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「女の子だって暴れたい」というキャッチフレーズに秘められた「男」という生き物の暴力性

ちょうど「メイン・サブ」という話題やセックス・ジェンダーに関する話が出たので、初代『ふたりはプリキュア』の話をしてみよう。
今年で20周年を迎えるプリキュアシリーズだが、当時とにかく視聴者の目を惹きつけたのは「女の子だって暴れたい」というキャッチフレーズである。
これが独り歩きして、昨今やたら男女平等、何なら女性優位を訴えようとするフェミニストたちのエクスキュースとして使われているそうだ。
しかし、原作の「ふたりはプリキュア」を見ていると、戦いに関しても日常シーンに関してもいうほど「雄々しさ」を前面に押し出しているわけではない

現に五條真由美が歌っている初期のED「ゲッチュウ!らぶらぶぅ?!」では早速こんな歌詞が入っている。

DATTEやってらんないじゃん
ファイターより乙女チックに
get you! love love モードじゃん
身も心もスゥイーツにとけてみたいもん

おい!「女の子だって暴れたい」という気概はどこ行った!?何を甘々の女モード出してんだ!?

おそらく「プリキュア」を見ていて世の男性視聴者はこう突っ込んだに違いない、実際「プリキュア」はそんなに雄々しくないし、何なら初代に関してはなぎさよりもほのかの方が余程図太くて男っぽいのだ。
美墨なぎさは劇中だと「明朗快活でおっちょこちょいな男勝りの女の子」と設定されているが、それはあくまで表面上だけであり、実際はめちゃくちゃ乙女チックな女の子として描かれている
藤P先輩大好きだしほのかを受け入れるまで時間がかかる不器用な人見知りだし、ラクロス部の女の子たちとたこパフェによく行くしと実に等身大の女子中学生という印象だ。
対してほのかはそういう「女の子らしさ」の部分はゼロではないにしてもほとんどなく、おばあちゃん子で部活が科学部という歴代でも珍しい「リケジョ」という風になっている。

そんな2人が変身後にはキュアブラックが剛の拳である打撃担当であり、キュアホワイトが関節技を中心とした柔術担当というのも当時は挑戦的な要素であっただろう。
しかし、この徒手空拳中心の路線はその後のシリーズではあまり継承されず(SSの時点で魔法っぽかったし)、トドメの技もマーブルスクリューという浄化の衝撃波なのであまり男っぽい印象がない。
鷲尾天プロデューサーもこの「女の子だって暴れたい」に深い意味を持たせたわけではなく、あくまで企画を成立するためのキャッチフレーズとしてのみ用いたのだという。
逆にいえば、この「男」という生き物が根源的に持ちうるマッチョイズム・暴力性というのはたとえ時代が変わり男女平等だの言われるようになっても変わるものではないということだ。

こちらの記事でも述べたが、初代〜SSのプリキュアは戦闘シーンが「ドラゴンボール」レベルであるとのことらしいが、実際の迫力は圧倒的に「ドラゴンボール」の方が上である
その理由として単に規模感やスピード感だけではなく、放つ一撃一撃の重みや威力、軋む筋肉同士のぶつかり合い、殴る蹴るのやり合いで山が崩壊し気功波の放出だけで簡単に星をも破壊してしまう力。
それら男の「こうなってみたい!」と思う本能をここまで純粋かつシンプルに大胆な形で突き詰めた漫画・アニメは「ドラゴンボール」が当時にして辿り着いた一つの完成形であろう。
正に「何よりも強くただ強く」というウボォーギンの言葉を語らずして体現していたわけであり、逆にいえばこの雄々しいマッチョイズムこそが「男のロマン」にして「ヒロイズム」であることは誰も否定できまい

そんな「ドラゴンボール」の戦闘シーンや戦いの有り様を「それはヒロイズムではなくマッチョイズム」とこき下ろした人がいたが、「ヒーロー」であることと「マッチョ」であることは切り離せない
実際「ヒーロー」とは日本語で書けば「英雄=優れた(秀でた)雄」であり、「英雌=優れた(秀でた)雌」とは間違っても書かないのは正にそこにある。
元々の「英雄」自体に「雄=男」が含まれているのだから、そこからして「戦うのは男の仕事」という概念や常識が出来上がってきたわけであり、それは太古の昔から脈々と受け継がれてきた本能である。
逆にいえば、だからこそマッチョに見えない男性は「フェミニン」「中性的」と言われるわけだし、そのフェミニンな男性主人公の代表がアムロ・レイや碇シンジ、野比のび太辺りではなかろうか。

「魔法少女もの」というジャンルでいうなら、「魔法使いサリー」「キューティーハニー」を代表とする女児向けアニメはかつて「メイン/サブ」で分けるなら明らかな「サブ」であった。
どれだけヒットしたとしてもそれがメインカルチャーの象徴にまでなることはあまりなく、バトルもののジャンルをメインで切り開いてきたのは明らかに男児向けなのだ。
それこそ武内直子先生が原作を手がけた『美少女戦士セーラームーン』はそこの「サブ」だったものを「メイン」にまで押し上げ昇格させるという地位向上を果たした。
だがそれも東映特撮が作り上げてきた不思議コメディシリーズとスーパー戦隊シリーズの歴史の蓄積があってのことであり、あくまで後発者利益であって先行者利益ではない

これはフィクションのみならず現実もそうだが、歴史に名を残す経営者・起業家・科学者・芸術家のほとんどが男性であり、女性が名を残すという例はゼロではないがあまりない。
たとえばジャンヌ・ダルクや北条政子、マザーテレサなど女性が歴史に名を残したという例はあるが、それでも知名度としては男性のそれに比べて低いであろう。
だから私にとって、「セーラームーン」「プリキュア」をはじめとする女児向けのバトルものはどんなに逆立ちしたところで男児向けほどの革新性を持たない。
そう考えると、スーパー戦隊シリーズにおいてもなぜ「女性リーダー」かつ「レッド」が歴史の中でたった一度の例外を除いて生まれなかったかも納得が行く。

男女平等を履き違えた自称フェミの人たちにこそ是非考えていただきたいのが「忍者戦隊カクレンジャー」「未来戦隊タイムレンジャー」、そして「侍戦隊シンケンジャー」である。
まず「カクレンジャー」では歴代初の「女性リーダー」が設定されたが失敗に終わり、中盤の忍びの巻の試練で実質「リーダー失格」の烙印を押されてしまった
三太夫から「鶴姫、お前は女やけん。腕もか細く、力では到底サスケたちには敵わない。それでもカクレンジャーのリーダー、人一倍相手を思いやる優しさが求められる」と言われている。
まあこの中で力でサスケたちに劣るのは仕方ないとしても、知略や忍術の腕前、さらには冷静沈着な判断力やメンバーをまとめ上げる統率力においてもサスケに劣ってしまっていた

そして現在配信中の「未来戦隊タイムレンジャー」「侍戦隊シンケンジャー」だが、まず「タイムレンジャー」でいうと戦いにおけるリーダーはユウリに設定されている。
しかし組織の経営者としての手腕はもちろん空手の腕やコミュニケーション能力なども含めて実質のまとめ役はやはり竜也だったし、34話ではユウリが犯罪者にされそうなのを防いでいた。
確かにユウリは孤高のバリキャリだがコミュニケーションなどの対人関係に難があり、そんな人間がリーダーと言われても納得できず、やはり中心はあくまで竜也である
そして「シンケンジャー」に関しては終盤で正にその「女性リーダーかつレッド」が出てくるわけだが、どのような結末になるかは是非ともこれからの配信の中でご確認いただきたい。

話を戻すと、「風の時代」と言われるようになった昨今においてさえ尚歴史を作っているのはやはり男なのだと思う。
実際にトップYouTuberとして先陣を切って時代を作ってきたのはジェットダイスケさん、HIKAKIN、はじめしゃちょー、フィッシャーズ、ヒカルら男性陣である。
また、経営者や起業家という点で見ても、たとえば岩井社長をはじめとする令和の虎の社長たちや青汁王子、ホリエモンなどビジネスモデルを作り上げているのはやはり男たちが中心だ。
中には勝友美のような女性社長だって少なからずいるのだが、やはり男性の社長たちに比べるとパワーや勢いで負ける分優しさの印象が強い

初代「プリキュア」が確かにポスト「セーラームーン」の精神性を継承し新たな女児向けの道を開拓し、今や仮面ライダーやスーパー戦隊と並ぶ「ニチアサ」の一角にまで昇格したことは確かに素晴らしい。
そこには並々ならぬ熱量と努力、そして時の運などいろんな要素が絡んでいるが、それでも仮面ライダーやスーパー戦隊、ウルトラのような男児向けに比べると歴としてはまだまだ浅い新人・中堅クラスである。
それは逆説的にいえば、女性が男性と対等のステージで戦うことがどれだけ険しい道のりであるかということが歴史的に示されているのではないかと私は思う。
まあある意味その「戦いは男の仕事」をセリフとして言わせた上で皮肉っているのがテレビ版「エヴァ」の19話「男の戰い」なのだが、これについてはまた別の機会で述べる。


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