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片想いのmusic(第3話)


16 ライブへ向かう男

「げっ!もうこんな時間だ!悪りぃ!もう行くわ!」

「やきそば」と書かれた屋台から、お世辞にも似合うとは言えないエプロンをかけた男が出てくる。
昨日美容院に行ったのではないか、というくらいに美しく整った茶メッシュで立ち上がる短髪。
「ありがとな!おまえのおかげで売れたよ!」
男が出てきた屋台から声が返ってくる。屋台の前にはまだ列がある。
ライブは体育館で行われる。今は他のバンドが演奏をしているところだ。

裏口へ向かう健吾の視界に、美しい女性が入った。
「あら、ずいぶんセンスに溢れる衣装着てるわね。」
「は?やべっ!」
慌ててエプロンをはずしにかかる。

ったく、なんでこんなダサいのなんだよ。センスがねぇなぁ!しかもこんな女に気付かれるとは…!

「あら、なんだ。てっきりステージ衣装かと思ったわ。良かったぁ、そんなのおソロで…」

るせぇなぁ!この女ぁ!!

「ほら、そんなにらんでないで、行くわよ。もう時間ないんだから。」
「わぁってるよ!」

ようやくエプロンをはずした健吾、足早に歩く美沙子を追う。

「おまえ完璧なんだろうな?」
「何が?」
「新曲。」
「当たり前じゃない。あたしを誰だと思って?あたしは…」
「はいはい。」

ドアの前で手を胸にあてて自信に満ちた笑みを見せる美沙子の脇を抜け、ドアを開ける健吾。
中からものすごいエレキサウンドの波が押し寄せて来た。
「部長達じゃねぇか?」
二人とも中に入る。自然と話し声が大きくなる。
「部長達は最後でしょ?!!」
「俺らの前にも一回入るんだよ!!聞いてねぇのかこのアホ!!」
「なっ…!」
一人歩くのがやっとという狭い廊下を抜け、仮楽屋としている小部屋に向かう二人。
廊下も半分を過ぎ、小部屋に近づくにつれて、いくぶんかステージの音が小さくなってくる。

楽屋にはすでに他の二人がいた。
緒方香澄、中村貴志。
「おう。」
「おせぇぞー!」
香澄がピックで健吾を指差す。
「悪りぃな。ちっと店が繁盛しちまって。」
「あ、あそこのやきそばだろ?あたしも食った。」
「お、マジ?そりゃあサンキュな。」
「それよりな、昨日思ったんだけど…」
「そういう事は昨日言えよ。」
一枚の紙を持って身を乗り出す香澄に、間髪入れずに健吾がツッコむ。
「うるせぇな。昨日の夜思ったのよ。」
「で、なんだよ。」
香澄が手に持った紙を見せる。
「この歌詞さぁ…」
「あんだよ、俺の歌詞にケチつけんのかぁ?」
「うるせぇ!最後まで聞け!」
香澄の平手が健吾の脳天を直撃する。

くそぉ…男ならやり返してんだけどなぁ…

「なんだよ。」
「いいえ。で、なに?」
「あんたが止めたんだろうが。で、ここだよここ。これちょっとオカシくないか?」
「…ああ、そこか。そこはそれでいいんだよ。俺の自信作なんだから。」
「それにしたって言葉が変じゃない?」
「て言うかな、そういうのを言いたいなら、もっと早く言え、っての!今更言われても、変えらんねぇよ。それで覚えちまってるんだから。」
「それもそうか。」
おとなしく紙を折りたたんでしまう香澄。
そして、ピックを握り直して立ち上がる。

…え?

「…おい。」
「ん?」

自分のギターを手に取って振り向く香澄。
茶色い髪が軽く浮く。

「なんかえらい気合い入ってねぇか?」

目元、口元、眉、頬、爪…メイクに抜かりはない。どこからか、甘い香りもする。
細いシルバーで三連のブレスレットに、細い鎖のネックレス。耳には光を綺麗に返す白いイヤリング。
服装は、右肩のみにかかる抹茶色の薄い布地が、ハッキリそれと判るくびれを緩く見せている。
太いベルトを斜めにかけ、細い足を包む黒いスカートは、膝まで届いていない。それどころか、左側にある切れ目から、足がのぞいている。
その細い足の先は、かかとの低めの黒いサンダルをはいている。
足の爪は赤く塗られている。
まだ暑さは残っているとはいえ、明らかに夏の格好だ。
そして、その服装に負けないスタイルをしている。
しかし、それを言うなら、他のメンバーの衣装も、夏のように薄いものばかり。
ステージがいかに熱いかを物語る。

「けっこうイケるでしょ?」
「なんか…スゲェな。」
「何が?」
「何人の男オトす気だ?」
「そおねぇ。」

小悪魔の微笑みで健吾を見る。
腕を伸ばせば触れるくらいの距離まで近づき、背筋に何かが走るような、色気たっぷりの声を出す。

「あなたを含めて、10人ほど…かしら。」
「まぁな、おまえの性格知ってなけりゃ俺もオチただろうがな。」

爽やかな笑顔でかわす健吾。

「あら、あなたにしてはけっこう褒め言葉じゃない。嬉しいわ。」
「しかし、化粧、って言葉の意味がよくわかったよ。」

一瞬本気で惚れるトコだったな。元が悪くないとこうもなれるモノなんだな…
って事は美沙子も…?

「え?」
「なんでもありません。」
「それはあなたの衣装かしら?」
健吾の手に持っている先ほど脱いだエプロンを指差す香澄。
「馬鹿言うな。これはうちの店のエプロンだよ。」
「あー、なんだ。で、あなたの衣装は?」
「ま、そう慌てんなって。」

楽屋の奥に置いてあるカバンの山から、自分のカバンを見つけ、取り出す。
ジッパーを開け、中から服を取り出す。
そして、着替える。
中村は「ここで着替えるのか?」という顔をしているが、香澄は特に気にもせず見ている。

小さめのサイズの白いTシャツに、黒い皮パン。
太目の鎖のネックレスをつける。
天井をにらむメッシュが際立つ。

「うわー、イカっちー。」
「いいだろ?惚れたか?」
「それくらいじゃあたしのハートは動かなくってよ?」

そして、奥から着替えをしていたらしい美沙子が出てくる。

17 ライブへ向かう女

「あ、ごめーん。もう時間だから、行くね?」

屋台群脇に置かれたベンチの一つに、中学時代の友達と座って話していた、黒髪の美しい女性が立ち上がる。
制服のスカートをはたく。

「そっかぁ、美沙子ライブやんだっけ。」
ヤキソバを片手に持った友人が見上げる。
「そうよ。ちゃんと来なさいよ?」
「うん、行く行く!」
すでに何かをたいらげた友人が大きくうなずく。
「美沙子何?歌うの?」
「ううん、今回はギターだけ。」
「えー、歌わないの?」
「わからないわよー?それは来てみないと。」
満面の笑みを見せる。
「わかった!絶対行く!」
空の皿を持った友人がまた大きくうなずいた。
「そっか、健吾君が歌うんだ。」
「そうね。一応あいつがボーカルって事になってるわ。」
「それはますます行かなきゃイケないわね。」
「まぁ、あんなのの歌は耳障りかもしれないけど、それなりに練習はしたので、来てみてください。」
「相変わらずだなぁ。もしかしてまだ付き合ってないの?」
「もー、だから、あいつと付き合う気なんてない、って言ってんでしょ?」
「いや、だって、卒業してからもう半年も経ってるんだし、気持ち変わっても…ねぇ?」
空の皿を持つ友人に話を振り、自分は残っているヤキソバを食べる。
「そうだよ。美沙子もいい加減素直になりなさいよ!」
「あたしはいつだって素直です!それよりも、あんな奴よりいい男いるんだから。」
「え?!ウソ?!」
これにはさすがにヤキソバを途中で止めざるをえなかった。
「なになに、誰よ誰よ!」
「ま、見てのお楽しみー。」
「え、って事は、同じバンドにいるって事?」
「さぁねー。」
「そうなんだ。美沙子わかりやすいからすぐわかる。わかった。じゃあしっかり見とこう。」
「へぇー、ここには健吾君をしのぐ器がいるのかー。」

近くでにぎわう屋台群を眺める。
何かを思っているのか、何かを食べたいのか。

「それじゃあ、あたしは行きますっ!」
「おうっ!頑張ってこい!」
短いスカートを回転させて走り出す。
「このヤキソバ健吾君が作ってくれたんだよ?」
最後の一本を食べ終え、空の皿を見つめる友人に声をかける。
「ホントぉ?私も作ってもらおうかな。」
「行ってみようか。多分そろそろ彼も行くと思うんだけどね。」
「行こう行こう!」

二人は勢いよく立ち上がり、屋台群の中へ消えて行く。

体育館へ向けて少し早い歩調で歩く美沙子。
横の方から、茶色いメッシュがかった髪を立てたカッコイイ男性が走ってくる。
そのカッコ良さとは反対に、お世辞にもカッコイイとは言えないエプロンをつけて…

「ずいぶんセンスのいい衣装着てるわね。」
「は?やっべぇ!」
慌ててエプロンをはずしにかかる。

あ、そっか。こいつ11時まで入ってたんだ。
じゃあ、恵美が食べてたのはこいつが作ったのかな。
まぁいいや。せっかくだからおちょくってあげようかな。

「あら、なんだ。てっきりステージ衣装かと思ったわ。良かったぁ、そんなのおソロで着たくないもんねぇ。」

美沙子をにらみながら、急いでエプロンを脱ぐ健吾。

単純なんだから。ただ馬鹿なだけか。

「ほら、そんなにらんでないで、行くわよ。もう時間ないんだから。」

一人で笑いながら歩き出す美沙子。

「わぁってるよ!」
ようやくエプロンをはずした健吾、足早に歩く美沙子を追う。
「おまえ完璧なんだろうな?」
「何が?」
「新曲。」
「当たり前じゃない。あたしを誰だと思って?あんまりナメない方が良くってよ?」
「はいはい。」

ドアの前で手を胸にあてて自信に満ちた笑みを見せる美沙子の脇を抜け、ドアを開ける健吾。
中からものすごいエレキサウンドの波が押し寄せて来た。

うわー、すっごい盛り上がってるなぁ。誰だろ?
「部長達じゃねぇか?」
二人とも中に入る。自然と話し声が大きくなる。
「部長達は最後でしょ?!!」
「俺らの前にも一回入るんだよ!!聞いてねぇのかこのアホ!!」
「なっ…!頭来るなぁ!!」

一人歩くのがやっとという狭い廊下を抜け、仮楽屋としている小部屋に向かう二人。
廊下も半分を過ぎ、小部屋に近づくにつれて、いくぶんかステージの音が小さくなってくる。

楽屋にはすでに他の二人がいた。
緒方香澄、中村貴志。
「やっほー。」
「ああ。」
楽譜を見ながら、スティックで壁を軽く叩いている中村に声をかける。
「どお?調子は?」
「足は引っ張るつもりはないな。」
区切りの良いところまで来たのだろうか。スティックを止め、脇に置いて、楽譜を手放す。

黒いタンクトップに、濃い色の所々破れたジーンズ。
銀色のネックレスをつけ、派手なベルトをつけている。そしてなにより、黒いサングラスが際立っている。
髪は、ジェルで固め、後ろに流しめにしている。

「すっごぉい…」
「ん?」
「この格好、自分で?」
「いや、全部坂本…健吾のだ。」
「なるほど。この小物も全部?」
「これだけは似合うから買えって言われたな。」
サングラスを少しずらす。
「うん。すっごい似合う。ヤバイよ。」
「どっちだ。」
「あ、ううん、ヤバイくらい良いよ、って事。」
「ああ。」
「これをあいつが選んだの?」
「ああ。俺にこんなセンスはない。」
「へぇ…」

あいつけっこうセンスあるんだな。ったく。あたしと行った時は文句しか言わないくせに。

遠くから健吾をにらむ美沙子。
「おまえはいいのか?」
「あっ、そっか。あたしも着替えなきゃっ。」

楽屋の奥に置いてあるカバンの山から、自分のカバンを見つけ、取り出す。
ジッパーを開け、中から服を取り出す。

「それじゃあ行ってきます。…惚れちゃうかもしれないわよ?」
「そうか。」

再び楽譜に目を通す中村。

そっけないなぁ。まぁいいや。

奥の部屋へ入る美沙子。
中村が十分にイメージトレーニングをして、楽譜を置いて、健吾の着替えを見学するくらいの時間が空いた。

そして、奥の部屋から美沙子が登場する。
夏から伸ばしていた黒く美しい髪をまっすぐおろす。
香澄同様、メイクに抜かりはない。
しかし、彼女達くらいの容姿なら、どんなに濃いメイクでも、薄くでも、栄える顔立ちをしている。
どちらかと言えば、美沙子の方が濃いだろうか。いや、濃くしている、という感じだ。
目元の青い色が何か妖艶な雰囲気を出している。
細い紐で肩にかかり、そのまま足の先へ。
ロングのワンピースのようだ。
シルクのような薄く柔らかい素材で、美沙子の髪同様、美しい黒光りをしている。
彼女の美しい体を、見事に魅せている。細い左足がかなり上の方から露になっている。白いだけに、とても際立つ。
全体的に黒、目元や爪を青くしている。
アクセサリーは、目立つ事のない細いネックレスのみ。

「どおかしら?」
「なんか…スゴイな。」

遠くから健吾の声が聞こえた。

「どおよ、これがあなたがあれだけけなし続けた坂本美沙子の、女の姿よ?」
「ああ、いいと思う。」
「うそ?なによ、そんなあっさり。」
「おまえらとは長い事付き合ってきたが…改めて見るとけっこういい女だもんな。なぁ、中村?」

美沙子と香澄を見渡す健吾。

「俺は美しくなってからの姿しか知らん。」

楽譜を手にとる中村貴志。

「それって…」

美沙子の言葉を香澄が受け継ぐ。

「それってさぁ?あたしの解釈が間違ってなければ、すっごい褒められてない?」
「だから、褒めてやってんだろうが。」

香澄に言ったはずだが、照れだろうか、目線ははずしている。

「やったね美沙子!」
美沙子の方へ駆け寄る香澄。
「くー!1週間前から考えてたかいがあった!」
受けとめて抱き合う二人。
「あたし健吾に褒められたの初めてじゃないかな?」
「うるせぇなぁ!大事なステージ前だから気持ち上げてやったんだろうがよ!間違えられちゃたまんねぇからな。」
「はぁ…?!なによそれ…」
いきり立つ美沙子を押さえる香澄。
「まぁまぁ。いいじゃない。そういう事にしといてやろうよ。」
そして、耳元でささやく。
「あいつもさ、恥ずかしいんだって。いきなりこんな美女が二人も現われちゃって。」
「それもそうね。」
二人の間に笑いがおきる。

突然、楽屋の扉が開く。
汗だくになった軽音楽部三年の面々が入ってくる。
扉の向こうからは、まだ歓声が聞こえているようだ。
最後に部長が楽屋に入り、扉を閉め、一年バンドを見る。

「おう、ずいぶん綺麗になったな。緒方も美沙子も。」
「お疲れ様です!って、部長!その頭どうしたんですか?!」
セットこそ乱れてはいるが、髪の毛が赤い。真っ赤だ。
「いやな、おまえらと一緒だよ。せっかくのステージだし、これで文化祭も終わりだしな。気合い入れたんだよ。テーマは炎でな。」
三年のバンドのメンバーが大きな声で笑う。
緊張からの解放か、満足感か、充実感か、皆とてもいい顔をしている。
「俺らがしっかり暖機運転してやったからよ。おまえらも、気持ち良く行ってこい。」
「はい!!」

「健吾。」
「はい。」

部長が健吾を探し、目が合うと、フッと笑顔を見せ、マイクを投げた。
「ま、楽しくやってこいや。」
「…はい!」
マイクを受け取り、気合いの乗った笑顔を見せる。
「っしゃあ!行くかてめぇら!!」

 

ステージに健吾の声が響く。

『しっかり暖まってるかい?みんなぁ!』

体育館が再び揺れ出した。

18 メンバー紹介

健吾の熱唱が止む度に体育館が揺れ動く。
自作ライブが始まって、これで5曲。館内のテンションは上がる一方だ。
演奏が止まり、歓声が大きくなる。

『サンキュー!』
大きな歓声が返ってくる。
『いやー、暑いなぁ。』
歓声が静まる。
『どこまでこの部屋の温度は上がるんだ?』
大歓声が返ってくる。
『よーし、んじゃあ次は俺らの自信作を披露するか。』
体育館が再び揺れた。
『いくぜ中村。』
それを聞いた中村の腕が鋭く走る。

いつだか聞いた変速。
数秒間、館内は静まり返り、中村の腕に見入った。
ギターの音が入り、健吾が歌い出す。

『今何考えてる?
 俺の事だよな?
 俺は何考えてる?
 それは言えねぇな
 言わなくても…』

会場は依然静まり返っている。
誰も手をたたかない。言葉も発しない。
何かにとりつかれたようにステージを見ている。

『今は君の事しか考えられない
 試験なんかどうでもいいくらい
 昨日の晩飯覚えてるのもイヤになるくらい
 明日君に会えるなら
 今日の俺なんかいらない
 今すぐ眠って
 君に会いたい』

突然演奏のボリュームが上がり、会場のテンションが一気に上がった。
中村の汗が腕をつたい舞う。
ギターを抱えた香澄がステージの一番前まで出て行く。
美沙子は健吾のそばへ歩み寄る。
健吾がマイクを美沙子の口元へ向ける。

『私が何を考えてるかなんて
 言わなくてもわかるでしょ
 昨日何をしたか覚えてないくらい
 あなたが…

 明日なんて待ってたくないわ
 今すぐ会おう』

満面の笑みで体を回転させる美沙子。
スリットの入った黒いドレスと、美しい黒髪が、華麗に弧を描く。
美沙子の手が止まる。
すると、ドラムの音と、香澄のギターのみになった。
観客の目の前で高速演奏を見せる。
それにつられて、観客の体も小刻みに動き出す。
最後に大きく腕を回すと、ステージが浮き上がるほどの歓声が返ってきた。

そろそろ食べ物が売り切れだしているのだろう。
先ほどから体育館に続々と人が入って来ている。
再び美沙子の手が動き出すと、香澄が笑顔で健吾の元へ小走りで返って来た。
演奏を続ける香澄の耳に健吾が何かをささやいた。
いや、ささやいてはいないのだろうが、この歓声では聞こえるはずもない。
すると、香澄が少し照れ笑いという感じの笑顔で、何か言葉を返した。

演奏が止む。
数秒、いや、数十秒の間、体育館が静まる事はなかった。

『みんなノッてんなぁ。』
再び歓声が上がる。
『それじゃあ、遅くなっちまったけど、メンバー紹介。』
「おー!」という声が聞こえた。
『まず俺。』
その瞬間、香澄の平手が健吾の肩を通過し、美沙子の平手は後頭部を直撃した。
会場が笑いに包まれる。
『わぁったわぁった。じゃあまず、ドラム。中村貴志。』
高速の打撃音が体育館を走る。音が止むと、大歓声が返ってきた。
『ギター…こっちが…』
香澄が健吾からマイクを奪う。
『みんな楽しんでる?』
体育館が揺れる。
『ギター、ベース、準ボーカルと、今回の曲を作った、緒方香澄です!』
ノリの良い通る声が体育館を包んだ。
その声に酔いしれるが如く、歓声が上がった。
そして、香澄がマイクを投げる。
健吾を通り越し、受け取ったのは、
『今回、同じくギターとベース、準ボーカルやってます。坂本美沙子です。』
腕を一杯に伸ばし、マイクを観衆に向ける。
おそらく「イエーイ」と言っているであろうあまりに大きな歓声が返ってくる。
それに満面に笑みで応える美沙子。
マイクを健吾に渡すと、一歩前に出て、両手を唇につけ、会場に向けて腕を広げる。
女性からは黄色い声が、男性からは嬉しそうな歓声が聞こえた。
『あーあ、みんな汚染されちまったな。』
笑いがおきる。
『さて、今回主にボーカル、それと、歌詞を書かせてもらった、この俺。坂本健吾!』

数秒間、ものすごい歓声が上がる。

『よーし!んじゃあリクエストにお答えして、クラッシャーで…』

もうマイクの音ですら聞こえなくなりそうなくらいの歓声だ。

『ウルフ!!』

中村の神技が始まった。
その日、体育館の軽音楽部ライブは、タイムテーブルを無視して続けられた。

19 次の部長

「げほっ、げほっ。」

軽音楽部部室。
時計はすでに21時を回っている。
「大丈夫か?」
「ええ…」
皆の前で立つ赤髪の部長が、咳込むメッシュの男を心配する。
あれから、リクエスト詰めで、歌い続けたおかげで健吾の声はすっかり変わってしまった。
「ホント大丈夫?」
片目をつむり喉を押さえる健吾を美沙子も心配そうにながめる。
「だからその辺にしとけ、って言ったのに。」
「るせ…容赦なく弾いたの…だれだよ…」
「あー、わかったわかった。だからもうしゃべらない方良いって。」
「けほっ…」
「とにかく…みんなお疲れ。」
「お疲れ!」という声が部室に響く。
「長げぇ事練習して、それが今日こうして実って、良かったじゃねぇか。なぁ?」
部員もうなずく。
「これで俺らも引退だ。」

部室がとてつもなく静かになった。

「なんだなんだこの空気は。」
苦笑いを見せる部長に、誰も反応しない。
「…まぁ、今日はな、坂本達のおかげでいいステージができた。それで本当に満足だよ。な?」
他の三年に返答をうながす。
一人の三年が答える。
「ああ。俺は本当に、今日は最高の日だと思うよ。」
「ありがとうな。」
部長の目線が健吾の方へ向く。
「いえ…んな…」
一年生達はただ照れるばかりだった。
「って事で、もうこんな時間だしな。手っ取り早くいこう。次の部長なんだがな。」
一、二年の部員が全員顔を上げる。
「話の流れからいくと、健吾なんだけどな。」
「えっ…」
「残念ながらおまえは部長ってガラじゃねぇしな。」
苦笑いをしながらもうなずく健吾。
「そこで、だ。あれだけのステージ見せられたら、やっぱり一年の…で、だな。」
「もったいぶるなよ。」
三年からツッコミが入る。
「俺は、緒方がいいんじゃないか、と思ってんだけど、どうだ?」
部長が緒方香澄を見る。
「ええ、あたしでいいなら、否定はしませんよ。」
「よし、決まりだな。」
部室が拍手に包まれた。
「それじゃあ、部長には一言挨拶と…と言いたいところだが、いい加減帰らねぇとヤバイからな。今日は解散。明日また、部活ん時に。」
「お疲れさまでした!」

各々が片付けを済ませ、部室を出る。

部長がカギをかけた。

そこでしばらく静止している部長に、三年部員が声をかける。

一年バンドメンバーは、一足先に学校を出た。

最初に口を開いたのは美沙子。
「おめでとう。」
次に香澄。
「ありがとう。」
そしてかすれた声の健吾。
「おまえは確かに…部長っぽいもん…な。よく見てるよ…あの人も。」
最後に中村。
「………」
「これからは厳しくいくわよ。」
イジ悪い笑顔で三人を見る香澄。
「ぁぁ…おまえが部長じゃあ恐くもないけど…な。」
イジ悪い笑顔で返す健吾。
「しかし…」
すっかり秋色になった夜空を見上げる。
白く輝く半月と、点々と光る星々。
涼しさを感じさせる風が木々を揺らす。
「女ってのは…変わるもんわるもんだな。」
香澄の「おっ、きた!」と美沙子の「なにそれ?」がかぶって返ってくる。
二人とも笑いを浮かべて顔を見合わせる。

香澄が口を開く。
「あなたそんなに惚れちゃったの?」
「そんなんじゃねぇよ。ただ…」
美沙子が一人不満そうな顔で口を挟む。
「あなたそんなにあたし達の事ブサイクだと思ってたわけ?」
「ちげーよ…。そーゆー意識した事なかったからよ。珍しいものを…見た気分なんだよ。」
「失礼な…」
女性二人はまだドレスアップしたままだった。
言うには、「制服で帰るテンションじゃないのよ。」らしい。
「俺はこっちだ。」
会話の中に矢のように入る中村の声。

見ると、歩く三人から少し離れ、立ち止まっている。
「え?中村君行かないの?」
「ああ。俺だけ逆だからな。」
文化祭が済んだら、四人で打ち上げをやろうと話していた。
言い出したのは坂本美沙子。
「えー、みんないないと意味ないよ。」
「そうだよ。行こうぜ。」
美沙子の後ろから声をかける健吾。
「後で改めて、でも良いんじゃない?」
香澄が提案する。
「そうだな。今日は疲れてんもんな。」
軽い笑顔で同調する健吾を一睨みして、悲しそうな目で中村を見る美沙子。
「じゃあさ、あたしと打ち上げしよ?」
「ん?」
「あたしは逆方向行ってもいいから、一緒に打ち上げしよ?」
「それは構わんが…」
視線を健吾に送る。
それに気付いた健吾が答える。
「良いんじゃねぇか?んじゃあ俺らは二人でどかんと打ち上げるか。」
「しょうがねぇな」という顔で香澄に目線を送る。
「中村。美沙子持って帰るなよ?」
「何を…」
香澄の言葉に、すっかり暗い空に浮かぶ星を見る中村。
笑い声を上げる健吾と香澄。
「それじゃあ行くか。」
しぶしぶ歩き出す中村。
「なんだよ。乗り気だな。」
イジ悪い健吾のツッコミに、再び星を探す中村。
「ごめんね。また今度、みんな揃って…」
香澄の方を向き直った美沙子の肩に腕を回し、香澄が小声で言葉をかける。
「いいからいいから。あんたは頑張りなさい。」
「ちょっ…!」
あからさまに赤くなる美沙子に笑顔を見せる。
「あんたなら大丈夫。中村だって男だからね、イザって時は…」
「ちょっと香澄!」
慌てて香澄の腕を振り払う美沙子。顔は赤い。
「どうした?お姉さんに何か言われたか?」
すっかり解り切ってる健吾が遠くから言葉をかける。
顔を赤くしたまま健吾の方へ走り出す美沙子。
その背中に中村が一言。
「先行くぞ。」
一人階段を降りて行く中村。
慌てて後を追う美沙子。
「また明日ね!あんま遅く帰るんじゃないわよ?」
笑顔でそう言ったあと、ピースを美沙子に向ける。
美沙子は少し立ち止まって笑顔を見せ、階段をかけ降りて行った。

しばしその階段を見る二人。

「さぁて。」
健吾が反対側の階段を向いた時、下の方で電車の音が聞こえた。
慌てて走り出す二人。
階段を半分ほど降りた頃、電車がホームで完全に停車し、ドアを開けた。
一番近いドアに一足飛びで駆け込む健吾。
「ちょっと待ってよ!」
最後の三段を、短いスカートの切れ目から白いももを見せ飛び降りる香澄。
香澄もギリギリセーフ。
「あのねぇ…女の子を置いて先に行っちゃうなんてねぇ…」
「おい、見ろよ。」
健吾があごで反対側のホームを示す。
その先には両手でカバンを抱えて線路を見つめる美沙子と、制服のポケットに手を入れ、天井を眺める中村の姿がある。
「あれは…苦労しそうね。」
「まぁ、夜は長いからな。」
「それはどういう意味かしら?」
「特にはないけどな。」
二人を乗せた電車が動き出す。

こちらに気付く気配のない美沙子。
中村は目線だけくれているが、挨拶はない。

20 うち来るか?

「うち来るか?」

改札を出て、美沙子が「どこ行こうか?」と口にしようとした瞬間、中村が言った。
それを聞き、美沙子の表情も動きも一瞬固まった。
「え…?」
「この辺何もないだろ。」
「で、でも、そんな、イキナリ…」
「今親いねぇんだよ。」
「え?!」
「妹が一人なんだ。」
「あ…」
この数秒で様々な感情表現をしてみた美沙子だが、一つも見てない中村貴志。

「公園とか…」
「ない。」
「カフェとか…」
「ない。」
「じゃあ飲み屋でも…」
「あっても入れん。」
「えっと…」
「嫌なら帰れ。俺は帰らなきゃならん。」
「ううん。行く。」
まっすぐ中村の目を見る。
「じゃあ乗れ。」
「え?」

いつのまにか中村の手に自転車のハンドルが握られていた。
「これで10分くらいだ。」
「え?え?」
「早くしろ。」
中村が自転車にまたがる。
美沙子も顔を赤くしながらタイヤの横に備え付けられた違法道具に足をかける。

「行くぞ。」と言い、自転車が走りだす。
美沙子の体が一気に後ろに持って行かれそうになり、必死に背中にしがみついた。
中村が「大丈夫か?」と聞くも、全くリアクションが取れずにいた。
この時二人は両極端な理由で何も考えていなかった。

車の通りの多い国道沿いを走る。
美沙子の黒い髪が、車の風になびく。

この姿誰か見たら恋人に…見えるかなぁ?
…見えるよね?

交差点を渡った所で曲がる。
車線が一本減り、車の通りも少なくなる。
コンビニの脇の細い道へ入り、暗い道を行く。
右へ行き左へ行き。
美沙子に方向感覚がなくなったあたりで、自転車が止まった。
中村が「降りろ」と言うまで降りる気配のなかった美沙子。
綺麗に白塗りされた、二階建ての一軒家。
玄関の横に自転車を置くと、財布から鍵を取り出し、鍵穴に入れる。
ガチャリという音がして、玄関を開ける。
外で言う声と変わらぬ声で「ただいま」と言うと、奥から元気な声で「おかえりー!」と返ってきた。
中村が靴を脱ぎながら美沙子に入る事をすすめる。
「お邪魔します」と小さな声で言い、玄関を閉めると、廊下の奥から女の子が出てきた。
「もう!なんでこんな遅いのよぉ!…あれ?」

女の子が美沙子に気付く。
中村が靴を脱ぎ終え、「あぁ、同じ部活の…」と言った瞬間、女の子の声が入った。
「確か坂本美沙子さん!あのカッコイイボーカルの人と同じみょー字だから覚えてる。」
美沙子としては「カッコイイ」が引っかかったが、笑顔で「初めまして」と頭を下げた。
「こいつは妹の恵子だ。ま、上がれ。」
中村は妹をアゴで示すと、廊下を奥へ歩いて行った。
「ったく…えっと、妹の恵子です。今中三の受験生やってます。」
ショートカットの髪を軽く浮かせて、キレの良いお辞儀を見せる恵子。
笑顔がとても綺麗な可愛らしい女の子だ。
恵子が「どうぞ」と廊下の奥へ腕を伸ばす。

美沙子が靴を脱いで廊下に立つ。
恵子は目を輝かせてその顔を見つめる。

「わぁ…近くで見るとすっごい綺麗…」
「え?!」
「いいなぁ、私も美沙子さんみたいに綺麗になりたい。」
「恵子ちゃんも十分…」
「美沙子さん、彼氏いるんですか?」
「え?!いえ、あの…」
「あ、でも彼氏いたら男の家なんか来ないか…」
「えっと…」
「え?!まさか!!」
「恵子ちゃ…」
「あ、そっか。私いるんだ。そうよね。まさかうちのお兄ちゃんがこんな綺麗な人と…」

「とっとと来い!」

美沙子も口を挟む暇のないくらいのトークに、遠くから矢が飛んで来た。
中村貴志の大きな声を聞いたのは初めてかもしれない、と一人思う美沙子。
「あ、ごめんなさい。行きましょっ。」
美沙子の手首を軽く握り笑顔で歩き出す恵子。
顔だけ見れば確かに年下の可愛らしい女の子だが、家の中だと言うのに綺麗な服を着ている。

街で見かければあたしより綺麗な女性に見えるかもなぁ…
でも…

どう見ても貴志とは似つかない。
ほほはふっくらしているし、目もすごく優しい。
似ているのは、細い体つきなところくらいだが…
廊下の奥のドアに近づくと、部屋の中からいい匂いが流れてきた。
緊張する隙も与えられる事なく部屋へ入る。
広く綺麗なリビング。一角にテレビがあり、見渡すとキッチンも見える。
テーブルの上には食器が並べられ、料理が乗っている。
どうやら今日の晩ご飯はパスタらしい。
さっき上がったばかりというような感じで、温かそうな湯気を昇らせている。
あれ?中村君は…

「あれ?お兄ちゃんどこ行ったんだろ。」
部室であれだけクールな中村貴志が、「お兄ちゃん」と呼ばれると違和感がある。
美沙子は笑った。
後ろで階段を踏む音がした。
そして、私服の中村がリビングへと入ってくる。

「あ、美沙子さんシャワー浴びる?」
「え?」
「だってあれだけ暑い中であれだけ歌ってたんだもん。汗かいちゃったでしょ?」
「そう言えば恵子ちゃん来てくれたんだね。」
「そりゃそうだよ。なんたってお兄ちゃんの初ステージだからね。」
「初?」
「うん。まさかお兄ちゃんがドラムとはねぇ…ビックリしちゃった。」
「中村君…中学でやってたんじゃないの?」
食器棚からグラスを取り出している中村貴志。
「あ?」
「そんなわけないじゃん。お兄ちゃんずっと空手やってたんだもん。」
「空手?!」
「あれ?知らなかったの?」
「ぜんぜん…」
「言っちゃマズかった?」

冷蔵庫から麦茶の入れ物を取り出している中村貴志を見る妹。

「別に。嘘じゃねぇし。」
「そうよね。」

笑顔で美沙子の方へ向き直る。

「さ、シャワー浴びて?」
「え、でも…」
中村貴志を盗み見る。
「あ、お兄ちゃんはもう浴びたの。」
「え?うそ?」
「お兄ちゃんって着替えの間に数秒浴びて終わりなんだもん…ほら、一応髪濡れてるでしょ?」
苦笑いを浮かべて目線を兄に送る。
確かに先ほどよりも幾分か湿気を帯びている。
「ほらほら。レディーがいつまでも汗臭くちゃダメですよ。」
恵子が美沙子の背中を押す。
「ホントにいいの?」
麦茶を飲んでいる兄に聞いたつもりだったが、距離的に妹が答えた。
「いいのいいの。お兄ちゃんはあたしが見張ってるから。」
「おい。」
話は聞こえているらしい。

妹の強い勧めに従い、シャワーを浴びる美沙子。
今まで気付かなかったが、体はずいぶんと我慢をしていたらしい。
しばらく水を浴びていると、自分でハッキリ解るほどにスッキリした。
メイクが落ちるのも気にしないくらい気持ち良かった。
しかし、気付けば着替えがない。
服は構わなくても、下着が…
きっと今着たらさっきの汗が嫌な肌触りを演出するだろう。

「どうしようかな…」と言いながらも、いつまでも上がらないわけにはいかないので、とりあえずタオルを巻いて、浴室のドアを開けた。
脱衣所にはさっき脱いだ自分の服がたたまれて置いてある。
ドアを開けた音を聞きつけたのか、脱衣所の外から中村の妹の声が聞こえた。

「美沙子さん?」
「なに?」
「下着…貸す?」
「え?」
思わずドアを見てしまった。
「だって、さっき着てたのなんて嫌でしょ?私ので良ければ…」
「だって、そんなの悪い…」
「とりあえずサイズだけ確認してみない?」
「そんなのいいって…」
「美沙子さんの着替えの横の洗濯機の上に置いてあるやつ私のなの。着てみてよ。もし合えば貸しても良いよ。」
「でも…」

言われた場所を見ると、何着か重ねて置いてある。

「どお?」
「あ、待って。」

仕方なく手に取って着てみた。
不思議な事に体に合う。胸が合うのは少し悔しいが。

「ピッタリ。」と、思ったつもりが口から出ていたらしい。

ドアの外から嬉しそうな声が返ってくる。
「本当?良かった。じゃあそれ着てって?私は全然構わないからさ。」
「いいの?」
もう着てしまった手前、断るわけにはいかない。
「それじゃあ、明日返すね?」
「うん。お兄ちゃんに渡してくれればいいから。」
「え?!そんな事できないよ!」
「どうして?」
「だって…嫌じゃないの?」
「大丈夫よ。あの人オカシイくらいに異性に興味ないから。」

突然、胸に小さなナイフが刺さった。

ノーメイクでドレスは着れないからと思い、制服に手を伸ばしたまま、体が動かなくなった。

「私がどんな格好で前通ったってピクリとも動かないのよ?」

異性には興味ない…

「部屋だってどこをどうあさったって、何も出てこないの。」

じゃあ私を連れて来てくれた理由は?

「この前友達の家行った時なんか五冊も見つけたのにさ。」

本当に何も思わないで…どこか行くのが面倒臭かっただけかな?

「オカシイよねぇ。あの人どっか抜けてるのよ。」

そうだよね。そういう人だもんね。

「今日だってさぁ、」

私が勝手に期待したのがイケなかったんだよ。

「美沙子さんがこんな近くで体を露わにしてるっていうのに、自分だけご飯食べて、もう自分の部屋行っちゃったのよ?」

でも…まだ何も言ってないのにどうしてこんな気持ちになるんだろう?

「美沙子さん…?」

音もなく脱衣所のドアが開く。

「どうしたの?」

わからない。

「美沙子さ…」

ううん。わからないんじゃない…
今わかったんだ。
私、中村君が好き…
興味がないなんて言わないで…
少しでいいの。私を見て。

21 ドキドキしてる?

「なぁ、どこまで行くか賭ける?」
「ずいぶんタチの悪い事言うな。」

坂本健吾、緒方香澄の二人は、電車を降りた後、二人の家(と言っても歩いても苦ではない距離だが)の中間あたりにある公園のベンチに腰を下ろした。

「しかし疲れたな。」

この公園には外灯が二本。
しかし、このベンチには、そのどちらの光も届かない。
一本は遠いため。一本は横に立つ大木に遮られるため。
あの頃は、陽が落ちてから座るのはいつもこのベンチだった。
公園内に人がいない限り、外からは見えにくい。
住宅街を少しはずれた所なので、人通りも少ない。
言葉がなくなった二人のする事はいつも同じだった。

「やっぱり城浜の軽音ライブはすごいわね。」
「ああ…客として見るのとはまた違ってスゴかったな。」

健吾のカスれ声は治っていた。
静かな秋の夜風に、二人の声が響く。

「しかし、おまえもずいぶんな格好してるな。」
「綺麗でしょ?友達のお姉さんにもらったの。一回も着てないし、着る機会ないから、って。」
「ホントかよ。こんな服もらえるなんてついてるな。」

不意に、香澄の足が動く。
本人にすればただ足を組んだだけ。
しかし、その一瞬の動作に、健吾の目線は光速を越える移動をした。

「…ドキドキしてる?」
「誰が。おまえの足なんかに…」
「違うわよ。そーゆー事じゃなくて…」
「は?」
「前はよく来てたよね。ここ。」
「…ああ。座るのいつもここだったな。」
「そう言えばそうね。なんでかしら?」
「さぁな。」
「なによ。健吾が先にここがいい、って言ったんでしょ?」
「馬鹿言うな。おまえが勝手に座ったんだろ?」
「うそぉ?」
「俺が一度でも嘘言った事あるか?」
「ええ。一度ではないわね。」
「まぁ…そんな事今となってはどうでもいいけどな。」
「そう…ね。」

香澄の手が、顔の横に垂れた茶色い髪を耳にかける。
ゆっくりと香澄の体の角度がなくなっていく。
健吾の肩に頭が乗り、止まる。

「なんだよ。」
「クセよ。」

香澄の肩に健吾の手が乗る。

「なによ。」
「クセだよ。」
「じゃあ…」

健吾の手に力は入っていない。
しかし、そうでもされたかのように、香澄の体が健吾の方へ寄り、首が半回転する。
秋の風に乾かされ、いくらか潤いを失っている唇。
口紅がすこしとれているがしっとりとした唇。
優しくなでても固い事が判る腕、肩、胸。
睡魔とは違う誘いをする、甘い香り。
汗でいくらか怒りがおさまっている立たされた髪。
ライブ前には一本たりとも髪が垂れていなかった首筋。

「ん…」

体に距離はあかないが、唇が離れた。

「いきなり何よ。」
「おまえから来たんだろうが。」
「そんな昔の事覚えてないわ。」

再び唇が触れ、すぐに離れた。

「なんだよ。」
「だからクセだ…」
「それはもうわかった。」

まっすぐな視線から逃れる香澄。

「あのさ…」
「ちょっとそういう気分だっただけ。」

下を向いたまま答える。

「…ちょっと?」
「そうよ。」
「軽いキスはしない!っていつだか…」
「うるさい!」

健吾から体が離れる。

「なんだよ。」
「前だってしてたじゃない。なんで今更…」
「もう止めよう、って言ったのはそっちだろ?」
「そうだけど…仕方ないじゃない。」
「仕方ない?何がどう仕方…」
「仕方ないの。仕方ないの…」

香澄の体が再び健吾の体に体重を預ける。

「どうしたんだよ。」
「わからないわよ。」
「わからない事ねぇだろ。」

香澄の顔が健吾の胸の中へ入っていく。
腕が腰に回る。

「おい…」

腕に力が入っていく。

「どうした?」
「ちょっとだけこのままでいさせて…」

その言葉に、健吾の動きが止まった。
しばらく、風が吹く音を聞いていると、不意に香澄の体が動く。

「いけない、いけない。」

壁に手をつくかのように健吾の体を使い、自分の体を起こす。

「大丈夫かよ。」
「もう少しで寝ちゃうとこだった。」
「寝る?そんな疲れてんならこんなトコで…」
「違う。」
「なんだよ。」

膝の上で手をからませる香澄。
その動きが止まり、膝を見つめる。

「ダメ…だよね?」
「何が。」
「ダメだったから別れたんだもんね。」

一息吐く健吾。
香澄とは反対方向の夜空を見上げる。

「…またその話かよ。」
「健吾はさぁ?私の事…」
「好きだよ。」
「え…?」

香澄の顔がゆっくりと上がり、夜空を見る健吾の横顔を見る。

「何度も言ってんだろ?俺は好きじゃねぇ女とは…」
「キスはしない、だっけ。」
「そうだよ。だけどな…」
「わかってるわよ。私に、健吾の胸で眠る権利はないんだもんね。」

香澄は自分の正面にある夜空に視線を流す。

「なんかその言い方俺が悪いみてぇじゃねぇか。」

今度は香澄の横顔を見る健吾。

「そんな事ないわよ。健吾は悪くない。そんな事わかってる。」

香澄が立ち上がる。

「帰ろうか。」

体は夜空の方を向いている。

「なんだいきなり。」
「だって…このままここにいたら…」

帰れなくなっちゃうよ。

「まぁ、おまえがそう言うなら…」

帰りたくねぇけど。

健吾も立ち上がる。

「ごめんね。」
「いいよ、別に。また四人いる時にやれば…」
「ううん…」

香澄の体が回転し、健吾の腕に包まれる。

「ごめんね…」

暗い公園に香澄の震えた声が響いた。

22 男子の部屋

コンコン。

中村貴志の部屋のドアが鳴る。
「開いてるよ。」
「お邪魔します…」
ドアがゆっくりと開き、美しい女が顔を出す。
気をつけて見なければわからないが、さきほどより少し、目が赤い。
白い壁紙。部屋の一角に木でできた机。その反対側に置かれたベッド。
その他は本棚。その中に敷き詰められた本。
様々なジャンルの本、いろいろな作家の小説、2、3種しかないが、全巻そろっているであろう漫画。
中村貴志はベッドに座り、目をつむってスティックを振っている。
そして、美沙子の目についたのは…

「ギター?」

ベッドの横にたてかけられたアコスティックギター。

美沙子がギターを手に取る。
「中村君もギターやるの?」
「いや、まだ始めたばかりだよ。」
「へぇ。どうして?」
「なんとなくだ。」
「どのくらい弾けるようになった?」
中村がスティックを止め、目を開ける。
「始めたばかりだと言っただろ?」
「あ、そっか。ごめんごめん。…弾いてもいい?」
「構わんよ。」
ギターをかかえて、中村の横に座る。
中村の鼻に、甘い香りが漂う。
「中村君って、歌わないの?」
「歌えと言うなら歌うが、下手だぞ。」
「いいよ!じゃあ、弾くから歌ってね?」
「ああ…」
「何がいいかな…あ、」
美沙子が部屋を見渡すと、壁に一枚ポスターが貼ってるのが見えた。
「岡田俊介だ。」
「あ?ああ。」
「好きなの?」

美沙子の胸が一つ鳴った。

「まぁな。俺の中で歌を歌うのは彼だけだ。」
「…へぇ、スゴイね。そんなに…好きなんだ。」

今度は三つほど鳴った。

お願い、止まって。

「小学生の頃にハマってな。それ以来ずっとだ。」
「小学生?その頃からあんな歌が好きだったの?」
「彼の歌は統一されてないからな。小学生でも分かる歌もある。」
「そっかぁ。いいなぁ…」

腕の中にあるギターに視線を落とす。

「おまえも聞けばいいだろうが。」
「え?あ!違う違う!そういう事じゃないの!」

おもわずギターを落としそうになった。

「おいおい、勘弁してくれよ。それ金貯めてやっと買ったんだからよ。」
「ごめんね。これいくらしたの?」
「8万5千。」
「ウソ!!」

また落としそうになったが、今度は異常なほどの力で抱きしめる。

「ウソ言ってどうすんだよ。」
「スゴイねぇ。私そんなお金ないよ。」
「俺だってねぇよ。貯めた、っつったろ。」
「あ、そうだね。」

不意に訪れる沈黙。
自分の心臓の音を消したくて、わざと大きな声で切り出した。

「お料理ごちそうさま。」
「ああ。」
「すごくおいしかった。妹さん上手なのね。」
「親いねぇ事多いからな。」
「って事は中村君も作ったりするの?」
「俺は週一くらいだけどな。」
「あ、ちゃんと作ってるんだ。えらぁい。」
「そおか?」
「だってね、健吾なんか包丁も持った事ない!って言ってたのよ?」
「学校の授業とかでもか?」
「ええ。何だかんだで逃げて、他のものばかりやってるのよ。挙句の果てには…」

何であんな奴の話してるんだろ…馬鹿みたい。

「挙句の果てには?」

突然黙った美沙子の後を聞こうと声をかける中村。

「あ、ううん。いいの。どーせあんな奴馬鹿しかしないから。」
「そうか。随分だな。」
「いいのいいの。さ、何歌う?」
「歌はもういいだろ。」
「じゃあ、勝手に弾くね?」
「ああ。」

部屋にギターの音が響いた。

「スゴイ…綺麗な音。」

演奏が始まる。

『あなたと歩いた帰り道
 少し足早に歩くあなたの後ろを必死について行った
 早いよって言えば良かったのに
 どうして言えなかったのだろう
 あなたの足を止めたくなかった
 あなたに迷惑かけたくない
 それが始まりだったのかな』

「知ってる?」
「いや、誰だ?」
「NAの曲なの。」
「好きだな。」
「…うん。」

違う。私が好きなのは…

「しかしおまえ上手いよな。俺なんかいくらもうまくいかねぇのに。」

美沙子からギターを奪う。

「あのさ…」
「ん?」

指先を見つめながら、一本一本確認していく。
ようやく一つの音が出る。

「なんだ?」
「えっと…」

恐い…

「あのね?」
「なんだよ。」

ダメ。今言うしかないの。

「私さ…」

お願い、聞こえないでこの音。
届いて、この言葉…

「好き…なんだ。」
「…どういう事だ?」

美沙子が顔を上げる。

「中村君の事が…好きなの。」

 

沈黙。

二人の時間軸が、明らかにズレているような感覚。

きっと1分も経ってない。

ううん。30秒も10秒も経ってない。

でも、私にはすごく長く感じた。

どうしてもこの音止められなくて。

ずっと聞かれてた気がしたの。

私の音なんていいの。早く答えを…

「そうなのか?」
「…え?」
思わず中村の顔を見る美沙子。
「なんで俺なんだ?」
「なんで…って…」
ゆっくりと視線をずらしていく。

「おまえ坂本…坂本健吾と付き合ってんだろ?」

一瞬何を言われたかわからなかった。

「は?…あ!ううん!違うよ!そんなわけないじゃない!どうしてあんなヤ…」
「憎まれ口叩くほど仲良いって言うじゃねぇか。」
中村の方へ必死に身を乗り出す。
「ちがう!ちがう!ちがうよ!付き合ってなんかいないの!だってあたしは中村君が!…好きなんだから。」
「そんな否定しなくていいだろ。」
「だって…」

体を元の位置に戻す。
顔は下を向いたまま。
これ以上何を言えば良いんだろう…

「で、なんで俺なんだ?」
「そんな事聞かれても…」
「おまえ俺の事好きなんだろ?」
「…うん。」

うつむいたままうなずく。

「それがなんでだ、って聞いてんだよ。」
「そんなのわかんないよ…」
「なんだそれ。わからなくて好きになるもんなのか?」
「中村君は…誰かを好きになった事ないの?」
「ある。岡田俊介は好きだ。」
「そういう事じゃないよ。」
「どこが違うんだ。俺は彼の歌が心底好きだ。だから、彼も好きだ。おまえも、俺の何かが好きで好きなんじゃねぇのか?」
「…全部。」
「全部?」
「うん。中村君なら全部好き。」
「そんなの答えにな…」
「それが私の答えだもん。それ以上何も言えないよ。」

心臓がうるさくて…

「そうか。」
「うん…」

目をつむってうつむく美沙子。

沈黙が訪れる。

もう1分経ったかな。まだ30秒かな。ひょっとしてまだ10秒しか経ってないかな。

もう耐えられない。

壊れそう…何かが爆発しそう…

早く私を楽にして。お願い…

美沙子の体が中村の方へ倒れていく。

中村の肩に頭が乗り、美沙子の体が止まる。

「離れろ。」

心臓が一つ、大きく体を震わせた。

目を開ける。視界がボヤけてるよ。

美沙子のほほを何かがつたう。

「おい。」

ダメ…動けない。もう動けない…動きたくない…

「そんなところで泣いてんじゃねぇよ。」

もういいの。ここで泣かせて。

「俺が答え返さなきゃイケねぇんだろ?」

こたえ…?

美沙子の体がゆっくりと起き上がる。
中村の顔を見る。
「こたえ…?」
「ああ。」
中村が立ち上がる。
自分の机の椅子を引き、そこへ座る。
正面で向き合う。

「俺はおまえには興味はない。」
「え…」

もう声が出なくなりそうだった。

「だけど、おまえは俺に興味あるんだろ?」
「うん…」
ちゃんと言葉に出せたかどうかわからない。
「こういう時はどうすればいいんだ?」
「どうすればって…私に聞かれても…」
「おまえはどうしたいんだ?」

私…私は…

美沙子がゆっくりと立ち上がる。
一歩一歩、中村の方へ歩み寄る。
もう心臓の音は聞こえない。
静かな部屋の中で、二人の距離が縮まっていく。
椅子に座る中村の前で立ち止まる。

そのまま……

23 壊れちゃう

静かな夜の公園の一角、自動販売機前。
その電気が照らすベンチに、男女の姿。
一つの缶を渡し合ってノドを潤している。

「懐かしい話だな。もう一年経つのか。」
「そうね。」

最後の一口を飲み終えた健吾が、自動販売機の横に置かれた「缶・ビン」と書かれたゴミ箱に缶を捨てる。

「どお?あれから進展はあったの?」
「あるわけねぇだよ。最初から。」
「まだ素直になってないのね。」
「何言って…」
「いいわよ。私は解ってるからさ。」
「勝手にしろ。」

健吾が足を組む。
涼しい風が香澄の茶色い髪をゆらす。

「でも…」
「あ?」
「やっぱり失敗だったかもね。」
「何を今更…」
「ね。自分で別れようって言ったくせにね。私ばっか気持ち残っちゃって…」
「まぁ、それくらい目に見えてたけどな。」
「うそつけぇ。あの時必死に止めたの誰よ。」
「さぁな。」

茶色メッシュのかかった髪をねじる。

「てかさぁ!早く素直になってくれないと私の立場ないんですけどぉ!」
「知るかよ。おまえが勝手に決めただけだろうが。第一あいつは今…」
「関係ないでしょ。思い出を共有するあなたには勝てないわよ。」
「なにが思い出を共有、だよ。ロクな思い出なんかありゃしねぇよ。」
「そんな事思ってないんでしょ。ホントは。」
「だからなぁ…」
「まぁいいわ。そのうち解るでしょうから。」

短いスカートを引っ張り、座りなおす。

「そう言われて早一年か。」
「この分だとまだかかりそうね。」
「さぁな。」
「ま、それまで私はセックスフレンドでいいわよ。」

突然健吾がむせる。

「どうしたの?」
「どうしたの、じゃねぇ!いきなり何言い出すんだよ!」
「なに過剰反応してんのよ。ヤらしぃな。」
「ヤらしいもクソもあるか…」
「頭ん中いつもそんな事ばっか回してるからそんな事考えるのよ。」
「てめぇが言ったんだろうが…」
「何が?」
「セックスフレンドって何だよ。俺らまだ1回…」
「だから、別にそういう事言ったんじゃない、って言ってるの。悪かったわね。言葉の引き出し少なくて。」

香澄が体ごと健吾の反対側を向く。

「…どういう事だよ。」
「別に。勝手に解釈すればいいでしょ。」
「フザけんな!そんなぶっそうな言葉使われて勝手に解釈なんかできっかよ。」
「うるさいなぁ…」

香澄の背中が震え出す。

「香澄…」
「私だってそんなのイヤだよ…だけど、健吾は私じゃイケないの。絶対私の事一番だと思ってない。」
「あの頃は誰よりも…」
「ウソ!そんなの絶対ウソだもん!」
「おい…」
「私がどんなに辛かったか知らないくせに…あなたの目を見るのがどんなに辛かったか考えもしなかったくせに…」

後半はもう言葉にならかった。
健吾にもどうする事もできず、ただ黙って販売機に照らされた夜空を見上げていた。
香澄の腕が動く。
自分の顔の辺りで横に動かし、体を前に直す。
しかし、顔は上げない。
いつも上げている髪を下ろすと、けっこう長い。
そのいつもより長い髪が香澄の顔を隠す。
その茶色い髪の先と、白い膝の間に、時折光りの筋が通る。

「俺は…どうすればいいかわかんない。」

香澄からの返答はない。

「本当に…あの頃は本当におまえの事が好きだったんだ。だから、おまえにあーやって言われた時、混乱したよ。本当に。」

肩の震えは止まっていた。

「今になっても、おまえの言った事の意味はわからない。」
「いいってば…」
「俺はおまえを軽い恋愛友達なんかにしたく…」
「いいの…」
「よくねぇ…」
「お願い…もう何も言わないで…」

香澄の体が半回転して健吾の胸の中におさまる。

「だから…このまま抱いて…お願い…私はそれだけでいいの…」

健吾の腕は動かない。
それとは反して、香澄の腕は力強く健吾の体に食い込んでいく。
「お願い…」
健吾はまだ動けない。
再び香澄の背中が震え出す。

「私壊れちゃうよぉ…」

とうとう声をあげて泣き出した。
健吾の震える手には大量の汗が握られていた。
どうしてこいつがこれほどまでに苦しむ必要があるんだよ…

「香澄…」

返事の代わりに、泣き声が少しおさまる。

「俺は…今俺に言えるのは、おまえが苦しむ必要はない。何も苦しむ必要はないだろ?俺が好きなのは…」
「止めて!」
「なんでだよ。俺の気持ちはなんで聞いてくれねぇんだよ。いつもそうやって切りやがって…」
「聞きたくない…そんな嘘の気持ちなんか…」
「嘘じゃねぇって言ってんだろ。」
「目が…」

香澄の腕の力が抜け、ゆっくりと顔があがる。
ぼさぼさになった髪の間に、目を張らせた美しい顔がある。
まっすぐ健吾の目を見る。

「目が…嘘だって言ってる。私の事なんか見てない…」
「どうしてだよ。俺がおまえ以外の誰を見る必要があるんだよ。」
「いいよ、そんな事言わなくて。だって…」

香澄の口がふさがれる。
健吾の固い唇が香澄の柔らかい唇を抑え込む。
しばらくはじっとしていた香澄だが、時間の経過に、少し動こうとする。
しかし…

「ん…」

香澄の背中を抑える左腕と、髪の中に埋まりながら頭を引きつける右腕に包まれ、動く事ができない。
健吾の唇が激しく動く。それにつられるかたちで香澄の唇も動く。
不意に、香澄の唇に、唇とは違った感覚が走る。
その感覚は次第に香澄の中へと入っていく。
それに追いやられるように唇を開く。
健吾の右腕により力が入る。それはより入ってくる。
中でからむ。何かを伝えるように熱く。
その勢いに圧され、一瞬香澄の目が開いた。
その時見た健吾の目には、光るものが見えた気がした。
もう一度よく見ようと目を開いた瞬間、健吾の目が視界から消えた。

それに遅れる事コンマ1秒。
首筋に熱い刺激が走った。
ようやく解放された口から、溜まりに溜まった自分の空気と健吾の空気と共に、50音にはない言葉が口から漏れた。
熱い刺激はゆっくりと下へ流れていく。
その流れにただ身を任せる香澄。
もう時間を気にする事など脳の中から消されていた。

全身が熱くなり、家に着いたのは午前1時を過ぎていた。
「メンバーと盛り上がってると思うから帰るのかなり遅くなる」という事を、朝親に言ったのを思い出した。
そのおかげで、翌朝帰宅時間を告げても叱られる事はなかった。
私は何も嘘はついてない。
でも、この目の事は何も言い訳が思いつかなかった。
口から出たのは「すごく感激しちゃって…」だった。
嘘じゃない…よね。きっと。

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