北大西洋本鮪(クロマグロ)定置網事業その7
<2011~2014年シーズン>
◎取り上げ技術の向上(ピッシーナ期)
その6で2010年に古典的な取り上げ技術が一つの集大成を迎えた話を書いた。しかしこのころからモロッコの定置網の網元が設備を改善するようになる。ピッシーナとはスペイン語でプールを意味し、取り上げ網の隣にさらに小さい取り上げ網を設置する。近代化が始まったのである。そこには70匹ほどしか入らないので必然的に1回の取り上げが70匹以下に制限され、魚の鮮度を保持できるのである。これによりチヂミ率はい平均的に70%ほどにまで改善されたのである。意外に思われるかもしれないが、これらの新しい技術に対してはモロッコの方が積極的で、伝統産業を守ろうとするスペインは受け入れるのに時間がかかり、結果としてその後数年間は鮮度面においてはスペインはモロッコの後ろを行くこととなる。
◎スペインでのマグロ食文化
これまで触れて来なかったが、モロッコのマグロはスペイン最大のマグロ会社Wを通して買っている。そのためシーズン終了後にはその報告を兼ねてスペインはアンダルシア地方カルタヘナという町に毎年のように行っていた。またマグロをコンテナに転載する場所としてスペインのアルへシラスという港町を頻繁に利用していたので、スペインの食文化に触れる機会も多かった。ちなみにアルへシラスのバルで食べたカラマーレス・フリートス(イカを衣に付けて揚げたもの)の味は今でも忘れられない。そのころからである。刺身で食べられる鮮度のものを加熱して食べることが最高の贅沢であると気が付いたのは。そしてアルへシラスから西へ車で数時間走ったところにバルバテという町がある。ここがスペイン定置の基地である。スペイン定置は全部で4か所網があるが全てバルバテが拠点となっている。さながらスペインのララチェのようなものである笑。この町のビーチ沿いにはレストランが立ち並びSASIMI de ATUN(マグロの刺身)やTATAKI de ATUN(マグロのタタキ)がメニューに並ぶ。ただしタタキは日本のマグロタタキのようなネギトロ状ではなく刺身の表面に焼き目を付けた者。これをニンニクと一緒に食べたりするが、結構いけるのである。そして驚いたのはカルタヘナにある寿司屋に行った時である。スペイン人のオーナーがやっている店というので全然期待せずに行ったのだが、これがまた思いのほか本格的で日本のことをしっかり勉強されており、マグロもスペイン産の天然物を使っていてなかなか美味しかったのである。それでもその時は私もまだ海外の日本食を上から見ているようなところがあり、このことがその後の脅威になるとは想像だにしなかったのである。
↑バルバテのレストランで提供されるマグロのタタキ
◎スペインの漁業者
上述のW社であるが、会社の社用駐車場には当時人気だったリンカーン社のナビゲーター(日本円で800万円くらい?)が10台ほどドドドンとならんでいた。他にも高級車がずらり。彼らは地中海各国で畜養本鮪の生産を行う漁業者である。一応私はマグロを買い付ける客として会社を訪れているのではあるが、生産現場にはなぜか私が行って血抜きをして血まみれになり、野犬に殺されかけて。。。もちろん私の収入ではリンカーンには乗れない訳で。。。ちょっとした違和感を感じざるを得なかったことはその時の私の正直な気持ちである。利益に対する感覚が日本人とは全然違うのである。自分たちの利益を減らすということは絶対にしない。それに対して日本の水産業界ではすぐに値引きをして利益を減らすことが習慣のようになっている。安く売ることばかり考えて高く売ろうとしない。しかしこれには抗うことのできない原因がある。高く売りたくても売れないのである。その辺りついては今後のnoteで大きく触れていきたい。お客様は神様である。という言葉が存在するが、神様は最終消費者であって、どこぞのスーパーマーケットではない。スーパーのバイヤーが自分が神様だと勘違いして威張り散らしている場面を頻繁に見てきたが、業者間の関係は基本的には50:50でなければおかしい。本来利害が一致したうえで契約が成立しているわけであるから。脱線したが、スペインのビジネスマンを見ていて(良い意味で)利益に対する執念みたいなものを非常に感じたし、それが直接的に高級車に繋がっているのだと思う。シンプルでわかりやすいし日本の水産業界に足りていない部分かもしれない。そしてこれは世界的に言えることだが、海外の漁業関係者は羨望の目で見られる。非常に尊い存在なのである。これらの文化的差異が今後の漁業国日本の国際的な立ち位置を決定づけるような気がしてならないのである。
◎セリ人としての絶頂期
国内での定置本鮪ロインのセリは荷受E社とF社と我がZ社の三つ巴戦であったが、ちなみに私がセリを始めた頃の順位は、1位E社/2位F社/3位Z社であった。このころにはE社に出荷していた出荷者を全て引き受けるようになっており、F社とZ社の一騎打ちの様相を呈していた。F社に出荷していたのは唯一私に出荷しない出荷者にして日本最大のマグロ会社V社であった。
◎Z社&多国籍軍 vs F社&V社
のような形であった。またその裏では我々と運命共同体であったY社とV社間の大西洋・地中海マグロの買い付け覇権争いの最前線でもあった。この状況が何年も続く。雨の降る日も雪の降る日もF社、V社との仁義なき戦いであった。F社のセリ人は非常にクレバーで曲者。情報戦でもあったため、ひそかに情報を集めることも重要であった。ある日の夕刻、V社からY社に翌日のセリで大量にマグロを積んで私のセリ場を潰すように指示があったと情報を掴んだことがあった。常に私がF社のセリ人よりも高い値段で売っていた事が反感を買ったようであった。当時の私は血気盛んであったため相手に腹を立てていたが、今思うと大変名誉なことである。何せ日本最大のマグロ会社から目をつけられたのであるから。セリのセオリーとして、買い人は数の多いセリ場、そして魚の質の良いセリ場に集まる。私は全ての出荷者に電話をして、最高のマグロを積んで欲しいとお願いし、さらに数も情報で聞いていたF社の数の倍量を集荷を行い、質でも数でもF社を圧倒し、返り討ちにした。出荷者とセリ人の日頃の信頼関係の成せる業であった。セリをしているとこのような勝負の日というものが度々訪れるが、これがセリ人の仕事の本来の醍醐味の一つだと思っている。今でも忘れられないセリの一つである。仕事が楽しくて仕方がなかった。夜も眠れなくなるほどに。ただそれでもF&Vは粘り強く、魔人ブウのように私の前に立ちはだかった(少なくとも私にはそう映っていた)。
そしてそこから3年ほどで私の野望は現実のものとなった。(野望とは市場を独占すること。この野望を私は周囲に漏らすようになっていた。)次第にF社の上場数が如実に陰りを見せ、ついにV社から私のところへマグロを上場させて欲しいと依頼があった。すぐにY社の某取締役に確認を取り了承を得た。私なりの勝利宣言であったが、ここで一つ学んだことがあった。誰にも言わずに目標を達成することは達成しなくても良い逃げ道を作っている。誰かに言って退路を断ってから実現させてなんぼである。
この時期が私のセリ人としてのピークであったと捉えている。もちろんその後の方がこの頃と比較して売り上げや実績からすると数倍の仕事をすることにはなるのであるが。。。ピークの後は落ちていくはずである。どういうことか?私は2011年に30歳を迎えている。周囲の人たちは気づいていなかったであろうが、20代のころに比べ、声の大きさ、滑舌、肺活量、反射神経が少しづつ落ちてきたのことを自分の中で意識し始めた。私にとっては悲しい出来事であった。
。。。続く