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子どもの名前決まらない問題『名前の哲学』

やあ、僕だよ。
妊娠前は、「出産で唯一の楽しみは命名なんだろうな」なんて呑気なことを思っていた僕だけれど、楽しみなんてとうに過ぎ去り、苦悩の日々を送っている。

取り返しのつかない(あるいは取り返すのに手間のかかる)難しい問題にぶち当たった時、僕は今までどうしてきたか。

そう、現実逃避である。

夫から借りた本か何かに「思考を進めるには一度そこから離れる必要がある。鍋ばかり気にする人は美味しいシチューを作れない」みたいなことが書いてあって、以来、僕は煮詰まった時の体のいい言い訳にしているんだ。

そこで、今回の一冊。
命名本を見過ぎた僕は、ともするとライトな気配のする題名に惹かれ、手に取ってしまった。

結局、現実逃避は叶わなかったのだけれど、これはこれでヒントを得た気がしたから、いいんじゃないかな。

さあ、始めようか。
今日も楽しんでくれると嬉しいよ。

本作あらすじと感想

そもそも、だ。
なぜ僕は「講談社選書メチエ」と書かれているのに、息抜きに読めそうと判断したのか、甚だ疑問である。
(講談社選書メチエは「あらゆる探求」がテーマに入っているお堅めの人文レーベルである。)

映画やアニメはサムネイルやパッケージが重要だが、書籍の場合はより題名に重きを置く。
つまり、その時の僕の精神状態では『名前の哲学』っていうのが、語源系雑学をエッセイ風味に書いた本っぽく感じたのだ。

実際の内容は、古代ギリシャ哲学からヴィトゲンシュタイン、ローゼンツヴァイク、ベンヤミンなど多くの哲学者が「名前」についてあらゆる思索をした成果を著者が取り上げて解説していく本だった。

偏見と推測が過ぎるけど、多分これ、この著者の授業で買わされる教科書本なんじゃないかな。
それくらい、引用と解説が非常に多い。科目名は「西洋哲学概論」とかどうだろう。

僕は大学を辞めているから、シラバスとか履修登録とか未だに蕁麻疹が出るほどトラウマなんだよね。でも、教科書本だけはわりと好きで読んでたりする。

この本も面白かった。
教科書的だから専門用語はたくさん出てくるし、これが初めての哲学系書籍だったら面白さは半減してたと思う。
前に、ショーペンハウアーさんやタレブさんのゴリゴリ近現代「実践哲学」に触れていたから、「理論哲学」が出てきても尻込みせずに済んだのだ。

そして、現代日本人の書いた本ってやっぱり凄まじく読みやすい。『変な家』ほどではないけれど、一気に読めてしまった。
これはどういう現象なんだろう。内容が薄いわけじゃないのに。 

人の「名前」は「他者」が存在していないと作られないっていう原則を改めて思わせる一冊。
色んな哲学者のエッセンスに触れたい人、めっちゃアカデミックな気分になりたい人におすすめだよ。

おい、予定日まで2ヶ月切ったぞ

「どうしてくれる」と居丈高、傲慢、短気で心配性の僕Aが喚き散らす。
社会生活や思考のほとんどを担う穏やかめの僕Cが「そんなに焦っても物事は進んでくれないよ、気長に待つしかないさ。思考はシチューだもの」と僕Aを宥めた。

刹那的で快楽主義者な僕Bは、美味しいご飯と夫とお手軽エンタメのことを考えながら欠伸をし、希死念慮とあらゆる痛みを背負い込んだ僕Dは僕Bに抱きつきながら死にたいと呟いていて、目下の重大問題に取り組むのは僕Aと僕Cだけである。

赤ん坊のカントの名前に意味はない

こうして、カントという「名前」は、それがひとたび特定の〈いま〉と〈ここ〉において設定されると、ただちに独自の成長を遂げはじめる。その意味内容は、カントが一七二四年から一八〇四年までの八〇年間にこの世でじっさいにおこなったことさえも超えて、過去と未来へどこまでも広がっていく。

その本曰く、「命名」したその瞬間は、その「名前」に意味などほぼなく(その赤ん坊は「なにものでもない」からだ)、後付けで意味が加わるということらしい。

であれば、脳内僕ACが額を突き合わせて苦悩しながら考えてる、この問題はさして重大でなかったとも言える。
強いて言うなら、なるべく純粋な「命名」であればよいということだ。「なにものでもない」、つまり「なにものにでもなれる」存在を邪魔しないようにするのが好ましい。

そして、字面や呼ばれ方でバイアスのかかりづらい、欲を言えば口に出して気持ちのよい「名前」であるとよいだろう。

苗字がなーあんまりなー

僕は、自分の「名前」がかなり気に入っている。
漢字じゃないから、名前を間違われることも聞き返されることもないし、ずらっと並ぶフルネームの中でも目につきやすい。
しかもシンプルで呼びやすく、可愛い。

それがこと「苗字」となると、あまり使い勝手の良くない思いをしてきた。
簡単な漢字なのに、読み方が色々あるせいで大抵間違って読まれる(しかも簡単だから自信満々で呼ばれるので相手に指摘しづらい)し、正確に発音しづらい音なので名乗る度に少し緊張する。

ちなみに夫の「苗字」も同じ感じで、だからこそ籍を入れる時に「どっちも嫌じゃね?」と、架空の「苗字」を考えて変に盛り上がった思い出がある(なんなら今でも盛り上がる)。
また、環境によっては「名前」より「苗字」の方が利用率が高いので、どんなに良い「名前」を付けようが呼ばれないことも多い。

では誰が「名前」を呼ぶのか

それは「苗字」が一緒の人間、あるいは「苗字」が一緒の人間とその人を区別する必要がある人間だ。
家族並にごく親しい人間、友だちや恋人や生涯の師、認めてくれる同僚、上司などがそれに当たる。

有り体に言えば、「名前」がフォーカスされるのは内輪でのやり取りがほとんどなのだ。
気の置けない関係性において頻繁に使われるのが「名前」であり、それは親愛を込めて呼ぶ時に使われるものなのである。

そして誰が「名前」を見るのか

内輪で呼ぶだけなら何を付けたっていい気がするが、厄介なのはフルネームの存在である。
公的書類には大抵記名があり、これを読む人が存在する限り、それこそ「バイアス」がかかる可能性が出てくる。

ただでさえ、「苗字」があれなので「名前」で挽回したい。
とはいえ、「苗字」も字面は、、、簡単で見やすいため、そこまで神経質になる必要はないと思うが。見た目が良いことに越したことはない、労力やコストに見合う程度には。
ここでの労力やコストを支払うのは僕ら親なのだから、まあ、支払ってやることにしよう。

息子をなんて呼びたいかな

世の中には胎児ネームなるものがあるそうで、妊娠初期は「胎動を感じたら付けてみちゃおっかな」なんてキラキラ妊婦に憧れたものだが、未だ話しかけるのも躊躇するコミュ障の僕にはどだい無理な話であった。
(彼は僕の独り言と夫婦の下世話な会話と部屋カラオケを胎教代わりとしている、可哀想に。)

前回作ったリストはほとんど更新されていない。
これだけ考えても新しい名前が出てこないのだ、彼の名前はこのリストを削っていって決めるのが妥当だと僕も思っている。

なお、夫は非協力的である。
彼曰く「考えるのはお前の仕事だ」とのことだ。ずるい男。これで将来「こんな名前つけやがって」の矛先は僕に向かうじゃないか。

でもね、僕はね、夫が4月からちょこっと昇進するのも、資格を取るために学校通い始めたのも、何だかんだ夫自身が自発的に動いたのが理由だって知ってるしね。
「命名」くらい、僕が責任取ってやるか。

(そして僕A、最初のセリフへ戻る。)



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