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映画なんぞ各々が好きに見ればいい

昨日のこの記事を見てラなんとかなる者が私が蓮實重彦及び彼が提唱した表層批評の信奉者だと勘違いしたらしい、とんだお笑い種である。
私は別に自らが表層批評信者だと驕り高ぶるような破廉恥な人間ではない、東大出身でもないし彼の授業・ゼミを受けた学生でもないのだから。
それに、私が今こうして映画や他の芸術も見ているのは視野や知見を広げて、スーパー戦隊論をもっと豊かなものにしていきたいからである。
そこが最終的な目論見であって、表層批評は単なるアプローチでしかないし、またそれを他者に押し付けて「こう見ろ」と強制するつもりもない。

映画なんぞ各々が好きに見れば良い、昨今はYouTubeやサブスクもあるのだし、西野亮廣みたいに作品そのものより作品が出来上がる過程やビジネスモデルを売りにしている人もいるのだし。
ほとんどの人は物語と裏側の制作事情を知りたいのであろうから、私個人の見方や考え方といったものがそこまで他者の見方に決定的な影響を及ぼすことなどないのは十二分にわかっている。
映画作家にできることはあくまで「映画を作ること」であり、じゃあ映画とは何かと言われたら「画面の運動」でしかないだろう。
学生時代に私は言語学を専攻していたからこそわかるが、映画は文章や言葉では表現できないものを表現する面白さがあり、批評はその魅力を言語化し画面に人を誘う手段でしかない

ここ数日のウザ絡みなどを見るにつけ、昨日の記事に限らずさる者が書いているニセ批評なるものは多分に私に対する当てこすりとして書かれている節がある。
映画批評の死や表層批評の問題など論っていたが、私が「じゃあ具体的に論証してみろ」と詰めていくとやはりボロが出て空疎で曖昧な抽象論か私個人への人格攻撃に終始するしかない。
書いているマガジン等も含めて読ませいただいたが、彼は哲学・思想に関しては深い造詣があるようだが、こと文芸批評になると全くの初心者のようである。
別にそれが悪いと言いたいのではない、初心者なら初心者だと素直に認めてしまえばいいものを、あれこれ難癖つけて私を貶めて挫けさせたいのだろう。

だが、そんな見え透いた詐欺のような手口に乗っかるほど私は愚かではない、大体こういうのは鼻で笑って済ませておけばいい。
さて、話を映画に戻すが、私がなぜ画面の向こうに政治・歴史・哲学・社会といったものを読み込むことをしなくなったかというと、表層批評が理由ではない。
また町山智浩や宮台真司のような意味内容で批評する人たちが原因でもない、単純にもっと「作品を作品として見たい」というそれだけである。
一度そこで自分の感想や批評に対する姿勢をニュートラルに引き戻さないと、たちまちそういう人たちの餌食になってしまう。

まあ要するに何が言いたいかというと、たかが映画じゃないか

テレビドラマでもよく「この作品(物語)はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません」という注意書きがあるだろう。
なぜかというと映画にしろテレビドラマにしろアニメにしろ漫画にしろ、この手の作り物の世界が虚構であることを認識せず変な難癖を付ける人たちがいるからだ。
それこそSMAPの「Let it be」ではないが、好きな映画や好きな音楽などのサブカルチャーに影響され過ぎて現実との区別がつかなくなってしまう手合いは一定数いる。
何せ「フォレスト・ガンプ」を見て「共産党のプロパガンダ」と評し、実際にそれが選挙のポジショントークとして使われるといった事例があった。

また、日本でも例えばオウム真理教が起こした一連の事件に対して、指導者の麻原彰晃がヤマトやガンダムのような擬似戦争SFアニメを好きだったことから関連性を指摘する声もある。
それこそ富野監督の『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』でシャアがエコテロリストに変貌したこととオウムとの関連性を指摘する向きもあった。

それこそ宮崎駿・安彦良和・押井守はモロに学生運動の世代だし、スーパー戦隊シリーズだと脚本家の曽田博久・杉村升がその世代の思想が強いことは周知の事実である。
だが、そのことが作風に影響を及ぼすことが多少なりあったとしても、それ自体は映像作品としての面白さや出来不出来に何らの影響も及ぼすことはない

私が「逆シャア」を楽しむ時も別にそうした政治のことなんかどうでもよくνガンダムとサザビーのドンパチを楽しんでいたし、あれはすごく良くできた映画だった。
確かに映画をはじめサブカルチャーが人生に影響を及ぼすこともあろう、「リングにかけろ」を読んで格闘家を目指したという人は沢山いる。
それこそ錦織圭選手は「テニスの王子様」がテニス選手を目指す上でのきっかけの1つであったことも公言しているし、それは別に構わない。
だが、それらの事例をもって批評の死や表層批評の問題点へとすり替えるのはナンセンスだし、また作品を作った作家にとっても作品にとってもいい迷惑である。

映画や漫画は確かに今や市民権を得たサブカルチャーと言っていいだろうが、それらを安直に社会・歴史・哲学・テーマへすり替えるのは論理学にある詭弁の「早まった一般化」でしかない。
「フォレスト・ガンプ」を評価する時、まず真っ先に論じられるべきはガンプを演じたトム・ハンクスの演技力やサブリミナル・CGを用いた映像技法ではなかろうか。
トム・ハンクスがあの映画に出てからコメディだけではなくシリアスもできる人と評価され幅も広がったし、監督が提示した撮影技法は後にも繋がっている。
同様に、例えば「2001年宇宙の旅」も良く「難解」だと論じられているが、別にあの作品に提示されている要素なんて難解でも何でもない、人類の進化やAIとの相克が描かれているのみだ。

「2001年」はテーマなんか分からなくたってほとんどの人はあの宇宙空間の映像美とクラシック音楽だけで十分に堪能できるし、あの映画を境にSF映画も大きく変わったといえるだろう。
あくまで「映像作品」なのだからそちらを列挙していく方がいいわけだし、そこにテーマを論じることはない、テーマを論じたければ看板でもぶら下げて繁華街を練り歩けばいい。
いずれにせよ映画はどこまで行こうとたかが映画、人々の生活に本来ならなくてもいいサブカルチャーの1つに過ぎないのだから。
でもないよりはあった方が感性は豊かになるし人生に彩りも出て面白いことだけは間違いない。

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