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形式が良ければ何度でも見ていられるし聞いていられるが、意味内容での勝負となると1回で飽きてしまう

表層批評とは結局のところ「形式主義(formalism)」をベースにした上での批評、すなわち「内容」ではなく「形式」に基づく「テマティスム(主題論)」である
形式がどうなっているかをしっかり分析した上でその形式に基づく「画面の運動」がどう人々を刺激するかという、批評のあり方としては全く誠実で正しき態度だ。
だから私が蓮實の文章を読んでいて面白いと思えるのは一見衒学的なようでいて、実はしっかり理論で評価し余分な主観を省いているために納得がしやすい。
余計なものを必要以上に読み込もうとしないがために、かえって文章そのものに注目し、頭の中でショットをリフレインしながら素直に読み進めることができる。

私は大学時代には言語学を専攻していて統語論と認知意味論の2つを中心に勉強していたが、結局普遍性があるというか長い目で見て楽なのは統語論の方だ
認知意味論だと結局は「解釈」の問題になってしまい、そこの領域になってしまうと見る者の主観が入ってしまいあやふやなものとなってしまうだろう。
だが、統語論・生成文法をきちんと習得していれば、あとの意味派生はそこから生じた応用でしかないから実は表層批評の方が遥かに楽なのである、習得に時間はかかるが。
そしてこの表層批評はまだ芸術の分野において定着していないものであるからこそ、今の時代だからこそ考え方の根幹として身につけておくといいだろう。

その意味で、私は実はハロープロジェクトの楽曲のMVが結構好きで、よくYouTubeで繰り返し見ること多い。

ここで出したのは全盛期モーニング娘。の『LOVEマシーン』、久住小春の『バラライカ』、°C-uteの『悲しき雨降り』だが、この3つのMVは何度でも飽きずに見ていられる
それは私が決してハロプロのアイドルの推しがいるといったことではなく、正に先日述べた大野智のダンス鑑賞を楽しむような感覚に近く、とにかく「形式」がいい
歌詞に関してはぶっちゃけよく分からない、というより私は音楽を聴くとき歌詞には用がなく、どちらかといえばメロディーや歌声の響きといったあたりを重視する。
MVを見る上ではさらにそこに被写体の色気(存在感)を大事にしており、ハロプロの楽曲はその意味で何度でも聞いていられるし、キャメラも被写体の魅力をしっかり撮っているだろう。

このうち「悲しき雨降り」はダンスショットもあるのでこちらも是非ご覧いただきたいが、背景が凄く簡素である分、5人のダンスの魅力を邪魔することなく写している
特に中島早貴の間奏シーンでのダンスの美しさなど実にいいし、またセンターを支える矢島舞美とその右隣の鈴木愛理の適度な抜け感もいいアクセントであろう。
背景がごちゃごちゃせず、画面に必要最小限の物しか写していないミニマリズムの演出が逆に被写体の魅力をきちっとカメラに収めており、何度でも見ていられる。
これに比べると、やはり秋元康プロデュースの楽曲は曲自体もそうだしMVもそうだが、形式よりも意味内容での勝負となってしまう。

野猿の「叫び」やAKBの「ヘビーローテション」がそうだが、どちらも再生回数は高く大衆受けはしやすのだが、やはりMVとして見ると画面がごちゃごちゃしていて下品である。
まず野猿に関してはとんねるずに2人以外が完全な有象無象になってしまっているし、AKBもやはり神7と呼ばれたメンバー以外がごちゃごちゃ動いていて鬱陶しく目障りだ。
メロディーもそこまで美しいわけでもなく、歌詞はすごく練られているものの、やはり形式自体がそんなに美しくないため一回見てしまえば簡単に飽きてしまう
だから、確かに秋元康がやっている集団グループの方が大衆性その他で人気は獲得しやすいのだが、その分消費も早いし形式やスキル・実力の勝負ではないから長くは持たない

映画批評も実はこれと似ていて、確かに大衆性や一般受けという意味では宮台真司・町山智浩・ライムスター宇多丸のように意味内容で批評する方が一般受けはいい。
だが、あくまで意味内容での評価だから簡単に飽きてしまうし、彼らの批評を聞いてその作品を見てみようというところにまではならないのだ。
この点がやはり淀川長治・蓮實重彦・山田宏一・山根貞雄らの方が大衆性はないかもしれないが形式に則った映画評論であるために何度でも聞いていられるし映画を見たくなる
意味内容なんてほとんどがその時の一過性でしかないが、やはり形式というのは根幹であるから、根幹をきちんと押さえる方が長く残っていくものだ。

スーパー戦隊シリーズがなんだかんだ長年続いてきたのもこの「形式」が実はシンプルかつ大胆だからこそ長続きしてこられたんだと思っている。

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