安寧に飢え続ける獣
畑で採れた人参を齧りながら、昼食に食べたバーベキューチキンを温める。
数日前からシャッターを開けっ放しにしたままのアトリエの窓は夕暮れというにはロマンティズムに欠けるが日没に向かう風景が見えている。
とある日曜日の夕方。
私は自分の心の事について、また一つ手記を残す事にした。
壊れた心に映る「日常」の姿について。
何も、自分の精神状態が悪い事について、同情を誘おうという訳でも、暗い話の持つ甘く重苦しい空気感を出したい訳でもない。
寧ろ、「実用的な闘病記録」として、今、私の中で起こっている事を明文化しておきたい。
人体の器官の一つである心が壊れる事によって、「幸せの消化」ですら困難になり得る今の状況を、そして、消化不良を起こしながら飢え続ける滑稽さについて、書いておきたいと思う。
安寧に飢え続ける獣
壊れた心は不安でいっぱいだ。
常に恐怖や悲しみ、失望と絶望が混在する矛盾的精神状態であったりするが、実際、面倒事が起こるのは二種類のパターンがあると思っている。
一つ目はマイナスの感情が湧き出てくる、つまり「心が苦しみの原因」と直結しているパターン。
もう一つは「心がするべき処理」が為されないパターン。
例えば、満足、安心、感動、感謝などの何かに対する対応としての出力が為されないのである。
「心が壊れる」「壊れている心」という表現は何かのメタファーでも抽象的表現でもない。
心はある種の外的内的両面の処理を自動化してくれる体内のネットワークだと思っている。
壊れてから実感するのは異常な量の思考停止、戸惑い、不自然な単一的な反応である。
健常者はイメージするような猟奇殺人鬼や小児愛変質者のようになる事ではなく、物事に対する反応が明らかに悪くなるのだ。
人から心だけを取り出して観察する事が出来ないのは、それが全身に渡るネットワークだと思う。循環系やリンパ網のように全体に広がり機能しているネットワークで、破損すると全体の連携不良を起こす。
心の病だからと言って、心が壊れていると言い切れるかといえば、そうでもない。
寧ろ、心の崩壊を防ぐ為に症状を引き出し利用している場合もある。
これは過去の良書(人は何故神経症になるのか:アルフレッドアドラー著など)を確認してもらえれば済むので、割愛する。
もちろん、心への負荷が精神病を引き起こし、その症状が原因で心が壊れる場合もある。
ここらの事象についても、本文では重要ではないので割愛する。
どんな場合であれ、心が損傷、機能不全に陥った場合について考えていきたい。
私の実感を踏まえて、心の破損が私達を「安寧に飢え続ける獣」にする事について考えていきたい。
私の生活
私は以前の生活を捨てた。
以前の生活が原因で私は心に不調をきたし、それでも、その生活を守り続け、継続した結果、心が破損した。
私は以前の生活から極限まで遠ざかるべく、最近は、その試行錯誤をしながらも、極限、のんびりと、ゆっくりと暮らそうと心掛けている。
美味しい珈琲を飲み、食事を楽しむ。
生活環境を綺麗に整えて、猫の世話を楽しむ。
大切な仲間と大切なもの。それ以外のものを極限まで遠ざけながら、仲間と共に生きる為の仕組み作りに、ゆっくりと、のんびりと取り組んで過ごしている。
上手くいかない事も多い。
突然訪れる莫大な不安感や悲しさ、虚しさに包まれて、何も手につかなくなる事もある。
また外部の刺激に神経が異常反応を起こして、身体症状を伴って病的な反応をする事もある。
とは言え、上手くいく事もある。
少しずつシステムが構築されたり、自分のスキルアップや考え方がまとまったり、欲しいモノが手に入ったり。
問題は、そんな時、感じるべき、安心感、達成感、満足感を追い越して、今が満たされるならば、未来の不安感や絶望感が私を襲ってくる。
過去を処理しても、現在が、現在を処理しても未来が、未来に取り組めても過去が、常に私の心に次から次へと不安を送り込んでくる。
だから、私は「安寧に飢え続ける獣」なのだと思う。
何度も安心するべき事があったのに、その度に心の中から不安が染み出してくる。
頼りにならない心
本当は自分にとって、嬉しい出来事が起こった時にも、不安が湧き上がってくる。
心が邪魔をして、楽しい事に不純物が混ざってくる。
心が壊れていると、こういった問題は多々起こる。
正直、世間には壊れた心を抱えたまま、歩き続けて、その中には走り続けている人さえいる。
考える事にはノイズが入るが、それでも考える事が出来ない訳ではないから、動く事も辛いけど、物理的には動けない訳ではないから、戦い続けてしまう人も沢山いる。
ただ、自らに備わっていた機能の一つが失われていて、それは外からは見えないけれど、とても不便で人生の難易度を上げる障害になる。
私は今でも、自分が戦い続けていた頃のフラッシュバックに悩まされるし、今、戦い続けている人達の苦悩を思わずにはいられない。
心は治るのか
私は心を一つの機能として考える。
全身にまたがる生体ネットワークとしての機能としての心を考える。
まるで言語化されていないが、大切な感覚器官の一つが破壊されているような状態だと仮定する。
それは盲目か、聴覚や味覚、嗅覚の障害か、そのような形に類する一つの障害だと思っている。
心の破損は鬱病とは違っている気がする。
鬱症状が回復しても、心の機能は戻ってこない。
私自身が今現在、断続的な鬱病からの回復の途上であるが、心の機能が復調する兆しはまだ見えていない。
心は回復するのか。
これは今の私にとって重要な疑問であるのと同時に、出口の見えない挑戦でもある。
安寧に飢え続ける獣〜末文
アトリエのシャッターを閉めて、珈琲メーカーのスイッチを押す。
やや散らかったアトリエとダイニングは明日以降に少しずつ片付けていけばいい。
未完了の家事が散乱し、デバイスの中には今週頭には編集処理を完了させたい写真データが溜まっている。
珈琲を啜る。
午後6時半。
本来であれば、カフェインは禁断の時間帯だが自分を甘やかす。
将来に不安が募るのは、今日の恐怖に脅かされていないからだと自分に言い聞かせる。
今日の不安が広がりつづければ、未来になど目が行かない筈である。
落ち着いた夜の時間を
未来への不安と共に過ごしながら
また明日を生きる決意だけ
しっかりと固めていく。
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