好で見ると、女というのはどうしてこう美しく見えるのだろうか。
そう言えば、坂本美沙子に対して、そんな事思わなくなったのはいつからだろう。
そしてそれはただ感覚の欠落だろうか、慣れただけだろうか。
今はどうでも良い事だが。

「まさか中村が来るとは思わなかったわ。」
「悪いか。」
「美沙子は?誘わなかったの?」
「ただの個人的な興味だからな。」
「ふぅん。」

坂本が四曲目を歌い始めた。
髪の先から、汗が落ち始めている。

「あ、妹さん来てるわよ。」
「ああ、知ってる。」
「それは失礼しました。」
「どうしておまえが妹の事知ってる?」
「そりゃあ毎週のように来ればね。健吾のファン第一号ですから。」
「おまえは?」
「え?」
「おまえはなんでここにいる?」
「私は…私も個人的興味、かしら。もちろん、あなたとは違う意味でね。」
「そうか。」

妹は、短いスカートからのぞく足を抱え、体操座りをしている。
坂本の位置からなら、容易に中を見る事が可能だろう。
まるで見られる事を望んでいるかのように見えるが、恐らくそんな事はなく、ただ夢中なのだろう。
坂本の胸中は知らんが。
ま、もしのぞいてるとしたらあんな直立で歌ってられないだろうしな。

「ねぇ。」
「あ?」
「一緒に歌わない?」

勝負をかけた合コンで、意中の男を見つけ、酒も回ってきた頃、二次会を抜けてホテルでも行かないか、とでも誘ってるような目をした緒方が、俺の視界の中で首を傾けて上目で俺を見ている。

「邪魔する気か?」
「邪魔なんかしないわ。一緒に、歌うだけ。」
「馬鹿。俺は歌えん。」
「馬鹿なのはあなた。そんな事わかってるわ。」

突然、俺の右腕に力が加わり、足に芯が入り、立たされた。
そのまま右腕の力は抜ける事なく、坂本健吾のワンマンステージに降り立った。
坂本が歌った四曲目に対しての拍手に重なり、拍手を受けた。

「いらっしゃい。」

坂本が笑顔で目線を送る。

「みんな。紹介するよ。俺が高校でやってるバンドのメンバー。緒方香澄と中村貴志だ。」

一際大きな拍手が即席の、人で囲んだだけのステージを包んだ。
ただ一人、目を大きく開いて、「お兄ちゃん?!」と叫ぶ女がいた。
その声が届いた両隣の女が素早く反応して、妹をにらんでいる。

「ま、ウダウダ話すよりも、一曲やるか。」
「俺が来てたの知ってたのか。」
「馬鹿野郎。おまえみたいなモノクロファッションの兄ちゃんなんて、渋谷にはいねぇんだよ。」
「さ、歌おう。」

緒方が、見なれた棒を突き出してきた。

「ちょっと待て、ドラムなんか…」
「何でもいいじゃねぇか。ここは東京だぜ?」

坂本がマイクをつかむ。

「誰か。ドラム代わりになりそうなモン貸してくれ。」

そう言うと、自分はお金を入れてもらうために開いて置いてあったギターケースを閉じて、俺の前に置いた。
そして、観衆から、飲み終えた缶や、何かを入れてあったプラスチックの箱、携帯電話のストラップについていた鳴り物など、ステージ上に置いていった。

「OK。こんだけありゃ十分だ。さ、始めんぞ。」
「ちょっと待て。こんなモンでどうやって…」
「いいのよ。ここはスタジオでも体育館でもないんだから。ただ、音だけ出せれば。」

ただ、音だけ出せれば。
いいの。どーせ何も答えられないよ。ただ、好きなだけだから。
あの時、クリスマスに坂本美沙子に言われた言葉がダブって聞こえた。

俺はとりあえず使えそうな物を自分の前に並べた。
俺の前には、マイクとギターを持った坂本と、恐らく初めから用意してあったのであろう、ベースギターを持った緒方が立った。

「さて、本当はもう一人いるんだけど、三人そろっただけでも奇跡だからな。このメンツでお届けします。一曲目は…」

即席バンドの音楽が始まった。
思ったよりもゴミドラムはいい音が出た。
何より、自分の音に合わせて奏でる音楽が、そこにあったのが、嬉しかった。
坂本が見ているモノが、何となくわかった気がした。
そして、クリスマスに聞いた、あの言葉の意味も。
本当に純粋な想いであれば、カタチなど必要ない。
坂本美沙子は、自分の事を純粋に好きだと言った。

俺は何なんだろう。

そう思ったら、少しだけ、会いたくなった。
今頃、女子高の文化祭のチケットを二枚手に持って、眺めているだろう。
誰のために取ったチケットなのか。
誰を想って過ごす夜なのか。
自分は、この性格に任せただけで、何も考えてはいなかったのかもしれない。
もう少し考えてみよう。
想いに応えるとはどういう事なのか。
そして、自分のいるべき場所はどこなのか…

31 水野第一女子高等学校

「どっちがイイと思う?」

美沙子は、右手に赤い薄手のワンピースを持ち、左手にはクリーム色のキャミソールに淡い青のミニスカートがついて2480円という服を持って、鏡越しに中村を見つめる。

「原色は好きじゃない。」
「そんな事言わないでさ、この2つだったらどっち?」
「だいたい、どうして女子高に行くのに気合い入れなきゃならねぇんだ。」
「だって。私より綺麗な娘がいたら困るじゃん。」
「ま、今のところおまえより綺麗な女なんて一人くらいしか見た事ないけどな。」
「それって褒めてるの?てか私より綺麗な人って誰?」

服を両手に持ったまま体を回転させて中村をにらむ美沙子。

「俺は緒方の方が好みだ。」
「ウソ。え、冗談でしょ?」
「あくまで一般論だ。」
「そりゃあ…香澄は綺麗だけど…自分の彼女の前で言うセリフじゃなくない?」
「仕方ないだろう。」
「ちょっとくらいフォローしてよ…」
「あのな、忘れてるみたいだけどな、今俺はおまえと一緒にいるんだぞ?」
「そうよね。そうだよね。」
「とっとと服決めろ。」
「はぁい。」

今着ている黒いスカートで綺麗な円を描きながら、再び鏡を見る美沙子。

「でもさ、貴志変わったよね。」
「あ?」
「言葉は相変わらずキツイけど…」
「…なんだ。」
「ううん。何でもない。」

数年間土の中で過ごした蝉の幼虫が、成虫になるために地面から出てきた時、どれくらい気持ちが良いのだろう。
夏の間だけという短い成虫を迎えるために数年間我慢し続けて、それが報われた時、どれだけ嬉しいんだろう。
美沙子は、そんな事を考えた。
できれば、この成虫のまま、ずっと生かせて欲しいな、神様。

「どっちにするんだ。」
「だから、どっちがいい?」

こんな調子で服選びが続く。
ようやく決めて、レジに行く途中でさらに良いモノを見つけ、またこの試着室へ舞戻る。
最初の5着ほどは、待っている間少しドキドキしたものだが、いい加減飽きてきた。
それでも、カーテンの向こうから「いいよ。」と聞こえ、自分で開けばいいものを、中村に開かせ、ちょっと鼓動を高めさせるテクニックはさすがだった。

 

それが昨日の事。

 

水野第一女子高等学校。
ここ近辺でその名を知らない男はいない。
「美人の多い学校」「お嬢様の城」と崇められるその女子高は、女生徒の間でも高い人気を誇っていた。
さらに、その文化祭となれば、来客者も殺到し、年々パンク寸前だった。
そのため、三年ほど前から「チケット入場」を取り入れ、生徒の直接の知人、友人でしか入場を許可しなくなり、水女生の価値はさらに飛躍的にアップした。
男性諸君の間では、水女生に友達がいる、というだけで友達が数人増えるほどだった。
この学校の特徴として、生徒全員に校章としてペンダントが配られる。
そのペンダントの価値がどれほどのものか、言わずと知れているだろう。
そのため、普段の生活でもつける生徒も多い。
そしてもう一つの売りが、2種類の制服。
いわゆる女子高生というようなベーシックな型の他に、スーツのような型の制服もあり、人気も高い。
割合としては2対8くらいなため、見方によっては女子大のようにも見える。
そしてそれが男を惹く理由の一つでもある事は、今更言わない。

坂本美沙子、中村貴志の両名が当学校に着いたのは10時30分よりちょっと前。
この時間帯の来校者が一番多いらしく、唯一開かれた正門は多くの人で溢れていた。
チケット制を取り入れたにも関わらず、やはり人は多い。
来る途中でダフ屋に声をかけられた。
「お兄さん、チケットもってる?余ってるなら買うよ?」
もはや文化祭ではないような空気だ。
しかし、来校者の気合いもさる事ながら、向かえるお嬢様方の気合いの入れ方も相当なものだ。
一年のうちで一番綺麗でいる日。そんな風習が流れているようだ。
おかげで、苦労してチケットを手に入れた男を裏切る事はない。

受付で半券を切る。
受付の可愛い女の子の白く柔らかい肌が、必要以上に中村の手に触れた。
ここでこんな扱いを受けてしまったら中でどうなる事やら。
てか、その逆の腕にはしっかり美沙子の腕がからんでいるのに。

噂の乱入ライブは11時過ぎだと言っていた。
とりあえず、特別行く所もないので、体育館へ足を進めた。
向こうから「2年1組でクレープ売ってます!来てくださぁい!」と黄色い声の二人の女生徒が近づいてくる。
すれ違いざま、輝かせた上目でチラシを渡された。
思わず受け取ったノート半分のサイズの黄色い紙を、内容を確認する前に美沙子に奪われた。
「一枚200円だって!後で食べよ?」
「ああ。」

廊下の壁にはたくさんのポスターが貼られていた。
その中に「体育館を揺るがせる何かが起こる?!JAKKライブ11時開始予定!」と書かれた大きなポスターを見つけた。
「これ。」
美沙子が先に声をあげる。
そして、そのポスターの前で立ち止まる。
「すごい扱いうけてるのね。」
美沙子の言葉通り、この廊下を見渡す限りでは一番目立っている。
「よっぽど人気なんじゃねぇのか?」
「ふぅん。アイツ今頃ヨダレ流してるんじゃないかしら。」
「かもな。」

廊下ですれ違うのは、化粧の合わない女子高生、夜の渋谷にいそうなOL生徒、そして、1時間はかけたであろう身なりの男。
教室の入り口では、数人の男と女生徒が話す姿が目立つ。
そして中村自身、先ほどから痛いほどの熱視線を受けている。
廊下の角を曲がると、広いホールに出た。
中心には大きな木が、吹き抜けの天井を抜けて立っている。
その周りに群がる制服の女と、顔を崩さずに笑う男。
点々と置かれているベンチはすでに一杯だ。
そのホールを抜けると、直線の廊下の向こうに、体育館の入り口が見えた。
平均年齢16歳くらいの人ごみを腕を組んで抜けるのはかなりの労力を要した。
それでも力の入った腕を放す事のない美沙子。
途中、美沙子に声をかけようとした二人の男がいたが、その腕を見て、慌てて人ごみの中へ帰って行った。
体育館に近づくにつれ、人の数も少なくなっていく。
綺麗な顔立ちの男と愛嬌全開で話していた女生徒が中村と美沙子に気付き、「あ、どうぞ。」と、重そうな扉を開ける。

途端に、中から爆音が響いてきた。

最近流行っているkeikoの曲を、彼女のステージ衣装を真似た色気たっぷりの服で歌う女性徒がステージ上にいる。
体育館はできるだけ外からの明かりをさえぎり、照明を駆使してクラブ調に仕立て上げられている。
この中は女生徒の数の方が圧倒的に多い。
男性諸君は音楽をたしなむ時間ももったいないのであろう。
体育館を見渡している間に、美沙子が何かを訴えていたらしく、急に膨れっ面になって中村の腕を引き出した。
しかし、どこへ行ってもこんなステージじゃ話などできない。
逆に美沙子は、金切り声でノル女の群れをかき分け、ステージの方と進む。
前から3列目くらいのところで止まった。
一度中村に目配せをして、ステージの方へ向き直る美沙子。
ちょうど、女子高生のkeikoが歌い終え、お辞儀をしているところだった。

彼女が顔を上げた瞬間、照明が消え、真っ暗になった。
先ほどまで大音量の音楽と歌声が聞こえていた方向から、男の声がした。

『我々は、この水女を乗っ取った。』

と同時に、あらん限りの黄色い声が体育館を埋めた。
観客の頭の上を光の線が横切った。
そのライトの先、二階の連絡通路に、なぜか制服の黒いズボンに、第二までボタンを開けたYシャツ、緩みきったネクタイの、坂本健吾がいた。
体育館を埋める声援がさらに大きくなった。

『なんだよ。秘密の乱入ライブのはずだったのに、みんな知ってるみたいだな、俺の事。』

「イエーイ」という大声援が返ってきた。

『まぁ、それなら仕方ねぇ。行くぜ!』

照明が落ちると同時に、重低音のドラムとベースの音が響く。
ステージ上の照明が入ると、ドラムの赤毛の純子、ベースの黒いショートの愛子、そしてギターの緒方香澄、肩からエレキギターをかけ、マイクを持った坂本健吾の姿が照らし出された。
学校内で行われた参加団体ごとの人気投票で1位を取ったJAKKライブは、体育館を揺らし続けた。

 

最初にステージから視界をはずしたのは中村だった。
中村が横を向いた時にはまだ、複雑な目でステージを見る美沙子がいた。

「挨拶行かねぇのか。」
まだ雑音の残る中、耳元で言葉を投げる中村。
「…え、あっ。そっか。行こうよ。」
三度まばたきをして、ようやく視界の中に中村を映した。
「ずいぶんお気に召したみたいだな。」
「馬鹿言わないでよ。あんまり大きい音聞きすぎたから、突然止まってぼぉーっと…」
「そんな言い訳するな。」
「言い訳じゃないもん。」

体育館を出て、「終わったら裏来て」と健吾に言われていた通り、裏へ行くと、汗だくになったJAKKメンバーが階段に腰を下ろしていた。
「おお!」
二人を見つけ、健吾が立ちあがる。それを見て、香澄も腰を上げる。

別れ際、健吾が「四人でこんな楽しくしゃべったの久しぶりだな。」という言葉通り、しばし楽しい対談の時間を過ごした。
その後、どこを回って、何をしたのか、二人共覚えていないだろう。
二人共200円どころか、10円も減っていなかったから、何かを買っていない事は確かだが。

32 坂本と、緒方と、おまえが作る音

水野女子の最寄り駅。
学校へ行くのとは反対側にケーキの美味しい喫茶店があるの。
水女生の愛子と純子が教えてくれた「rinp」という喫茶店。
店の自動ドアの横には木の椅子が置かれ、その上に小さな黒板が置いてあり、赤いチョークで「自家製ケーキ」とあり、その下にいくつかの種類のケーキメニューが書かれている。

「しかしあそこまでやるとは思わなかったわね。」
「そうか。」

ケーキやクッキー、それにお茶の葉などの売られているレジから奥へ入ると、丸いテーブルが2つの椅子を従え、いくつか置かれている。
その中の一番奥で座る中村と美沙子。

「なんかさ、盛り上がってるところにこっそり入ってきて、一曲歌って終わりー、とか、そんな感じだと思ってた。」

美沙子の前にはチーズケーキとレモンティー。
中村の手にはアイスコーヒーが握られている。

「でも今日のアイツすっごいカッコつけてたね。見た?あのダンス。あれ絶対練習しまくったんだよ。」
「今日のおまえも負けてないけどな。」
「私はいいじゃない。別に誰かを狙ってるんじゃないんだし。」
「そうか。」

店内には小音量で懐かしい名曲がオルゴール調で流れている。
中村のコーヒーがなくなる。

「レモンティー飲む?」
「いや。」
「…どうしたの?」
「何が?」
「なんかテンション低くない?」
「別に。考え事してるだけだ。」
「なんでよ。二人でいるのに何考えるって…」
「この前、坂本の歌聴いてきた。」
「は?」

半分食べたチーズケーキの断面を崩す。

「あいつの目、いい色してたな。」
「歌聴いて来たって?」
「あいつが外でやってるのは知ってるだろ?それを聴きに行った。」
「そうなんだ。どうして?」
「さぁな。」
「どこ行ったの?渋谷?下北?」
「下北?」
「うん。あいつ下北でもやってたよ。このあいだ。」
「どうして知ってる?」
「だって、あんまり楽しそうに言ってくるから、買い物ついでに…」
「どうだった?」
「どうだったって言われても…可愛い娘にデレデレしてたわ。」
「そんな事聞いてない。おまえもそんなモノを見に行ったんじゃないんだろ?」
「…楽しそうだったよ。」
「俺は坂本と音楽をやりたい。」
「…どういう意味?」

「おまえはどうする。」
「ちょっと待ってよ。何の選択を迫られてるの?あたし。」
「もう一度、四人で音楽を作りたい。」
「そんな事言ったって、健吾が勝手に…」
「今日、おまえがヤツに見とれてたのはなぜだ?」
「みと、見とれてたー?冗談言わないで…」
「いい加減認めろ。おまえはそんな馬鹿じゃない。」

「…何を?何を認めればいいの?」
「おまえが大切なのは俺じゃない。」
「ちょっと待って…どうしてそういう事言うの?」
「自分で解ってるんだろ?自分が今やるべき事はこんな男と一緒にいる事じゃない、と。」

美沙子の視線が徐々に下がっていく。

「俺が今大切なのは、音を作る事だ。坂本の音を。」
「私のこと…嫌いになっちゃったの?」
「誰がそんな話をしてる。俺は、あの音が好きなんだ。坂本と、緒方と、おまえが作る音が。」
「私…よりも?」
「そういう聞き方をするな。答えにくい。」
「そっか…」
「おまえはどうなんだ?音楽、好きなんじゃ…」
「私は。私は…わからないよ…」
「俺が例えどんなにおまえを想ったとしても、思い出を共有する坂本には勝てない。」
「…え?」
「おまえらを見てれば解る。言葉以上の気持ちがな。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。私はあいつなんかこれっぽっちも…」
「あいつに聞いても同じ事を答えた。俺はあんな女好きになるくらいなら…」
「香澄と駆け落ちでもするよ…」
「…どうしてわかる。」
「これがいけないのね。ただアイツと共通する事が多いから。だから遠慮するの?でもそれ誤解だよ。私は…」
「これ以上話しても無駄だ。」
「待って…」
「俺は、おまえと音楽をやりたい。おまえの愛のささやきよりも、おまえの音が欲しい。俺は、おまえが好きだ。ただ、おまえには俺以上に大切なモノがあるはずだ。」 

次の日、美沙子は部活を休んだ。
坂本健吾の話によると、教室ではいたって普通だったが、何かおかしかった、との事。
そして、中村は健吾に言った。

「おまえの音を俺にくれないか。」

健吾の答えは、

「俺の音は俺のモンだ。ただ、その音を出すには、おまえがいた方が助かるみたいだ。」

10月、文化祭ライブに向けて、新生バンドの練習が始まった。
ただ、美沙子は現われていない。

33 学園ドラマ

夏休みが終わり、いよいよ学校全体が文化祭モードへ入っていった。
城浜第一高等学校軽音楽部のエースバンドの練習も、熱が入っていく。

しかし、2学期の最初の部活に、ある衝撃が走った。

「えーと、」
皆を集めて、その前に立ち、口を開く現部長。
「坂本美沙子さんが、退部しました。」

部員全員が固まった、かに見えたが、一人だけ、瞬時に反応した。

「はぁ?!」
坂本健吾が開いていた楽譜を閉じて部長の顔をにらむ。
「なんでだよ!」
「えーと、僕が受けてる理由としては、音楽を続けたくなくなった、と。」
「それ、マジか?」
「残念ですけど…ここに退部届けも…」
部長の右手に茶色い封筒が握られている。
「昨日来てたじゃねぇかよ。」
「ええ、その時に渡されました。」

「確認したんじゃないか?」
いきり立つ健吾の横から、中村が口を挟む。
「何の?」
「自分がここでやれるかどうか。それと…まぁ、これは推測だから言わないでおくがな。」
「ふざけんじゃねぇよ。なんでこんな時期に…」
「健吾、家行ってみたら?」
中村と逆の方向から、香澄が健吾の顔をのぞく。
「なんで俺が…」
「あんたが行かないで誰が行くのよ。」
「どーせ明日会うんだからそん時ケチつけてやるよ。」
「それじゃ遅いと思うけどなぁ。」
「だいたい。こんな大事な時期に練習休むわけには…」
「おまえなら一日くらい練習しなくても大丈夫だ。」

健吾の手に握られていた楽譜を奪う中村。

「なんでこんな学園ドラマみたいになってんだよ。」
「学園ドラマだよ。」

香澄が微笑んで自分のギターの弦を一本弾く。

「えーと、今日は特別に許すから、ちょっと見てきてやってくれない?健吾。」
「おいおい、部長まで…」
「みんな片想いのままじゃ最後の文化祭台無しになっちゃうからね。」

部長が自分の手に持っていた茶色い封筒を健吾に渡す。

「これいらないから、って言って返してきちゃいな。」
「それは部長の役目だろ?」
「あいにく、俺は10月までに『メッセージ』マスターしなきゃなんないんでね。」
「いいから行ってこい。」

中村がスティックを握り直して、ドラムの椅子に座る。
気付けば、皆個人練習に戻ろうとしていた。
肩にかかったベースギターをとり、壁にかけ、健吾に近づく香澄。

「美沙子いなきゃ私らいいモンできないじゃない。」
「だったらおまえが…」
「これは、あんたの仕事。」
「なんなんだよ。みんなして。」
「もうみんなわかってるのよ。だって健吾。私と別れた理由だって、それからずっと私の事好きになってくれなかったのだって、美沙子のせいなんでしょ?」
「おいおい…勘弁してくれよ。」
「もういいの。あなたは、自分のケジメつけてこい。わかった?」
「…とりあえず、連れて帰りゃいいんだろ?」
「そうね。私達のところじゃなくてもいいから、連れて帰ってあげて。」
「は?」
「行ってらっしゃい。」

再びギターを手に取り、肩からかけ、中村の元へ歩いて行く香澄。
部室には、部長のバンドの「メッセージ」のイントロが流れていた。

『伝えたい気持ちがあるから
 口じゃ言えない想いがあるから
 胸の鼓動を抑えて欲しいから
 君の元へ走るよ
 この手紙を持って

 あの雨の日
 傘もささず歩いていた僕を救ってくれたあの日
 太陽は見えなかったけど
 僕は濡れなかった
 君が助けてくれたから
 赤い傘に入った時
 僕は思い出したんだ
 傘を忘れたのは君のせいなんだよ
 でも君のおかげで
 今こうしてる

 伝えようとした時があった
 口で言おうと想った日があった
 心臓の音で眠れなかった
 君の元へ行くよ
 この気持ちのまま』

 

「あら、坂本君。」

坂本美沙子の家の玄関を開けて顔を見せたのは、美沙子の母だった。
さすがに少し顔にシワはあるが、とても40代には見えない美しい母親だ。
美沙子も親の話になる度に自慢するこの女性に、健吾も久しぶりに会ったが、変わってない。

「美沙子、います?」
「ううん?今日は部活じゃないの?」
「帰って来てないスか。」
「ええ。どうして?」
「いえ、部活に来てないもんで、ちょっと叱ってやろうと思って来たんスけど、また戻ったみたいスね。」
「うん。家には帰ってきてないわよ。」
「どうも。」

家の扉が閉まる。

なんだよ。どこ行きやがったんだ、あいつ。

「坂本」と書かれた表札に背を向け、一般道へと出る。

せっかく迎えに来てやったのによ…

とりあえず駅の方へ、玄関から向かって右手に体の向きを変えた。
その時、視界のすみに、見なれた美女が映った。
慌てて振り返ると、そこには無表情で立つミニスカートの制服姿の黒髪の女生徒がいた。

「なんで来るのよ。」

視線の先に健吾は映っていない。

「うるせぇな。周りにぐちゃぐちゃ言われたから来てみただけだ。」
「そう。それで、何の用?」
「なんでいきなり辞めるとか言い出すんだ。」
「あんたには関係ない。」
「関係ないだと?おまえがいなくてどうやって文化祭に間に合わせるって言うんだ?」

少し、美沙子の表情が悲しみで一杯になったように見えたが、気のせいだろうか。

「誰かいるでしょ。あたしにはもうできない。」
「だから、その理由は何だ、って聞いてんだよ。」
「だから、あんたには関係…」
「ねぇわけねぇだろ。」

美沙子の視線と健吾の視線が合う。

「どうしてそんなに嫌いになっちまったんだ?」
「嫌いになったわけじゃないよ。ただ、あたしにはもうできない。音楽やる自信、ないよ。」
「なんなんだよ。」
「私は、あんたが好きなんじゃない…」
「は?」
「私だって音楽好きだよ。でも、今はそれよりも好きなの…違うの?」
「何を言ってるかわかんねぇよ。」
「ねぇ。」
「…あんだよ。」
「あたしとあんたが共有するモノって何?」
「俺とおまえが共有するモノ?」

美沙子は何も答えずにたた健吾の目を見る。

「さぁな。まぁ、あるとすれば、思い出くらいだな。」
「思い出?何の思い出?あんたとあたしの、何の思い出?」
「どうしたって言うんだ?」
「あんたの大切なモノって何?あたしの、あたしの…大切なモノは…」

美沙子の顔が徐々に下を向いていく。

「あたしは貴志が好きだった。」
「好き…だった?だったってどういう…」
「貴志はね、あたしはあなたの事が好きなんだって。自分よりもあなたの方が大切なんだって。」
「は?」
「どうしてここまできて…」
「おまえ、部活、音楽辞めたい理由ってそれか?俺がいるからか?」
「違うよ。別にあんたがいたって関係ないけど、あたし、今どうすればいいのかわかんないんだもん。」
「そうか…」
「どうすればいいんだろう…」
「なぁ…」
「え?」

美沙子の顔がゆっくり前を向く。

「1週間だけ、いや、三日だけ時間くれねぇか。俺も、今おまえと同じ事考えてるんだよ。」
「同じ…って?」
「俺は、おまえの事どう思ってんのかな、って。」
「…え。」
「香澄に言われたよ。部活じゃなくてもいいから、美沙子を連れて帰れ、って。」
「どういう意味?」
「俺は、おまえと一緒にバンドをやりたいのか、それとも、それよりも、何か、大事なモンがあるのか、って。」
「待ってよ…あんたまで何言い出す…」
「これ返す。」

健吾が茶色い封筒を美沙子に突き出す。

「いらないわよ。これはもう部長に出したんだもん。」
「部長が返して来い、ってさ。今はまだ持っててくれ。今はまだ一緒にやろうぜ。その後、お互いに、答え出さねぇか?」
「答え?何の答え?」
「それはわかんねぇけど…」
「あたしは逆なの。答えが出るまでは、音楽やれない。誰かのために歌うなんて、あたしにはできないの。」
「おまえの答えはいつでるんだ?」
「そんなのわからないよ。」
「…だよな。」
「あなたが言いたい事は解るけど、そんな急に言葉にできるモノじゃないじゃない。」
「まぁな。悪い。」
「別に…謝られても…」

二人で下を向く。
健吾の目に、茶色い封筒が映る。

「とりあえず、今は待ってくんねぇか?」

ゆっくりと封筒を前に出す。

「待ってどうするの?」
「もうちっとだけ、やろうぜ。バンド。文化祭ももうすぐだしよ、おまえがいなきゃ…」
「あたしがいなきゃ、何?」
「…おいおい。すぐ言葉にできない、ってさっきおまえが言ったんだろ?」
「ええ。言ったわ。」
「俺の出方を見よう、って腹か?」
「それは健吾次第。」

美沙子の口は笑ってはいるが、目は真剣だ。

「…おまえがいなきゃ張り合いがねぇんだよ!」
「あ、逃げた。」

美沙子が健吾の下から見上げる。

「うるせぇ!」

そのセリフの瞬間、健吾の右腕が目に止まらぬ速さで動いた。
美沙子の左肩を捕らえ、自分の方へ力任せに引く。
彼女の長く伸びた髪が宙を舞う。
一瞬にして距離を詰められた二人の目が合う。

自分の体が、全く抵抗していない事を感じた。
それが、美沙子に何かを想わせた。

二人の唇に、柔らかい感覚が走った。
待ち焦がれていたわけはないのに、なぜか長い時間これを待っていた感覚に襲われた。
何かを感じるにはあまりに短く、何かを想うにはあまりに長い時間。
一瞬の出来事だったが、鮮明に残る記憶。

ようやく美沙子の美しい黒髪が元の位置に戻った。
かと思ったら、今度はすぐさま逆方向へ振られていた。

普通、目はつぶるものなのだろうけど、目を閉じる時間もおしかったのか、二人の目は終始、瞬きもなかった。
それくらいの時間しかなかったはずなのに、離れた二人の唇から、わずかに息が漏れていた。

「それがあなたの答え?」

美沙子から離れた右手はすでにポケットの中に収められ、健吾の視線は美佐子の家とは反対側に流れていた。

「さぁな。」
「随分乱暴な愛情表現するのね。そうやって何人の女の子を汚れモノにしたんだか。」
「てめぇが急かすから…!」
健吾の視界の8割が薄茶色に染まった。
目の前に突き出されたのは、先ほどまで自分で持っていた茶色い封筒。

「私が真剣に書いた退部届けを捨ててまでキスしたかったの?」
「あ、悪り…」

目の前に突き出された封筒をゆっくりと受け取ろうとするが、手が触れるか触れないかのところで、封筒が遠のいた。
健吾の手が空を切る。

「あんだよ。」
「一つ聞いていい?」
「ん?」
「今の意味は?」
「知るか。てめぇで考えろ。」
「照れてやんの。」
「いいから返せ。」
「返してほしいの?」

健吾の体が止まる。

「ああ。」
「…え?どうして?」
「まだおまえの答えを聞いてない。」
「…それもそうね。」

封筒が健吾の手元に返ってくる。

「一つだけ言っておくね。」
「ああ。」

自分のカバンに封筒をしまいながら返事をする健吾。

「あたしは、多分あなたの気持ちには応えられない。」
「…そっか。」
「え?あれ?理由聞かないの?」
「だいたい想像つくからな。」
「…そうね。そろそろ付き合いも…長いしね。」
「そういう事だな。」
「いつまでに返事すればいい?」
「いつでもいい…とは言えないな。とりあえず、文化祭のステージで待ってる。もし音楽続ける気あるなら…俺と一緒にいる気があるなら、何もしなくても構わねぇから、来い。」
「わかりました。」

学生カバンを肩からかけ、そのまま駅へと歩き出す健吾。
しばらくその後ろ姿を見送った後、美沙子も家へと入る。
母親に「健吾君、カッコ良くなったねぇ」と言われ、素直に一言。

「そうね。」

自分の部屋に戻って、着替えを済ませた後、手が自然とギターの方へ向いていた。

口ずさみながら弾いたのは、石井和雅の『call』。

34 好きな人

前日が一番楽しい。
全てが終わってみないとわからないが、いつも思う感想。
顔を真っ赤にして物を運ぶ者、難しい顔をしてカナヅチを扱う者、長い時間をかけて木の板にペンキを塗る者。
クラスの準備を一通り終え、階段に座って休む健吾の隣に、美沙子が座った。

「おう。」「うん。」

いつものようにてきとうに口から出た言葉で挨拶を交わす。

「ずいぶんハリきってるわね。」
「当たり前だろ。来年はこんなマジでなんかできねぇんだからな。事実上、高校最後の文化祭だぜ?」
「そうね。」
「おい。これだけやる気の連中がいるんだから、んな顔してんじゃねぇよ。」
「ああ、ごめんごめん。」

自分のヒザから階段正面のガラスの向こうに見えるやる気満々の生徒達に視線を移す。

しかし、徐々にまた視界が下がってくる。

「なんなんだよ。」
「あたし、やっぱり辞めるよ。」
「…そうか。」
「驚かないのね。」
「まぁ、おまえが決める事だからな。しかしずいぶんギリギリに言ってくれるな。今日からじゃライブの練習なんかできやしねぇ。おまえが帰ってくる予定で香澄も中村も練習してたんだからよ。」
「ごめんなさい。」
「そうか。やっぱ無理か。」
「うん。…今は音楽をやるのが辛いの。家で何を聴いても楽しくないの。」
「どうしてそんなになっちまったんだろうな。…っと、失言だったか。」
「あたしにもわからないわ。なんでこんな腑抜けちゃったんだろうね。」
「ま、人間疲れる時なんかいくらでもあるからな。もうすぐ受験だし、いい頃合なんじゃねぇか?」
「そういう事言わないでよ…」
「悪い。」

美沙子の視界に健吾の左手が映る。
手には先ほどまでイジっていたカッターが握られている。

「まだ仕事残ってるの?」
「ああ、あと少しな。」
「そっか。」
「おまえは?もう終わったのか?」
「ううん。あと色塗らなきゃいけないの。今トイレ行くって出てきちゃった。」
「ならもう戻れ。用事は済んだだろ。」
「あ…うん。ごめん。じゃ。」

美沙子が慌てて立ちあがり、スカートを軽くはたく。
健吾の目の高さで、美沙子の短いスカートが揺れる。
しかし、健吾の目はピクリとも動かない。
階段を駆け登っていく美沙子。
健吾の首が少し動いたので、慌ててスカートを抑える。
健吾の目は、ただ遠くを見ているだけ。
美沙子の口がわずかに開いた。
何かを言いたかった。でも、何も言えなかった。
二階へ昇って行く美沙子の目は、少しにじみかけていた。

その日、健吾は部活に顔を出さなかった。
香澄と中村は、一時間ほど待ったが、現れない健吾と美沙子を察し、練習を切り上げた。

日が落ちても残る生徒が多くいる校内。
前夜祭のような雰囲気を漂わせているこの学校から、誰も帰ろうとしなかった。
美沙子がクラスの準備に精を出す中、香澄が出し物のダンスの練習をする中、中村が帰るタイミングをはかっている中、坂本健吾は一人、渋谷のハチ公前にいた。

いつもの顔ぶれとは違う客を相手に、いつもの曲を披露し、演奏が終わると数人の女性グループに声をかけられる。
少しの間話した後、その女性グループに別れを告げ、再び演奏を始める。
彼が家路についたのは、始発電車だった。

始発で家に帰り、着替え、シャワーを浴びて、眠る事なく学校へ向かった。
この時間にもなると、出勤や登校の人の姿も多い。
まだ汚れた空気を吸ってない風が、健吾のほほを冷たく通りすぎる。
最高気温はまだ高いが、朝夕は涼しくなってきている。
昨日は薄黒い雲が空を覆っていたが、今日は青く晴れ渡っている。
軽く口笛を吹きながら、駅へと向かう道中、美沙子の家に向かった。
玄関のドアを叩く事も、インターホンを鳴らす事もせず、ただ家を見て、再び駅へと足を進めた。
うちの制服を着た女生徒が慌てて走っている。
という事は、すでに多くの生徒が集まって作業を始めようとしているという事だろうか。
こういう時というのは、普段いくら遅刻をしている生徒でも、遅刻する事なく集まる。
逆に、普段きっちり決まった時間に学校に来る生徒の方が、リズムが崩れて遅刻するケースがある。
彼女もその一人だろうか。
朝一で向かった部室に、香澄と中村がいた。
先に健吾を見つけたのは中村。先に声をかけたのは香澄。

「どうする気なの?」
「おまえらクラスの手伝い行っていいぞ。」

二人が顔を見合わせる。

「ライブは俺一人でやるから。」
「ちょっと待ってよ。それどういう事?」
「美沙子はもう音楽辞めて受験勉強するそうだ。」
「だったら三人でやればいいじゃない。」
「そんな練習してねぇじゃんか。」
「だからってどうして…」

興奮する香澄の肩に手を乗せてそれを制し、代わりに中村が声を出す。

「何がしたいんだ?」
「さぁな。ただ俺が目立ちたいだけなのかもしれねぇな。」
「俺達がいたら邪魔なんだろ?」
「さすが。よくわかってる。」

ようやく肩にかけていたギターを下ろす。

「ちょっと、どういう事よ。この日のために練習してきたのはあんただけじゃないのよ?」
「わかってる。だけど、今日は一人でやらせてほしい。」
「だったら美沙子呼んでくればいいじゃない。私は四人でやりたいよ。貴志だってそうでしょ?」
「ああ。」
「それなら…」
「香澄。おまえ好きな人の前で歌った事あるか?」
「…え?」
「俺な、今そんな気分なんだ。自分の歌を聴かせたい人がいる。自分の歌を待ってる人がいる。そう思うとな。」
「…美沙子の事を言ってるの?」
「さぁな。わかんねぇ。どちらかを選べと言われれば俺は香澄を取るしな。」
「嘘言わないで。」
「嘘は言ってないぜ。あんな女と一緒にいたって疲れるだけだ。」
「それならなんで一人で歌いたいなんて言うの?」
「なんでだろうな。ただここへきて目立ちたくなったのかもしれねぇ。」
「四人でやろうよ。あたしだってステージに立ちたい。」
「…あいつが苦しいって、辛いって言うんだからよっぽどなんだろ。」
「辛い…?」
「いいじゃねぇか。今頑張って音楽なんかやらなくたって。学生の本分は勉強だぜ?」
「なら健吾だって…」
「俺には…俺にはこれしかねぇんだ。」

健吾が自分のギターを握りしめ、二人に微笑みかけた。
そしてもう一度肩にかけると、部室を後にした。
その背中をしばらく見つめた後、中村が香澄の肩を軽く叩いた。
不満と不安の混じった表情で健吾を見送った香澄の足が動く事はなかった。
軽くため息をついて、ドラムの足元にあった自分のスティックを取り上げ、定位置に戻すと、楽譜を自分のロッカーにしまった。

再び香澄を見ると、あの美しい瞳と目が合った。
不満は抜けたようだが、まだ何かを思っているように見えるその瞳。
中村には、なんとなくだが、その視線が何を示しているのか解った。
だが、数秒見つめ合った後、視線をそらし、自分の荷物を手に取った。
その様子をじっと見ていた香澄が、ゆっくりと中村の方へ歩み寄った。

「ねぇ…?」

その一時間後、体育館のステージに現われたのは、健吾一人だった。
エレキギターを抱えた健吾が出てくると、体育館が揺れた。
その中で、香澄と中村、そして美沙子の三人が、静かに健吾を見ていた。
歓声に紛れて、誰にも聞こえなかっただろうが、わずかに美沙子の口が動いた。
口の形から察すると、確かにこうつぶやいた。

「どうして…」

35 12月24日

『みんなぁ!久しぶり!』

歓声を割って、健吾の声が響く。

『今日はなぁ、俺達の最後のライブ。で、特別に、俺がソロライブをしてやる!』

より歓声が大きくなった場所と、ザワめく場所とに分かれたようだ。
美沙子の顔がどんどん崩れていくのが、ステージからでも見える。
健吾はまだ彼女を見つけてない様子だ。

『これだけのお客サンの前でソロってのも初めてだからさ、みんな協力してくれな?』

体育館が「イエーイ」という声で包まれた。

『ホント、この学校の連中はイイ奴ばっかだな。俺ここ入ってよかったよ。』

健吾の体の中で、何かが小爆発しているんじゃないかと思えるくらいの拍手が沸き起こる。

『色んな奴に出会えたし、色んな事あったし。それに…おい。どこかで見てるんだろう?おまえの事をこんなふうに想えたの初めてだよ。』

とたんに、低い声で「オイオイ!」と聞こえたり、高い声で「キャー!」という声が響いたり。

『俺にとって大切な音楽、おまえら友達、色んな思い出、そしておまえのために、今日は精一杯歌わせてもらいます。』

誰が何言ってるかわからない。
まるでどこかのクラブの中に超大物美男芸能人が入ってきたような、そんな空気で一杯になった。

この後のバンドが次々に辞退をしてしまう事態が起こった。
こんなライブの後にはヤル気になれない、または、観客でいたい、と。
そんな事は、健吾には伝えていないはずなのに、ライブは止まる事なく続いた。
あまりのテンションに、他のバンドが飛び入りしたり、ダンス部がバックダンサーをやり始めたり、合唱部がコーラスしたり、突然マジックをやり始める人間がいたり、放送部が勝手に照明をやり始めたり、しまいには全員でパラパラ踊ったり…

いつしか、タイムテーブルの意味はなくなり、エンターテイメントというモノが、一つになっていた。

その騒動に紛れて、健吾は美沙子を探した。

 しかし、その体育館内ではヒーローになってしまった健吾が、自由に動く事は許されない状態だった。
だが、後に聞いた中村と香澄の証言では、健吾のライブが一段落した時点で、美沙子はすでにいなかったとの事。

文化祭の熱は一気に冷め、期末試験を率いる11月がやってきた。
第2学年の面々の顔つきも、次第に変化しつつあった。
一人、また一人と「受験生」になっていく。
二学期からは必修授業が半分に減り、選択科目が残りの半分を占めていた。
試験1週間前でも教科書に手をつけなかった人間が、2週間前にノートをまとめ終わっている。
休み時間の会話もしだいに減りつつあった。
席が近い人間としか話さないようになっている人が多くなってきていた。

10月の文化祭で引退した一部の軽音楽部の人間も、その一員になっていた。
しかし、坂本健吾が10月で引退したのには誰もが驚いた。

「今までこっちばっかで勉強なんかてんで手ぇつけてなかったからな。」

と、苦笑いを残して、予備校へと行ってしまった。
しかし、健吾が目指すのは音楽系の専門学校だと言う。
予備校へ通うようになった変わりに、週一だった渋谷ライブが、週二になり、さらに横浜でも週に三回、予備校の帰りにライブをするようになった。
時にはどこぞの芸能プロダクションの人間に名刺をもらったりしたが、「高校を卒業するまでは待ってください。」とスカウトマンを驚かせていた。

中村と香澄は、一年の中で一番のボーカルとギターを引き入れ、6月第二金曜に行われる軽音ライブに向けて練習を重ねながらも、学業の成績を落とす事はなかった。
坂本美沙子、彼女は二年になったと同時に行き始めた大手の予備校で、常にトップクラスの成績をおさめていた。
その彼女が目指すモノは、「今のところ何も考えてないわよ。」と友人には話している。

しかし、ある日健吾が渋谷でライブをし終えていつものように化粧の濃い女の子と話していると、ある話を聞いた。

「なんかぁ、最近ね、原宿でもいるんだってー。ケン君みたいにライブやる、ちょーキレーな娘。」
「あー、あたしこの前見たぞ。マジちょー美人だぞ。ギターもちょー上手いし。声キレーだし。」

彼女達との話を終えた後、健吾は原宿へ向かったが、ライブのできそうな場所には、誰もいなかった。
違う曜日に行こうと、違う時間に行こうと、誰もいなかったり、ガラガラ声の男が歌ってたり。
痺れを切らした健吾は、翌日美沙子に声をかけた。

思えば、2ヶ月ぶりだった。
昔はあれだけ話していたのに。

「なぁ。」
「…なに?」
「おまえギターどうしたんだ?」
「ギター?」
「部活で使ってたヤツだよ。」
「なんで?」
「いや、なんか最近原宿で女がライブやってるって…」
「捨てたわ。」
「…は?」
「勉強の邪魔になるから、とっくに捨てたの。どうせ受験終わるまではやるつもりないし。」

健吾は、それから原宿に足を運ぶことはなくなった。
美沙子の存在を確認する事も少なくなった。

三学期になると、危機感を持たない者はいなくなった。
授業中も、休み時間も、廊下はおろか、教室内でも馬鹿騒ぎをする人間がいなくなった。

「君達は今年、大きな山を越えなければなりません。」

黒板の前でこめかみに血管を浮かばせながら力説する、四角いメガネをかけた先生。
学年が一つ上がり、いよいよ三年になった。
坂本健吾のクラスには、中村貴志がいた。
小学校から11年間毎日のように顔を合わせていた坂本美沙子とは、違うクラスになり、健吾は初めてクラスメイトから「坂本君」と呼ばれるようになった。

全然知らない後輩や、初めて会った水野第一女子高校の生徒からの告白もなくなってきた頃、坂本健吾は、ある一流の音楽専門学校に推薦で入学できる事が決まった。
そこはいわゆるプロが経営している学校で、才能のある者等は即芸能事務所に推薦される学校だった。

秋も過ぎてくると、学校に来ないで勉強に励む生徒が多くなってくる。
このクラスで一番早くに来なくなったのは坂本健吾だった。
特待生として、昼から簡単なレッスンをしてくれるらしい。そして夜は毎日のように街頭ライブに明け暮れていた。

12月、推薦での入学が決まる面々の顔が重くなり、翌日には明るくなり、歓喜の報告を担任の先生にする生徒が見られるようになる。
坂本健吾の耳にも、自分のクラスの友人が合格した、という報告が入る度に学校に顔を出し、お祝いをしていた。
そして12月も後半に入っていたある日を境に、坂本美沙子の姿が見られなくなった。
今だに授業を受けつづけている中村の話では、どこかに推薦合格したらしい。
「なんだよ。それなら俺に報告の一つでもあってもいいんじゃねぇか?」
その日は、軽いイラ立ちと、安堵感と…美沙子に会いたい気持ちで一杯だった。


12月24日、20時25分、渋谷。
いつもの場所でライブをやっている健吾。

12月という事で、最近はクリスマスソングや、カップル向けのラブソングを歌う事が多い。
今日はそれにも増して、愛を語る曲が多めだった。ギターもそれに合わせて、いつもとは違う、ベーシックなアコスティックを手にしている。
熱心なファンにはすぐ気付かれてしまう。
「何かイイ事でもあったのかよ。」「誰か好きな人でもできたかぁ?」
などという笑い混じりのヤジが飛んだ。
「うるせぇなぁ!クリスマスだからサービスだよ!」
観客から笑い声が返ってくる。
その笑い声が止むと、近くから聞こえる自分のとは別のアコスティックギターの音が健吾の耳に届くようになった。
他にも誰かライブをやっているようだ。

よーし、こっちも負けないように…

ピックを握る指に力を入れた時、アコスティックギターの音に、女性の声が乗った。

『愛してたの
 でもその言葉が口から出なくて
 私の臆病さに腹を立ててたでしょう?
 愛してたよ
 あなたが私を好きになる前から
 あなただけじゃなかったんだから
 苦しんでたの

 どうして言えなかったのかな
 そんな事わかりきってるはずなのに
 自分でわからないように細工して
 あなたの前では罠をかけて楽しんで
 いつでも私は悪い人
 そんな自分嫌いだって知ってたのに
 いつもいつもいつもいつもいつも
 あなたの前でだけは素直になれなくて

 今夜は伝えたい
 こんな雪の降る夜だから
 今言わなきゃ
 もうずっと言えない気がするから
 もうこんな苦しんでいたくないから
 今から言うからちゃんと聴いて

 愛してます』

聞き覚えのある声なんてもんじゃない。

一昔前まで毎日のように聞いてた声。

時には煙たがってた声なのに、どうして今はこんなに胸の鼓動が高鳴るのか、健吾自身にもわからなかった。

いつからいたんだ?

俺の事知っててそこで歌ってるのか?

って事はその歌は…おまえそれNAの「愛しい人へ」だろ?

いいのか?そんな歌そこで歌って。

健吾は、自分のアコスティックギターを肩にかけ直し、お客さんをかき分け、拍手するお客さんに応えている美しい女性の元へ歩いて行った。

「ありがとうございます。」

綺麗に流れる黒髪を後ろで軽く束ね、余った髪を横から首元へ流している。
顔の中心にいくにつれて短くなっている前髪を軽く持ち上げ、最前列で鼻息荒く座っている小太りの男にしきりに頭を下げている。
その男は「可愛い!」と叫んではばからない。
どうやら彼女の常連客のようだ。

「皆さん、今日はクリスマスイヴですが、何か予定がありますか?って、カップルばっかりだもんね。聞くだけ無駄か。」

お客さんの方から、軽い笑いが起こる。
「ミサコちゃんは何かないの?」
小太りの後ろに立っている髪の茶色い優男が聞いた。

「うーん、今んところこれ終わったら真っ直ぐ帰る事になってます。」

頭を軽くかきながら、苦笑いで答える。
「じゃあさぁ!」
優男の2つ隣に立っていた背が高くて青いサングラスをかけた男が体を少し前に傾けた。
「予定入れさせてもらって良いかな?」
背の高い男の声じゃない声が、男の後ろから聞こえた。

「え?」

背の高い男がどくと、後ろからギターを抱え、薄い茶色の髪を軽く後ろに流した美男子が現われた。
「おー?!ケン君ナンパ?!」
先ほど健吾が集めた客の中の一人が、その美男子に高い声を投げた。
「フザけんな!今俺が先に!」
背の高い男が、美男子の方へ体を向ける。

「健吾…」
「久しぶりだな。」

その一言で、黒髪の美女のお客さんは静かになった。

「どうしてここに?」
「なんだ。おまえ俺がいるって知っててやってたんじゃないのか。」
「だって、健吾は木曜は新宿のはず…」
「…よく知ってんな。」

複雑な笑顔交じりの健吾。
慌てて視線をそらす美沙子。

「今日はクリスマスだからな。やっぱホームグランドでやりたくてな。」
「ウソだー!あたし達に会いたかったんだろー?」

二人の会話を聞いていた健吾の客からクレームが飛んだ。

「まぁ、それもあるけどな。」

その客に笑顔を見せる。
そして美沙子の方に向き直ると、美沙子はまだ下を向いていた。

「さっきの歌聞かれたのがそんなに恥ずかしいか?」
「…うるさいな。」
「おまえな、俺が去年の文化祭で何したか覚えてんだろ?それに比べりゃ…」
「ねぇ。」
「…ん?」
「歌おう?」

「…ああ。いいぜ。」

お客さんが二倍になった渋谷ハチ公前。
二人が何を歌うか会議を開こうとした時、健吾の客からリクエストがきた。

「仕方ねぇなぁ…ま、これは元々おまえと歌うために作った曲だしな。」
「はぁ?!そんな話聞いた事ないわよ!」
「ばーか。言えるわけねぇだろ。『おまえために作ったんだ。さぁ、歌おう!』なんて、言えると思うか?」

ギターを手放して口喧嘩を始めた二人を見かねた客からブーイングが飛んだ。
一瞬目を合わせ、思わず噴出しそうになるのをこらえ、二人でリズムを取る。

この曲の題名は、この次の年のクリスマスについた。
「聖なる夜に二人で」と。

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