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サブカルチャーの評論・批評なんて所詮は自己満足の世界だ!他人の目や意見なんて気にせず自分の好きな作品を徹底的に擁護しろ!

どうも皆さん、朝はスーパー戦隊、昼は映画、夜は漫画・アニメという偏ったサブカルチャーを見ている男・ヒュウガです。
今回は改めて「私にとっての」サブカルチャー評論・批評とは何なのか?そしてなぜ今でも書き続けているのか?ということを、経験則を踏まえながら語っていきます。
何度か語ってきましたが、答えはサブタイに書いてある通りです。

サブカルチャーの評論・批評は自己満足だ!他人の目なんて気にせず好きな作品を徹底的に擁護しろ!

もうこれに尽きます、以前も述べてきましたが評論家・批評家なんて別に資格も権威も必要ありません、自分が好きな作品の魅力を語りたい・伝えたいと思ったその日からすでに評論家・批評家になり得ます
また、「これが絶対的に正しい」といった正論・正解のようなものがあるわけでもなく、見方や論じ方が変われば当然評論・批評の内容もその時代と共に変わっていくものです。
私もこういうことをしていると、時々「どうすればヒュウガさんのような批評が書けますか?」「評論・批評にセンスや文才は必要ですか?」といった質問が来ることもあります。
そこで今回は自分の経験も踏まえてこれから感想・評論・批評を書こう、その道へ進もうと思っている方、またやりたいけど自信がないという方に向けて、そして何より自分自身の戒めのために書いていきます。

評論・批評で大事なのは自分にとっての「これ!」と言えるこだわりの作品があるか否か


まず、評論・批評で大事なのは何度も言っていますが、自分にとっての「これ!」と言えるこだわりの作品があるか否か、これに尽きます。
もう本当に批評において一番大事なことは「好きな作品を擁護すること」であり、それさえあってその作品の魅力を伝えようとした日からあなたは批評家になれるのです。
基本的に作品なんてどう見たっていいに決まっているんですよ、私のような中二病精神丸出しの30後半過ぎのおっさんの個人的視点なんてわざわざ学ぶ必要はございません。
というのも、私が以前のブログやサイトで作品の感想・評価を書いていた時からよく読者に聞かれたのが「どうすればヒュウガさんのような批評が書けますか?」「評論・批評にセンスや文才は必要ですか?」だったんです。

これは結構よく聞かれるんですが、そういう方々に向けて改めて言っておきますが、私が作品の感想・批評を書くのはあくまで自己満足であって、自分がサブカルチャーを好きで擁護したい作品があるから書いています。
だから、私のような批評を書きたいなんて言われたところで「あっそ、勝手にすれば?」でおしまいですし、また私は別に自分が書いている文章が100%正しいという烏滸がましい人間でもありません。
私がよく引き合いに出している淀川長治や蓮實重彦だってあくまで出発点は自分が好きな映画を擁護するために言葉を尽くして魅力を伝えようとしているだけであって、そこに絶対の正解はないのですから。
具体例を挙げますと私の場合は『星獣戦隊ギンガマン』『機動武闘伝Gガンダム』『トイ・ストーリー』『イノセンス』『勇者エクスカイザー』辺りが徹底的に擁護したい作品です。

別にそれはどのジャンルのどんな作品でも大丈夫です、国籍・時代・人種・ジャンルを超えて色んな作品を見て自分に合う作品を見つけ、その作品との付き合いを徹底的に言語化してください。
たとえその結果批判や指摘が来たとしても、確信を持って発信できたのならばその評論・批評は間違いなく本物であり、見る人によってはそれが作品を見る呼び水になる場合もあります。
そういう出発点となる擁護したいこだわりの作品がないのに、私が書いている文章の文体や表面だけをなぞって模倣してもそれは単なるエピゴーネンでしかありません。
まず自分に合う作品を見つけて、その作品との付き合いを言葉にするところから徐々に視野を広げて論じていくようにすると自然にできていくでしょう。

既存の言説への違和感・反論があるなら批判や喧嘩も大いにやるべし


私自身の性格もあるので私はよくやっているのですが、先人が唱えている既存の言説や一般的な評価に対する違和感・反論があるなら批判や喧嘩も大いにしていいでしょう。
今はSNS大戦国時代ですから、ただでさえネット上で議論が加速しがちですが、それだけではなく「先人はこう言っているけれども、果たしてそれは本当なのだろうか?」と疑ってみることも大切です。
たとえば私であれば、試しにサクッと書いたのですが、こちらの『機動戦士ガンダム』(1979)に関する記事が正にそれです。

私はここで 「『機動戦士ガンダム』(1979)は本当にアニメ史上最大のエポックか?」と軽い疑問を呈しているわけですが、「ガンダム」「エヴァ」などはメディアによって評価が固定化されてしまっています。
そういう作品はブームの熱量が凄かったが故に「エポック」といった言葉で評価されがちですが、その言説はあくまでも過去にそういうヒットがあった為にできたパブリックイメージではないでしょうか?

そういう固定化された言説は作品の特権化=骨董品扱いを生み出し、見方や評価の幅を狭めてしまうことになり、それは決して作品にとっても作り手にとっても受け手にとってもいいものではありません。
どんな見方をしてどんな評価をしてもいいはずなのに、一々「この作品はエポックだから」という先入観を植え付けられると、そのイメージに引っ張られた見方しかできなくなってしまうのです。
「ガンダムはリアリティがあって心理描写が繊細で卓越しており、戦争と向き合っている」と語られがちですが、それは1つの視点にすぎず本来はもっと違う見方ができてもおかしくはありません。
正にこれこそが本来の「クリティーク(批評)」の意義なのですが、実はディベートの議論のあり方としてAD(アドバンテージ)、DA(ディスアドバンテージ)以外にもKritik(クリティーク)という種類の議論があります。

これは従来のディベートとは異なる、論題・相手の議論の前提・価値観に対する批判を展開する特殊なもので、肯定側も否定側も使うことができるものであり、私も学生時代にこの種の議論を使ったことがあるのです。
これをサブカルチャーの評論・批評に応用すると上記の「ガンダム」の言説である「『機動戦士ガンダム』(1979)は本当にアニメ史上最大のエポックか?」という批判的言説につなげることができます。
要するに「既存の言説ではこう言われて来たけど、これってそもそもどういう前提で言われているのだろう?果たしてそれは真実なのか?」という、当たり前や常識で済ませているものを疑うことです。
評論・批評とは常に時代とともに変容していくものであり、ましてや今風の時代への移行期ですから、改めてこの姿勢で既存の言説に対する批判や喧嘩なども大いにしていいでしょう。

固定化された評価ばかりが流布されていくよりは、既存の価値観に対して異議申し立てを唱えることができるクリティカルシンキング(批判的思考力)こそサブカルチャーの評論・批評に必要なものでしょう。

明確な根拠なく批判・誹謗中傷を繰り出して来るのは無視してよし


2つ目で「先人が唱えている既存の言説やネットで抱えている一般的な評価に対する違和感・反論があるなら批判や喧嘩も大いにしていい」と書きましたが、評論・批評を書くと当然批判や誹謗中傷が来ることがあります。
その場合は「建設的批判」なのか「感情論に走ったが故の人格攻撃」なのかをきちんと見極めた上で適切な対処をすることが重要ですが、まあ殆どの場合後者ですね。
別に私は自分が書いた批評をマンセーしろなんて一言も言っていませんしむしろそんな気持ち悪い信者はお断りですが、中には好きな作品を批判されて怒り狂って凸ってくる信者が居ます。
わかりやすい例で行くと「鬼滅の刃」並びに庵野秀明作品の信者のまぐにウザ絡みされたことがありますが、あれは単に私に自分の好きな作品を散々に批判されたのが許せないという怒りです。

なのでこっちはこれでいいですし、あとは私を表層批評を提唱した蓮實重彦の信者だと勘違いしたニセ批評のラ太郎もその例ですが、こちらも散々この記事でやっつけています。

あとは最近ですと「トイ・ストーリー」に関する記事を書いた時に謎の上から目線で変なうざがらみをして来た「ガンダム」「パト2」信者のcontextなんかもその一例ですね。
結局怒り狂った信者か、私の見方にいちゃもんつけてマウント取りたいだけのいわゆるキョロ充(いつも集団に属していて、キョロキョロ周りを気にする人)のどちらかに分類されます。

このうち前者がまぐで後者がラ太郎とcontextなのですが、要するに自分よりも下側の人間と見做してさも自分が立派な忠告や指摘をしている風を装っているだけの愚者です。

こういう空疎な綺麗事やいちゃもんをつけ、具体的な根拠を示すことなく自分に合わせてくることを強要する奴らの意見など無価値なゴミなので聞く必要は全くありません。

他者の意見・批評を参照する場合はきちんと具体的・客観的な論証ができる人かどうかを見極める


私もよく行っていることですが、たとえば自分と違う他者の意見・批評を参照する場合はきちんと具体的・客観的な論証ができる人かどうかを見極めてください
私にとっては映画専門の親友Fや黒羽翔氏がそれに該当しますが、そういう「信頼できる他者」の意見や視点というのは時に自分の批評眼を鍛えてくれることもあります。
単に人格批判をしたいだけの人は全然無視してもらって構いませんが、自分が納得できる・刺さる意見をくれる人の存在は良質な評論・批評を書く上で大事です。
もちろんその中にも「ここはそうだと思うがここは違うなあ」といった取捨選択は必要であり、正しい情報のみをきちんと抜き取る判断力が必要となりますが。

一番いけないのは他者や先人がこう言っているからといって全てを鵜呑みにしてしまうことです、そうなると自分の意見ではなくなってしまいます。
「ここは確かにそう感じるけど、ここの部分は合わない」というのは違う人間ですから絶対にあります、そこで見解が100%一致することはまずありません。
また「どうしてそうなるのか?」と思ったことに対しては素直に聞いて根拠を聞いてみることも大事です、やはり説明責任は大事ですから。
私がなぜ「具体的かつ客観的に論証してください」と説明を要求したのかというと、信頼できる意見をくれる人かどうかを見極めるためです。

しかしあの人はこちらの意図を全くわかっておらず、それどころか謎の上から目線で「何でも無料で教えるわけないでしょう」と言い逃れしやがりました。
私は別に教えを請おうと思ったのではなく、きちんと根拠を持って自分の意見を言語化できる人かどうかを見極めたかっただけなのです、別にあの人自身の演出論()なんか聞きたくもありません。
ところがあの人は煙に巻くようにしてカッコつけて逃げてしまったのであり、要するに「俺はわざと火影の座から降りたのさ」という謎の言い訳をしたがる犬塚キバと同類です。
だから、もし意見をくれる人が信頼できるかどうかは慎重かつ丁寧に見極めを行うようにするといいでしょう。

「他者との共有」ではなく「孤独な視聴体験」でしか評論・批評は書けない


そして最後に、今まで書いてきたことと矛盾するようですが、あくまでも「他者との共有」ではなく「孤独な視聴体験」を大事にしてください
映画にしろアニメにしろ漫画にしろ特撮にしろテレビドラマにしろ、サブカルチャーだとよく「泣いて感動しました」みたいな「共感」「感動」が正義であるかに思われがちです。
しかし、真に良質な批評はあくまでも己の目で見て己の肌で感じた「孤独な視聴体験」からしか生まれず、それこそが正に本当に大事なことではないでしょうか。
他者と感動を分かち合ってもそれは「仲間内の馴れ合い」でしかなく、そんな傷の舐め合いのようなことをしていては良質なレビューは生まれません。

別に意図して孤独になれ、ぼっちになれとは言いませんが、どこまで行こうとあくまで他人は他人、参考になる意見やアプローチはくれたとしても絶対的な正解を持っているわけではないのです。
だから友達や親兄弟が感動したからといって無理に「自分も感動した」と合わせる必要はなく、自分が率直に思ったことをきちんと語ればそれで良いのではないでしょうか。
映像作品の視聴体験はあくまでもその人自身のものであり誰かのものではないのですから、信頼できる他者がいても流されずに自分の意見を大事にしてください。
たとえそれが叩かれたとしてもその体験はまぎれもない真実であり、そういうものを大切にしていくことこそがより良い評論・批評を生み出していきます。

作品をどう見てどう評価しても自分の自由、自分に合う作品をきちんと見つけて好きな作品との付き合いをぜひ言語化してみましょう。

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