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パン屋日記 #15 あの時のお姉さんですか

業者さんが、なかなか帰りません。

納品が終わり、倉庫のカギを受け取り

受領のサインも、
とっくに書いてお渡ししています。

それでもまだ、物陰からじっと
こちらを見つめているのです。

「あの、すみません」

業者さんが口を開きました。

「あの時のお姉さんですか。
 あの、お金を貸してくれた」

(あっ)

「あの時の……」

わたしは尋ね返しました。

「車から閉め出されたお兄さんですか?」

たしかこのお兄さんは、
去年の11月

パン屋へ納品に来た時に、
車のカギとお財布を
社用車に閉じ込めてしまい

店頭にいたわたしに、
カネを借りに来た業者さんです。

寒空の下、吹きっさらしの駐車場で

「2時間後に来る」という
本社からの救援を、

文字通りうろうろしながら
待っているお兄さん。

弊社の休憩室の利用を勧めましたが
辞退され、

「あの、すみません、必ず返すんで……」

と、すまなそうに頼まれた流れで

カネを貸したのでした。

「あのとき僕が、
 千円貸してくださいって言ったら……」

業者のお兄さんは、物陰ではにかみました。

「お姉さん、
 何かあったらいけないからって
 2千円貸してくれたんスよ」

お兄さんは、
「僕の気が済むから」と言って

わたしと、
その場にいたパートのメイちゃんに
パンとお茶をおごってくれました。

お兄さんと入れ替わりで

今度は、50代くらいの
女性のお客さまが来られました。

お会計の際、弊社に昔からある

フランスパン生地を使った固いあんぱんと
「ダッチフランス」というパンの在庫をお尋ねになり、

それぞれ2個ずつ追加。

お客さまは、ジブリに出てくるお母さんのようにきれいな声で

「前に勧められたパンを買いに来ましたよ…
 …あなた、あの時のお姉さんですか?」

と言いました。

なるほど、
このパンを勧めたのは、
わたしではありません。

あの時、同じくその場にいた、
「クセが強い常連のお客さま」です。

あの日、クセが強い常連のお客さまはいつも通り

「ちょっとした通り雨」のように
勢いよく来店し、

「僕ぁね! このパンが一番好きなんよ! これを買いにね、もう10年来よるんよ!このあんぱんがね!もうホントに固いんよ! クーってなる! クー!」

と言って

そのとき同じ列に並んでいた、
こちらの女性のお客さまに絡んだのでした。

「でもね! スッゴクおいしいからね!
 よかったら食べてみて! ハイ!」

あらゆる身振りと
あらゆる手振りを駆使して
プレゼンを終え、

クセの強い常連のお客さまは、
やはり通り雨のように帰っていかれました。

「あの時お姉さんが、すみません、大丈夫でしたかって。おじさんに渡されたパン、無理に買わなくていいですよ、って声かけてくれて。

でもね、おいしかったから、また来ましたよ。おじさん悪者にしちゃいけんけぇね」


お客さまはくすくす笑いながら
あの時のオススメを2個ずつ購入し、
「ちょっとした世間話」を始めました。

お客さまは、ピアノ教室を運営していること。

お教室には、小さい子どもから大学生、
仕事帰りの会社員まで
幅広い年代の生徒が通っていること。

コロナ禍でのピアノ教室は、
楽器の特性上とても難しく

ご自身の年齢も鑑みて、
もうおしまいにしようかと思ったのだけど

一念発起して、
指先の皮が無くなるほど
毎回の消毒を徹底し

これからも身体がもつ限り、
やっていこうと決めたこと。

そんなことを話してくださいました。

わたしは、

「何かをやめようかと思ったんだけど、
 やめなかった人」

のことが大好きです。

お客さまのことを
ささやかに応援し続けられるよう

もう少しの間、
ここにも立っていようと
思ったのでした。

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