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批評理論入門とスーパー戦隊シリーズの評価のあり方についての変化

久々に非常に優れた良書だと感じた一冊なので是非評論・批評など文芸に携わる方々にはご覧いただきたい。
しかし、これだけ優れた批評の理論書がありながら、何故日本には一部の天才を除いて真っ当な評論家・批評家が少ないのだろうなあと疑問に思っていたのだが、その理由が明らかにされたとも思う。
本書によれば、現在理論化されている文芸批評には具体的に13種類あるとのことだが、その中で現在の主流になっているのは伝統的批評・ジャンル批評・精神分析批評・文化批評辺りであろうか。
特にスーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズ、ウルトラシリーズのようなヒーロー作品は精神分析批評の神話批評辺りがメインになっているわけだが、逆にいえばそれ以外の批評・評論がなされていないということでもある。

そう思っていた折、ちょうど昨晩に面白いコメントが2年半前に書いた『星獣戦隊ギンガマン』の評価記事に対して寄せられていたので、ちょっとここで取り上げてみる。

あなたが絶賛する『ギンガマン』ですが、あなたが他の作品に向けているぐらいに酷評される要素は、敢えてそればかり取り上げるならいろいろ指摘できますね。
散々突っ込まれている点として「4軍団の強さの格差」があります。後に登場する軍団ほど、強化戦力を手に入れたギンガマンでも苦戦している以上誰の目にも明らかです。「最初からバットバス軍団を出撃させていればギンガマンは終わっていた」ともよく言われます。換言すればギンガマンは「バルバンが弱い奴から順々に出してくれたおかげで勝利できた、運の良さに助けられた戦隊」ということで、これはギンガマンのヒーロー性に関しては決定的な瑕疵です。
こういう場合は、後に出撃する軍団が「ずっと強化策を練っていた」とか「強化エネルギーやアイテムを手に入れて戦力を底上げした」といった設定が盛り込まれていれば「元々ほぼ同じ強さだったが、後天的に差が生じた」のも納得できます。ですが本作ではそんなパワーバランス調整の努力がろくに図られず、「軍団格差」の問題はほぼ放置されていました。
これは、『ギンガマン』のストーリー構造上の問題が現れた一端に過ぎないのです。まずはこの辺で。

まあこの後私は反論した上で「そんな陳腐な物差しでしか測れない奴に「ギンガマン」という作品の良さはわからない」みたいなことを言って早々に議論を打ち切った訳だが、こんなコメントを寄せてくる時点で狙いは明らかである。
要するに「お前が絶賛している作品だってこういう欠点があるんだからそれを認めろ」と言って認めさせようと必死になって理屈をこねくり回して私の「ギンガマン」に対する熱や思い入れを下げさせよう・曇らせようとしたのであろう。

アホか、今更こんな程度で俺の「ギンガマン」という作品に対する熱が下がるとでも思ってんのか?

リアルタイムから四半世紀以上もずっと本作のファンで居続けた、なんだったら今後も一生死ぬまでファンで居続けるであろう本作をもう何百回・何千回と言わんレベルで穴が開くほど見てきた本作をその程度の指摘で嫌いになるわけがなかろう
それに、このコメントを寄せた方はさも得意げに自分が発見した「ギンガマン」の欠点・弱点と呼べる部分を指摘して悦に浸っているつもりであろうが、この評論・批評の大元がどこから来ているのか?に関しても裏は取れている。
十中八九どころかほぼ十割「九拾八式工房」の「習慣鷹羽のスーパー戦隊の秘密基地」にある「星獣戦隊ギンガマン」の「傾向と対策」で述べられているこちらの部分の受け売りだろう。

だが、根本的な疑問もまた生じてしまうのだ。
4軍団は、そんなに力の差が大きかったのか?
(中略)
 『ギンガマン』の失敗は、最初からいる4人の幹部を1人ずつ投入しているのに、強さに明確な差を持たせすぎたということなのだ。

もう少しこの部分に対して真っ向からの反論をしてみよう。
要するに鷹羽が長々と述べていることを要約したのが昨日のコメントになるわけだが、そもそもこの論理自体が既に破綻しているどころか「詭弁」にすらなっているのを皆様はお気付きであろうか?
鷹羽をはじめとしてこの意見に賛同する者の主張をまとめると「最初から4軍団いるのになぜ力の格差があるのか?」「格差があるのなら劇中でそれっぽい設定・理屈をつけろ」「現代ギンガマンは総合的に先代ギンガマンより弱い」というこの3点だ。

確かに「物語上の論理的整合性」としても「視覚的な説得力」としても「最初から4軍団いるのになぜ力の格差があるのか?」「格差があるのなら劇中でそれっぽい設定・理屈をつけろ」はご尤もな指摘である。
もちろん「まあ言われてみればそうか」レベルの瑣末なことでしかないことが大前提ではあるのだが、確かに4軍団が力の差があるのはもう少しそれらしい仕掛けがあればなお良かったとは言えるだろう。
そのことを髙寺成紀と小林靖子をはじめとする作り手がわかっていなかったなんてことは思えないし(親友の黒羽翔さん曰く「受け手が思いつくレベルのツッコミなんて作り手は想定内」とのこと)、劇中のこととしては上手く回避している。
ゼイハブの態度・接し方に現れているが、明らかにバットバスとそれ以外の幹部たちに対する扱いの差がそれぞれの評価・信頼の差となっていて、ゼイハブとしては貴重な最有力の戦力はなるべく温存しておきたい所存であろう。

「さっさと強い奴らを前面に出せばいいのに」というのは明らかに下っ端のレイヤー(層)しか経験したことがない人の身勝手な言い分でしかなく、人をまとめる上のレイヤーに立たなければ分からないことだ。
経営者の判断として敵と戦う上で最初から強いのを前面に出したとして、それで本当に敵を100%葬って完全勝利を手にできる保証がないし、何よりも一番大事な魔獣ダイタニクスが復活していないのである。
肝心要のキャピタルゲインが手元になく封じられているという状況の中で徒に戦力を消耗などして大失敗してみろ、それこそ視聴者からは「ゼイハブは経営者として無能」というレッテルを貼られ非難轟々であろう
現実の会社経営でも「リスクヘッジ(リスクを予測して、リスクに対応できるよう備えること)」が今では特に重要な考えとされている以上、迂闊な手段には出られないというのがあるわけだ。

ましてやゼイハブは第一章でヒュウガを地の底に沈めた結果としてリョウマの中の強大な炎のアースを覚醒させてしまい、たった一人で幹部たちを圧倒され、その上炎のたてがみと炎一閃で退却を余儀なくされている。
だからこの時点で「先代よりも戦闘力で劣っているからなんて甘く見ていたら痛い目に遭った」という教訓を糧に、ゼイハブがダイタニクス復活までの道のりを試行錯誤した結果としてあの流れになったことが考えられるだろう。
そこまで想定した上でなおさらその意見が出るのであれば納得できるが、おそらく鷹羽や鷹羽の論調に賛同している者たちはそこまでろくすっぽ考えもせずに安易にその場の感情で意見を出した可能性がある

次に「現代ギンガマンは総合的に先代ギンガマンより弱い」関だが、このことは第一章でゼイハブの口から「お前たちの先祖はもっと手強かった」と口にされているから、実際に初代ギンガマンの方が上だったのだろう。
問題はそれを理由に「『ギンガマン』の失敗は、最初からいる4人の幹部を1人ずつ投入しているのに、強さに明確な差を持たせすぎたということ」と、さも客観的事実かのごとくこの1クール1軍団というn部構成が失敗だったという論調にすり替えていることだ
これは明らかな「論点のすり替え」「論理の飛躍」というやつであり、尤もらしく作品としての欠点・弱点を突いたようでいて、実は全くそうではないことが明らかである。

特に「装備の点でこれだけ差があるのに、先代のギンガマンはバルバンと互角以上に戦い続け、ゼイハブに瀕死の重傷を負わせたり、ダイタニクスごと全魔人を一網打尽に封印したりしているのだから、先代はよほどの実力者揃いで、ギンガの森の民も含めて戦い方が巧かったということになる」はどこをどうすればそんな結論に行き着くのか?という話である。
そもそも「ゼイハブに瀕死の重傷を負わせた」とあるが、瀕死の重傷を負わせたのはあくまで星獣であって初代ギンガマンではないことがゼイハブ自身の肉声として言われているのだが、鷹羽はその事実を認識していないのであろうか?
さらにこれは「ジュウレンジャー」「カクレンジャー」「ゲキレンジャー」「シンケンジャー」を見れば明らかであるが、「封印」という手段は「殲滅させる(倒す)」よりも難易度は高くない
要するに封印の術に成功してしまえばいいわけであって、倒すのに比べればそこまで労力はかからないが、結局のところ「封印」はスーパー戦隊シリーズにおいては「問題解決の先延ばし」にしかならないのである。

だから、見方を変えれば「初代ギンガマンは現代ギンガマンに自分たちが解決しきれなかった問題を押し付けた」という反論も可能なわけだが、それに対して鷹羽はどう答えるつもりなのであろうか?
何より初代ギンガマンが具体的にどのような戦い方で宇宙海賊バルバンを封印したのかが過去回想のような形で映像として明示されていない以上、鷹羽の述べてる主張は単なる憶測に基づく主観の域を抜け出ない。
わかりやすく言えば「それってあなたの感想ですよね?」レベルの、思考の抽象度が低いことをさも客観的事実であるかのように捏造して述べているわけであり、そこに確固たる根拠がない。
映像作品はあくまで描写されているものが全てなのだから、描写されていないものを勝手にあれこれ推測して述べるのは単なる詭弁でしかないわけであり、だから私は昨日のコメントで「牽強付会」と書いたのだ。

更にこの後に鷹羽は最終章「明日の伝説」でアースを無くしたはずのヒュウガが炎のアースを何故か取り戻したことに関しても「安っぽい奇跡」「ご都合主義」として批判していた。

鷹羽は、『ギンガマン』をかなり気に入っており、年間の構成やキャラ立ち、物語のボルテージなど大好きな面が多いのだが、1つだけどうにも許せないことがある。
それは、“最後にヒュウガにアースが戻り、アースによってゼイハブの星の命を破壊した”ことだ。
(中略)
気に入っていた作品だけに、この一点で画竜点睛を欠いてしまったことが、どうにも許せない。

おそらく昨晩にコメントを寄せた方はこの人の評論・批評に影響を受け、というかそのまま鵜呑みにして私のところに延々と反論を展開して挫けさせようとしていたのが狙いであったことが伺える。
それ自体が悪いとは言わないが、反論するのであればもう少し「自分なりの意見」として咀嚼・吸収をした上で論を展開して欲しかったし、向こうの真意がどうあれ、文体的にも内容的にも私に対する敵愾心・悪意しか見えなかった
端から私とまともな議論のやり取りをする意思はなかった訳であり、そういう輩は相手にするだけ無駄なのでさっさとご退場願おうということでカウンターをお見舞いしてご退場願ったのである。
言葉を尽くすことによる相互理解の意思がない相手はただの敵であり、そんな人と争ったところでそこには破壊しか生まれず、なんらの生産的な議論は生まれず、時間とエネルギーの無駄遣いだ。

ただし、こんなコメントが寄せられたからこその気付きもまたあったのは事実であり、それはスーパー戦隊シリーズをはじめとする特撮ファン・オタクは結局のところ「物語の論理的整合性」のみで判断しているということだろう。
その意味では昨日のコメントを寄せた方も、そしてそのコメントの大元にある鷹羽飛鳥もまた「1つの物差しでしか作品を評価できない視野の狭い人」に他ならないことが明らかになったと言える。
鷹羽の評論・批評は私も平成仮面ライダーを含めて何度か拝読したが、最初の頃はそれなりに説得力があったものの、上記により本格的な「批評」を知ってからだともはや「古い」し「狭い」としか思えない
だから、その骨董品程度の価値しかなくなった人の批評をまるで経典か何かのように有り難がって鵜呑みにして私に噛み付いてる時点でまともな議論になんかなりっこないであろう。

確かに「ギンガマン」はいわゆる「物語の論理的整合性」だけで見れば必ずしも完璧な作品であったとは言い難いが、作品を見ている上ではそれが全く気にならない位の映像としての見せ方が上手いし「狡い」とすら思うのだ。
よく、「ギンガマン」は「物語が素晴らしい」と褒められることが多いのだが、昔であれば賛同していたであろう私でさえ最近は「そうか?」と疑問に感じるどころか「それは違う」とはっきり言えるようになって来ている。
何故ならば歴代のスーパー戦隊シリーズを含めて見ても単純に「物語が素晴らしい」というだけの作品ならば他にいくらでもあるし、実際ファンが代表作として挙げやすいのは本作以外の作品である。

例えば、髙寺成紀の代表作といえば間違いなく『仮面ライダークウガ』であり、小林靖子の代表作と言えば誰もが挙げるのは『未来戦隊タイムレンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』辺りだろう。
また、「ギンガマン」よりも物語が素晴らしい=意味内容(ドラマ)が濃厚であるということであれば『超獣戦隊ライブマン』『鳥人戦隊ジェットマン』も挙げられる。
それに子供人気という面で含めると『恐竜戦隊ジュウレンジャー』『百獣戦隊ガオレンジャー』『炎神戦隊ゴーオンジャー』『獣電戦隊キョウリュウジャー』辺りが挙がるだろう。
昔の私であればそれに対する異議申し立てをしていただろうが、作品に対する見方・感性・価値基準が一周回って大きく変化した今となってはその評価に対してはむしろその通りだと思っている。

『星獣戦隊ギンガマン』が間違ってもスーパー戦隊シリーズを代表するお手本のような作品ではないことは本作を迂闊に真似した『天装戦隊ゴセイジャー』『動物戦隊ジュウオウジャー』の失敗を見ればわかることだ。
じゃあ何がそんなに素晴らしくて私がリアルタイムから擁護しているのかというと「作品それ自体がもはや作家の手を離れて完全に一個の独立生命体のようになってしまった」ことにあるだろう。

私が見た中で「ギンガマン」に対する高評価の中でもストレートなものだが、面白いのは評価の中に一個も「髙寺成紀」「小林靖子」の名前が出てきていないということである。
これは即ち髙寺成紀の癖の強さと小林靖子の丁寧すぎるほどに丁寧な脚本、そしてそれを最適な形で映像化してくれている田崎竜太・辻野正人・長石多可男を中心とした演出陣の手腕の奇跡的な組み合わせが成功した証だろう。
この才能の掛け算が絶妙なバランスで噛み合うことにより誰か一人が主張し過ぎることなく噛み合い、それでいながら決して他のシリーズ作品では再現不可能という唯一無二の例外性までをも作品自体が獲得している
これが例えば『未来戦隊タイムレンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』だと明らかに脚本家・小林靖子の作家性が前面に出過ぎているし、『仮面ライダークウガ』も髙寺成紀の癖が露骨なまでに出てしまっていた

それこそ『超獣戦隊ライブマン』もそうであり、あれは完全に曽田博久の学生運動家としての作家性が前面に出過ぎていて、明らかに他を食ってしまっている癖の強さがある。
またそれは『激走戦隊カーレンジャー』もそうであり、やはり髙寺成紀の癖の強さと浦沢義雄の作家性の強さが今ひとつ噛み合わず、それが終盤の展開において露呈したようだ。
だからそういう作品群はA(名作)にはなり得たとしてもS(傑作)以上にはなり得ない、真に優れた作品はどれか1つが主張しすぎてはならず絶妙に噛み合ってないといけないからである。

では『恐竜戦隊ジュウレンジャー』『百獣戦隊ガオレンジャー』『炎神戦隊ゴーオンジャー』『獣電戦隊キョウリュウジャー』はどうかというと、やはり「話題作り」「数字稼ぎ」が目的化してしまうと作品としての足腰は弱くなってしまう
現に『百獣戦隊ガオレンジャー』なんかはその典型であり、平均視聴率が8.8%とニチアサ最高の視聴率を獲得し、玩具売上も含んだ人気面では相当なものを記録しているにも関わらず作品全体が持つ強度は極めて脆弱だ
そういう作品は目先の数字稼ぎには最適だしビジネスのあり方としては正しいのだが、やはり作品の個性ではなく商品としての話題作りありきで勝負しているために旬を過ぎ去ってしまうとまともに見れたものではない。
実は「ガオレンジャー」は物語上の論理的整合性による矛盾は少ないというかほとんどないのだが、新機軸として打ち出したビジュアルに対して作劇も含めた意味内容の部分の噛み合わせ方や演出も含めた「見せ方」が致命的なまでに下手くそなのだ。

多少なり構成や作劇の部分で辻褄が合わなかろうが瑕疵があろうが、違和感なく最適な映像作品としての見せ方さえできていればそれらの欠点は気にならないものであり、だから上記の批判は的外れということになりはしまいか?
これは何も強がりや印象論で言っているのではなく、実際に形式がしっかりしていれば意味内容なんて勝手についてくるものであり、逆に言えば形式がはっきりしないと意味内容に頼った勝負にしかならなくなってしまう。
そもそも「散々突っ込まれている点」と書かれてあるが、そんなところに散々突っ込んでいるのは鷹羽かその鷹羽の評論を読んだごく一部のノイジーなマイノリティーだけだろう。
そしてそういうノイジーなマイノリティーこそが「ジェットマン」を「戦うトレンディドラマ」、「カーレンジャー」を「狂気の浦沢ワールド」といった骨董品扱いする評価しかしてこなかったことも容易に想像がつく。

それは例えば『侍戦隊シンケンジャー』においても同じことであり、ネットを中心に見かける作品に対する評価は精々小林靖子脚本の作家性、具体的には終盤に見せる「影武者」にまつわる一連の流れである。
放送当時から現在まで「シンケンジャー」と言えば馬鹿の一つ覚えみたいに脚本家の作家性ばかりが語られており、その目につく特権化された部分以外の豊かな細部が語られることがまるでない
例えばシンケンマルという刀一本を中心にした殺陣や和風テイストでありながら、実は従来の時代劇とはまるで異なる主従関係のあり方、セット撮影や演出手法など色々と語れる部分は沢山あるはずだ。
しかし、それらは悉く無視されてその「影武者」ネタとそこに至るまでの伏線の数々といった「サスペンス」とでもいうべき部分の技巧だけがまるで唯一無二の絶対的個性であるかのように語られてきた

ということは、逆に言えば『侍戦隊シンケンジャー』は結局のところ脚本家・小林靖子の作家性という極めて狭いところに作品の魅力が全て還元・集約されてしまう貧相な作品ということになるが、それでいいのか?
しかも放送当時だけならともかくずっとこの論調から何も変わっていないのだから、換言すれば「シンケンジャー」という作品はとっくに賞味期限切れの「過去の名作」という証に他ならないであろう。
皮肉な話だ、作品を「豊かにする」ために、そしてその豊かな批評によって作品が広がっていく為の呼び水が批評の役割なのに、かえってそういう単一的な論調によって作品の見方を狭めてしまっているとは。
スーパー戦隊シリーズが膨大な作品数があって知名度も人気もそれなりにある割に評論・批評がそれに全く追いついていないという危機的状況をファンたちが楽観視し過ぎているのは気のせいか?

まあ何れにしても、2年半前に書いた時の評価なんて私にとってはそれこそ「過去の遺物」であって「現在」には大した価値を持たないものであり、それに噛み付いている様は何とも滑稽である。
もちろん私の中で『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『星獣戦隊ギンガマン』がスーパー戦隊の三大傑作であるという評価は今も昔もずっと変わることはない。
しかし、その評価基準というか作品から見て感じることや衝撃は毎回見直すたびに変わるわけであり、だからこの3作は決して「過去の名作」ではなく「現在にも生き続ける傑作」なのだ。

そういう折に非常に素晴らしい名著に出会えたことは僥倖である。

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