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東京日記〜新人研修

初出社の前に髪を切った。

「青山の美容室で髪を切る」という経験をしてみたいが、今はその時ではない。安くて近いところがいい。

最寄りのスーパーを探した時に見かけた、
適当な美容室に決めた。


担当してくれたのは元ヤン風のお兄さんだった。

年齢的には40代後半あたりだろうが、
元ヤンなのでどうしても
「お兄さん」っぽさがある。

東京生まれ・東京育ちのお兄さんは、
私の髪をゆっくり切りながら
東京のイロハを教えてくれた。

まず、「東京にきたばかりなんです」
これを言わないこと。

見知らぬ人…例えば、居酒屋で隣り合った人などに、

上京したてであることを明かしてはならないらしい。

「東京に来て10年くらい、
 ってことにしましょう」

と、お兄さんは言った。

「方言は、なかなか抜けないとでも
 言っておきましょう」

どうと私の発音は、
標準語とは明確に異なるらしい。
自覚はなかった。ヒヤッとした。

お兄さんの教えはまだある。
カバンを持つ時は必ず、
視界に入る場所に構えること。

「それは、ひったくり系への備えですか?
 それともこっそり盗る系?」

と尋ねると、

「こっそり系の方っスね」

と教えてくれた。

のちに「アメヤ横丁」という場所を
歩いてみてわかったが、
東京には、明確に治安の悪い場所がある。

なんというか、
ここが日本だということが
にわかには信じがたいような、
怪しく、荒々しいエリアがあるのだ。

アメヤ横丁というのは、
地元の人が年末にこぞってマグロを買う、
昔ながらの商店街ではなかったのか?

私の目の前に広がっていたのは、
財布をすられたとしても、
偽物をつかまされたとしても、
何の疑問もわかないような殺伐とした風景だった。

私はハンドバッグをぎゅっと脇に挟み、
誰とも目を合わせず
早足で通りを駆け抜けた。

ほかにもお兄さんは、

ひと口に都会といっても、
私が住む地域は「村意識」が強く、
余所者には敵対的で、
身内には好意的であること。

「埼京線」と「山手線」には痴漢が多いので
壁を背にして立つことなど、
いろいろなことを教えてくれた。

お兄さんは、元ヤンで、ゴシップ好きで、
正直あまり「いい人」には見えなかったが、

この人があけすけに教えてくれた
東京のイロハは、
日常の様々な場面でなかなか役に立った。

髪を長くも短くもない適当な長さに切り揃え、
無事に入社の日を迎えた。


入社してから2週間は、
毎日「研修」が行われた。

代わる代わるいろんな先輩社員が
講師として現れ、

組織のつくりや事業内容、
どのチームがどんな仕事をしているか
などについての講義をしてくれた。

話して聞かせるだけでなく、
ロールプレイングを企画する先輩もいた。
課題の内容は「売上データの分析」だった。

売上データを分析するためには、
「ブイルックアップ」
というエクセル関数が必要らしい。

私は今日の今日まで、

「ブイルックアップ」の存在を知らぬまま、

のうのうと生きてきてしまった。

聞いたことさえない。
名前から中身を想像することもできない。

ブイルックアップって、なんなんだ。

先輩社員の判断は早かった。

私と他の受講者をいち早く切り分け、
受講者がブイルックアップを使って
「すぐ終わっちゃうかもしれない」課題
に取り組む中、

私の方にはマンツーマンで、
ブイルックアップそのものの授業が
開講された。

この判断力にすぐれた先輩社員は、
去年新卒で入社したという男性社員だった。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

こちらは10年近く
余分に生きてきたというのに、申し訳ない。
ブイルックアップを知らなくって、
申し訳ない。


研修では社外へ出ることもあった。
特に楽しかったのは古書の見学だ。

古書といっても、
去年発売された小説の古本、
というわけではない。

今から200〜500年くらい前の、
活版印刷が始まって間もない頃からの
本を見せてもらう。

講師は、
入社以来35年以上の長きにわたって
古書部門を担当している伝説の社員。

貫禄があり、最後には
裏から魔法書が出てくるのではないかと
ドキドキした。
ドラマティックで興味深い話をたくさん聞いた。

古書は一つひとつ、とても美しかった。

印刷の手間は計り知れないが、
図柄や活字の仕上がりについては、
現代の本とまったく遜色がない。

表紙はそれぞれ、羊の皮や上等な布で
丈夫に造られている。

金を使った豪奢なあしらいの本もある。

工夫をこらした豆本も見た。
世界一大きな本も見た。


最終日には、
営業部の男性社員・Aさんによる研修があった。

私はAさんが苦手だ。
身長が2メートルくらいある。

また、話し合いの時の物言いがきつく、
激情型だ。

会議の時、はたで聞いていると、
会議なのかケンカなのかわからなくて
不安になる。

東京出身の人の中でも、
生粋の江戸っ子のような地域で育った人と
そうでない人の間には、
多少のギャップがあるらしい。

『そういう人と対峙する時は、
 東京育ちの僕でもうわ、怖いな、
 と思うことがあるよ』

と別の上司が言っていた。

Aさんのご出身は不明だが、

今にも「てやんでぇ」とか、
「しゃらくせぇ」とか、

そういうことを言いそうなタイプではある。

てやんでぇは今日、
会社で取り扱っているサービスについて、
われわれ(新入社員)をお客様に見たてて
講義をしてくれるらしい。

「はい、それでは始めます」

そう言った瞬間から、
てやんでぇの声色が変わった。

なんて聞きやすく、
わかりやすく、
気軽で

それでいて信頼感のある
声色なんだろう。

てやんでぇは、
完全に「お客様向けモード」に
スイッチを切り替えていた。
なるほど、これがプロの営業さんか。

てやんでぇの資料は大変わかりやすかった。

単にサービスの仕様やおすすめポイントを
述べるだけでなく、

国の方針や世論の変化、
ユーザー・非ユーザーの声など
情報を多面的に積み上げ、

サービスの今と未来を
客観的に明らかにした。

てやんでぇは最後に、

「あと、このスライドのタイトルは、
『想い』と『重い』をかけて
 うまく言おうとしたんですけど、
 なかなか良いオチがつかなくて…」

と言い、ポッと赤くなった。

「みなさん、何か良いオチを思いついたら
 教えてください。それでは以上です。
 ありがとうございました」

私は、わかりやすく、
素晴らしい講義だと感じたので、
感想タイムでその旨を詳しく伝えた。

てやんでぇは、またポッと赤くなった。

「うわ、ありがとうございます!
 あのー、そんなふうに言ってもらえて、
 内容もしっかり伝わって
 とてもうれしいです」

と伏目がちに言った。

のちに気づいたことだが、
てやんでぇはよく「うれしい」を使う。

うれしい時、はっきりと「うれしい!」と
言葉にする人だ。

仕事が取れて、うれしい。
お客さんが喜んで、うれしい。
大きな売上が上がって、うれしい。

この人は乱暴なのではなく、
プラスの方にもマイナスの方にも、
心が派手に動く人なのだとわかった。


美容室のお兄さんにはじまり、
いろんな人からいろんなことを吸収した

東京新人研修なのでした。

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