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G


マルクスが論じる貨幣には、価値尺度(G=W)、流通手段(W-G-W)といった機能が備わる。
前者は価格を実現して、後者は販売と購買を創発して商品流通を円滑にする。
しかし、貨幣の機能はこれだけではない。「貨幣としての貨幣(G)の機能」がある。
今回は、この謎めいたGの機能や、Gの論理を確かめる。また、Gの論理が、やがて人間の欲望を変転して資本主義を加速することも確認する。なぜ、人々は貨幣を欲しがるのか?また貨幣があるとどうして安心するのか? その答えが、Gの究明にあると言えるだろう。
さっそく、Gの究明に急ごう。

まずは、商品変態を確認する。W-G、すなわち販売が行われたのちに、商品は短期であれ長期であれ、とにもかくにも、貨幣形態で一時期に休止する。そうして再び流通過程に入って、購買を通して任意の商品に転化していく。これが商品変態である。

しかし、販売の後に実現した価格である貨幣を、流通の外部に取り出して留めておくと、その貨幣は「蓄蔵貨幣」と呼ばれる形態に入る。
この蓄蔵貨幣は、商品の価値が自立して、モノの形態として現れるため「本来的な貨幣(G)」と呼ばれる。

くどいかもしれないが、貨幣が果たす機能には、商品が流通過程で現象する際の「価値尺度」「流通手段」がある。前者は「価格」、後者は「商品流通」に対応するけれども、現実では、商品世界で選ばれて貨幣となった同じ商品である「金」が両方の機能を果たしている。
そのため、価値尺度も、流通手段も、商品の運動に則して、同じ貨幣から2つに分解した機能にすぎないということは強調しておくべきだろう。
そして、この2つの機能のうち、一方だけの実現が求められるなら、貨幣である金はわざわざ顔を出す必要はない。たとえば、価値尺度の場合、常に貨幣は観念上の表象としてイメージされた金で表現される。流通手段の場合、国家紙幣やのように、ほとんど無価値な紙券によって象徴的に代理されることができる。どちらとも、実物の貨幣を、ここに持ち込む必要はない。
しかし、蓄蔵貨幣という形態にある貨幣は、観念上の金、象徴的な代理物では成り立たない。それは地金であろうと、鋳貨であろうとも、とにかく、どっちにしても「現物の貨幣」でなくてはならない。なぜなら、蓄蔵貨幣は「価値尺度」と「流通手段」の、どちらの機能も実現した貨幣商品であるからだ。このような価値尺度と流通手段が統合した貨幣という意味で、マルクスは「本来的な貨幣(G)」と呼んだ。

ところで、一般的にありふれた商品は、すべて限られた特定の使用価値しか持っていない。
販売が実現すると、商品は、その商品形態から脱皮して、貨幣という、その商品の価値の姿に転化されなくてはならない。(※貨幣とは等価形態にある商品であり、それは商品の価値を映す鏡であるためである。→価値形態論)
それは、価格において、実在の貨幣を表象しているけれど、対照的に現物の貨幣商品は、その量が許す範囲内で、商品世界に実在している全ての商品に転化することができる。
つまり、蓄蔵貨幣の独自な使用価値は、抽象的人間労働の物質化である価値のかたまり、つまり、モノの形態をとった価値として、ありとあらゆる使用価値に転化できる、ということである。
だから、それは、既にすべての使用価値を物質的な姿で代表している。
マルクスは、Gを「あらゆる使用価値を生み出す有用労働の総体」「抽象的人間労働の化身」「社会の富の物質的代表者」「一般的形態としての富」と位置付けている。

そのため、W-Gが終わったところで変態を中断して、流通過程から引き上げて、蓄蔵貨幣を形成することは「一般的形態としての富の形成」を意味する。

ここでマルクスは、資本に対する人間の無知識を前提にして、貨幣蓄蔵の形成について、こう述べる。

「貨幣運動によって自己増殖する資本を我々が知らぬ間、我々の手中で富を増大させる唯一無二の方法として、不断に繰り返し蓄蔵貨幣を積み上げていくことである」

資本論 (1) 岩波文庫

要するに、地道な貯蓄によって、貨幣蓄蔵は形成される。
実際に資本主義的生産様式が一般化する以前では商品と貨幣のあるところでは、つねに貨幣貯蔵が行われた。「できるだけ多くを売って、できるだけ買わないこと」= 節制、勤勉こそが、貨幣貯蔵者の精神である。(例としてウェーバーのプロ倫の中にある、プロテスタンティズムと資本の原資的蓄積の関係を見)
そして、これが「本来的な貨幣蓄蔵」である。

しかし、ここで貨幣について奇妙な事態が発生する。すなわち、人々が貨幣蓄蔵を形成していくうちに、貨幣自体に対する欲求、すなわち「黄金欲」が目覚める。

この黄金欲は、人間の欲望の存在様式を一変する。
あれが欲しい、これが欲しい、といった人間の具体的な欲望を満たす使用価値と異なって、ありとあらゆる商品に対する「直接的交換可能性」を持つ貨幣は、質的には無制限である。つまり、「あらゆる商品と交換可能」である。
だから、貨幣をどれだけ保有しようとも、決して困ることはない。こうして貨幣蓄蔵の形成を通じて、使用価値に対する欲望とは一線を画する、全く異質な欲望、すなわち「価値に対する際限のない欲望」=「黄金欲」が発生する。

「貨幣蓄蔵の衝動はその本性上無制限である。質的には、またその形態から見れば、貨幣は無制限である。すなわち、素材的な一般的な代表者である。貨幣はどんな商品にも直接に転換されうるからである。しかし、同時に、どの現物の貨幣額も、量的に制限されており、したがってまた、ただ効力を制限された購買手段でしかない。このような、量的な制限と質的な無制限との矛盾は、貨幣蓄蔵者を絶えず蓄積のシシュフォス労働へと追い返す。彼は、いくら新たな征服によって国土を広げても国境をなくすことのできない世界征服者のようなものである」

資本論 (1) 岩波文庫

かつて、前近代社会では、社会的交換力そのものである貨幣は、人間が私的に所有することで、私的な権力が発生させるため、貨幣は「道徳的秩序の破壊者」だった。
しかし、近代社会では、貨幣が、マルクスのいう「生活原理の光輝く化身」として扱われる。アメリカを見れば、金稼ぎは、美徳でさえある。大なり小なり、近代人は、この貨幣のロジックに支配されている。(なお、ここから発展して貨幣に繋がる社会的承認もまた欲望の対象になるだろう)

こうして貨幣所持者の人格は、まさに自分が「所有して」管理していると思っていた「貨幣」によって変えられてしまう。今や、貨幣所持者の人格は「貨幣」という物象に管理されている。ここでは資本主義の「物象化」の問題が発生しており、主体と客体は完全に転倒してしまっている。

黄金欲に目覚めた貨幣所持者は、資本主義的生産様式が支配的である社会において、貨幣を蓄蔵貨幣として貯め込まない。むしろ、自分の手元から手放し、資本として運動させることによって価値増殖させるようになる。つまり、資本の価値増殖運動の必要から、新しい形態の貨幣蓄蔵が行われる。具体的にはファンドの積立、資本の減価償却基金の積立が挙げられる。

まとめると、蓄蔵貨幣は本来的貨幣である。つまり、貨幣としての機能を有する貨幣(G)である。蓄蔵貨幣を生成すると、人間には、一般的形態としての富、つまり、あらゆる使用価値と交換できる社会的力である貨幣に対する無制限な欲求、黄金欲が覚醒する。私たちがお金に対する欲求に際限がないのは、貨幣に力が与えられているためである。黄金欲の覚醒は、貨幣の論理を人格に植え付けて、結果として人間は物象化してしまう。こうして資本主義は変容した上部構造を引き連れて本格的に加速する。
資本主義は人格を物象化して、物象を人格化することによって成り立つ特殊な社会システムなのである。

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