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『ふたりはプリキュアSplash☆Star』(2006)再視聴感想〜戦闘シーンの迫力は追い越されてしまったが、映像と物語の美がとても素晴らしい傑作〜

最近やたらとオススメに『ふたりはプリキュアSplash☆Star』(2006)の公式配信動画が出てくるので、「何だこれは?」と思って調べてみた。
どうやら今週の日曜日にNHKで「オトナプリキュア」なる後日談が放送され、それに「Splash☆Star」「5」の主要キャラクターが出るらしい。
私は特段興味がないので見ないのだが、最近「オリエもん」こと樹元オリエと榎本温子の公式YouTubeチャンネルの動画がオススメに出てくるので、これも何かの縁なのだろうか?
そう思って、本当に数年ぶりに全話再視聴したので感想・批評をば。

評価:S(傑作)100点満点中95点


ヒュウガ・クロサキとプリキュアシリーズとの関係

私とプリキュアシリーズに関していうならば、「決して無縁ではない」が「おいでと誘われている感じでもない」という、よくわからない距離感のシリーズである。
あらゆるシリーズものの中で私が一番縁が深いといえるのはスーパー戦隊シリーズであり、まるで実家のホームのような安心感と自由闊達な大らかさと厳しさが魅力だ。
一方の仮面ライダーとウルトラマンに関してはシリーズの歴史自体は凄く深みがあるものの、やはりどこか自分にとっては遠いところからやってきた異邦人のように感じられる。
リアルタイムで一個も作品を見れなかったために「原体験」を持たず、昭和ウルトラ・昭和ライダー・平成ライダー・平成ウルトラのいずれもやはり「後追い」で見たに過ぎない。

やはり幼少期にガツンと自分の感性に影響を与えてくれる程の経験を味わっているかどうかの差は思っている以上に大きくて、スーパー戦隊シリーズだけはその意味で私にとって身近に感じられた
そんな中でプリキュアシリーズに関していうならば、鷲尾プロデューサーが手がけたシリーズ(初代・MH・SS・5・5GOO)並びに監修に携わった「GO!プリンセスプリキュア」以外は見ていない。
しかもその中でリアルタイムで唯一全話視聴したのは「Splash☆Star」「GOプリ」の二作のみであり、他のシリーズものには正直そこまで食指が動かないので見ていないのである。
そもそも私は「ドラゴンボール」以上のギガヒットを叩き出した「セーラームーン」でさえ興味が湧かなかったのだから、いわゆる「魔法少女」というジャンルがピンと来ないのかもしれない。

よく「セーラームーン」「プリキュア」は「魔法少女」を大衆性のあるバトルものに変化させ、視聴層の拡大と発展に貢献させたと言われるし、実際その通りだとは思う。
プリキュアにしても「女の子だって暴れたい」をスローガンにドラゴンボールやエアマスターばりの肉弾戦を女子中学生がやったというのは当時としては革命的であった。
しかし、どれだけ女の子が仮面ライダーや戦隊シリーズのようにカッコ良く変身して戦ったところで、その魅力や迫力は到底本家に敵うものではない
これから私が批評する「Splash☆Star」に関しても、戦闘シーンよりはやはり映像美・キャラクターや物語の丁寧さといったところが際立つようになっている。

そして何より、「これはあくまで女の子の物語であり、男の自分が憧れや共感の眼差しを向けるものではない」というある種のバリアのようなものが作品全体に見て取れた。
だから、プリキュアシリーズに関しては外側から見て作品の良し悪しを判断することはあっても、当事者目線で感情移入して主観的な好き嫌いを語ることができない。
やはりそこはどれだけ時が経ったとしても厳然たる「女児向け」のラインがあって、そんな中でも鷲尾Pが中心となって手がけた初期シリーズは比較的男性陣でも見られるものだったと思う。
そういうわけなので、私にとってのプリキュアシリーズは人間関係に例えるなら「知り合い以上友達未満」のようなものだと思って感想・批評をご覧いただければ幸いである。

戦闘シーンは流石に本家『ドラゴンボール』には及ばず

まず今回見直して改めて語っておきたいのは、これは批判というよりは個人的趣味に基づく我儘になるのだが、戦闘シーンの迫力は本家『ドラゴンボール』には及ばない
これは何も下種の後知恵でそう思うのではなく、最初に見た時から思っていたことだったし、何より2023年の今ではその『ドラゴンボール』が本作以上の戦闘シーンを見せつけてきた。
いうまでもなく歴代最高傑作と呼ばれている『ドラゴンボール超 ブロリー』(2018)であり、CGも使いながら進化した大迫力の戦いを劇場の大画面で見ることができたのである。
この強烈な男心をくすぐるダイナミズムの迫力の前には所詮女児向け版『ドラゴンボール』のエピゴーネンたるプリキュアの戦闘シーンは足下にも及ばない。

やはり悟空・ベジータ・ブロリーという3人の純血サイヤ人が繰り広げる最高峰の戦闘シーンは何度見ても素晴らしく、最初はそれこそダメダメだった「超」がよくぞここまで持ち直したものだと感心した。
これを見た時に「あ、プリキュアSSが余裕で超えられてしまったわ」と笑ってしまったのであり、やはり女子中学生が頑張って変身してどんなに早く動いても戦闘民族サイヤ人の格好良さには到達できない
もちろんそんな中でも鷲尾Pが手がけた初代・MH・SSの三部作は肉弾戦をガシガシと頑張っている方だとは思うのだが、男同士がはち切れんばかりの筋肉をぶつけ合って戦う様には及ばないのである。
それはまさしく私が『ドラゴンボールZ』の孫悟空VSベジータをサイヤ人編と魔人ブウ編の二回見た時に思わず手に汗握って見た時の感動であり、その感動は女児向けでは到底味わうことは不可能だ。

比較としてサイヤ人編の悟空VSベジータのかめはめ波対決、魔人ブウ編のSS2の激しく重々しい肉弾戦、そして時を経て進化したベジータと新ブロリーのスピーディーかつダイナミックな戦闘シーン。
ジャンプ漫画の中でも歴代最高峰といわれる戦闘シーンのアニメーションのトップに君臨し続ける「ドラゴンボール」の戦闘シーンの凄さは単なるスピード感だけではない。
やはりパンチの一撃一撃の重み、超サイヤ人に変身する時の圧倒的強者のオーラ、そして気功法を放出しただけで星をも崩壊しかねないほどの純粋かつシンプルな力のぶつかり合い。
男の闘争本能を刺激する戦いをここまで研ぎ澄ませて描き切った「ドラゴンボール」が今だに残り続けている理由は正に戦闘シーンの黄金律を絶妙なバランスで圧倒的芸術にまで昇華せしめたことにある

対して「プリキュアSS」の4人の戦士とラスボス・ゴーヤーンの戦闘シーンだが、確かにスピード感と戦闘シーンの規模感・迫力は中々に素晴らしいものの、それでも「ドラゴンボール」には到達できていない
頑張っている方だとは思うし女児向けのテレビシリーズでここまでセンスのあるバトルを描けているだけでも凄いとは思うのだが、所詮は等身大の華奢な女子中学生なので出せる迫力に限界がある
やはり気合を入れて雄叫びを上げた時の迫力も気の質感も段違いだし、何より野沢雅子・堀川りょう・島田敏というベテラン3人が見せる魂の演技には新人女性声優では届かない。
改めて見直してみると、どうしても戦闘シーンの迫力というものにおいて「あれ?意外と迫力がないなあ」と肩透かしを食うような心持ちにさせられてしまったのは確かだ。

自然を背景とした手描きならではの映像美

最初に思いっきり戦闘シーンへのダメ出しをしてしまったが、逆にいえばそれ以外の部分に関しては文句の付けようがないほどに「Splash☆Star」という作品は素晴らしい。
まず、年間を通して素晴らしいといえるのは自然を背景とした手描きならではの映像美であり、何度見直してもとにかく映像の美しさに思わず息を呑んでしまう。
いわゆる最先端の3DCGを用いた「整った綺麗な絵」ではなく(新海誠はどちらかといえばこっち)、味のある手描きの自然の絵が美しく、光線処理も見事である
OPから本編の内容・EDに至るまで長閑な田舎の大自然にあふれた風景は私の感性を大きく揺るがすものであり、第一話を見た時点で私はこの作品の世界観に圧倒された。

また、本作では北欧神話などでよく用いられている「世界樹」なるモチーフが使われているのだが、これが単なる神話のオマージュや作品の世界観を象徴するガジェットだけに終わらない。
第一話ではそれは日向咲と美翔舞という2人の戦士を引き合わせる約束の地として機能しているし、終盤で改心して味方になる満と薫との出会いや再会にも使われている。
そしてそれと同じようにプリキュアと敵組織・ダークフォールの戦いが始まる場所にして最終決戦の地としても機能しており、最後の最後までこの世界樹がしっかり用いられているのだ。
咲たちが住んでいる田舎の夕凪は決して単なる日常風景や青春が披露されるというだけではなく、様々な災厄が起こる不吉な場所としてもまた機能している

このように明確な神話をモチーフにして作られたものとして設定されている以上、そこに導かれるようにしてやってきた日向咲と美翔舞は単なる等身大の女子中学生ではない
日常シーンでは確かにそれぞれ元気印の体育会系少女と繊細な文化系少女として描かれているが、その2人が幼少期に世界樹の下で出会ってプリキュアに選ばれた。
因子的なことも含めればこの2人は間違いなく宇宙人ないしは地球人の姿を宿した、どこか異次元のような存在であるかもしれないことは容易に想像がつく。
でなければ、第一話でいきなり自分たちの世界を襲ってきたダークフォールなる悪の組織の脅威に敢然と立ち向かうことなどできないはずだからである。

日常のシーンはあくまで中学生らしく軽やかに描かれているのだが、それはあくまでも非日常である悪の組織との戦いの過酷さを際立たせるものに過ぎない。
だが、それがあることによってこそ咲たちが生きているこの世界の美しさと自然の壮大さが単なる絵空事に終わらず、かといって小難しい大人のドラマにも至らないのだ。
核の部分はとてもシンプルであり考察の余地など全くないくらいに描かれているのだが、だからこそ本作の映像美がもたらす自然の美しさを本作は隅々まで堪能することができる。
本作独自の良さはまさにここにあって、シンプルかつストレートに「良い」といえるこのバランス感覚を映像体験として味わえることの感動と衝撃が私の感性を刺激した。

末端のキャラクターまでしっかり描き切られている

その上で本作が最も褒められるべき点は、最初から大筋が決まっていたとは思われるのだが、本作はキャラクターの一貫性と使い切りが見事である
私が人生一の最高傑作と推している「星獣戦隊ギンガマン』(1998)が用いていた1クール1軍団という大胆な構成にしているのもあるが、とにかくキャラの使い切りが素晴らしい。
まずヒーロー側であるプリキュアに関していえば、主人公の咲と舞だけではなくその周囲の家族や友達といった横の人たちの関わりがごく自然な形で描かれていた
しかも、単純にプリキュアたちだけにドラマがあるのではなく、後半から入ってきた妖精ムープとフープも初期のワガママな態度が後半からどんどん直って成長していく。

なんといっても味方側で素晴らしいのは霧生満と霧生薫の改心と喪失、そしてそこからの復活と再生であり、このドラマの重厚感と「命」というテーマとのシンクロも見事である。
しかもその2人も単純に既定路線で改心したことを感じさせず、例えば満はパンパカパンでパンを作ることに対する楽しみを感じたり、薫は舞の絵描きとみのりの影響が大きい。
また健太たちクラスメートの存在も大きく影響しており、本作に出てくる主要キャラクターが個性的であるだけではなく、横の絡みの中でまた成長を見せている。
こうした丁寧かつ周到な人物同士の関わりと言ったものが作品の世界観をより強固なものとし、過不足なく描き切られているというのが本作の何より褒めるべきところだろう。

そして敵側たるダークフォールもまたそれぞれに個性が濃いのだが、個人的にとてもよかったのは復活した敵幹部たちがそれぞれ終盤で掛け合い漫才のシーンがあったことである。
戦闘シーン以上に前半では一切絡みがなかった敵幹部たちがそれぞれに横の絡みでキャラの幅が広がり、しかも「再生怪人は弱い」の法則を打ち破って逆に強化されているのだ。
しかも裏にはアクダイカーンと、そのアクダイカーンを駒として利用し真の黒幕として顔を出すことになるゴーヤーンの脅威・存在感は決して薄れることがない。
どれだけ敵幹部たちが倒れていっても決して最後までダークフォールの脅威が失われなかったことも最後まで作品全体の格が下がらずにテンションを保つことができた。

パワーバランスも絶妙に破綻を来さないような説得力があり、その上でくどくなり過ぎず、かといってあっさり過ぎず要所要所のキャラの見所は全て押さえられている。
本作は確かにその意味で一見したところ地味かもしれないし、エースやクリーンヒットと呼ばれるような瞬間的な爆発力は他の作品と比べて少ないかもしれない。
しかし、その分確実に狙えるところの基礎基本を抜かりなく徹底し、その上で一貫した世界観と筋運びの元に「何年経っても見られる名作」の高いハードルを見事にクリアした
初代・MHの2作で得たものを全て教訓化し、「ふたりはプリキュア」の集大成として作られた本作は間違いなくどの時代に誰が見ても揺らがず、古びないだけの魅力的な活劇であろう。

魔法少女ものが中学生女子に設定されている理由

これは本作に限らず、初代・MHと歴代のシリーズや大元となった「セーラームーン」を見ていて思ったことだが、そもそもなぜ魔法少女ものは女子中学生に設定されているのだろうか?
理由は色々考えられるが、一番の理由はおそらく「感情の揺れ動き」が最もはっきり描ける、かつ「子供過ぎず大人にもなりきれていない」という過渡期にいるからだと思われる。
そしてそれこそが同じ女性がヒーローを務めるスーパー戦隊の女性戦士との大きな差別化にも繋がっているのではないか、というのが本作を見ていてわかったことだ。
つまり「ヒーロー」としてのあり方を考えた場合、セーラームーンやプリキュアはどうしてもウルトラマン・仮面ライダー・スーパー戦隊に比べて正義のバックボーンに乏しい

例えばウルトラマンであれば「宇宙から見た遠大な正義」であり、人間にはその価値観は到底理解し得ないものだが、だからこそ怪獣退治や宇宙人と戦う規模感の大きい正義の物語が描ける。
仮面ライダーはウルトラマンとは逆で「同族殺し」「闇から生まれた正義」が背景にあり、人の身でありながら人間で無くなってしまうという自由の喪失が背景にあるのだ。
そしてスーパー戦隊シリーズはもともと軍隊であるために治安維持を目的として戦うことが多く、それにふさわしい正義感を持った5人の若者が選ばれるというのが大元である。
これらと比べると魔法少女ものである「セーラームーン」「プリキュア」などに出てくる少女たちは決してそのような立派な正義感や戦闘スキルのようなものを持っていない。

もちろん中には「魔法少女リリカルなのは」のように「職業としてのプロ魔法戦士」を描いた作品もある、あれはあれで1つのパターンとしては面白いだろう。
しかし、なぜプリキュアシリーズがそのような「職業としてのプロ魔法戦士」の路線を描かないのかというと、心の試練を乗り越えて敵に打ち勝つ様に説得力が出ないからだ。
特に『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)がその大きなパラダイムシフトとなったのもあるのだろうが、「ヒーローは力を持っているから強いのであって、心が強いから勝つんじゃないのではないか?」という疑問が湧く。
なまじ強き力を持っていると本質の部分として描かれるべき「心」の部分が疎かになってしまい、ドラマとして「圧倒的な力を持っているから強い」という結論になってしまう

そしてそのヒーローが持つ「力と心」の関係性に答えを出したのが正に『星獣戦隊ギンガマン』(1998)であり、プロの職業戦士でありながら決して「力が強いから勝つ」にはしていない
スーパー戦隊シリーズがそこまでやってしまった以上、魔法少女ものではその「力と心」について真正面からテーマとして扱うのは難しく、だからプロの戦士として描きにくいのだろう。
この点女子中学生が偶然に戦士に選ばれるというパターンの方が女児向けとして感情移入しやすく、力の強大さを思い切って架空の存在にすることで「心」のドラマを描きやすくしたのだと思われる。
だから、シリーズ全体として持つ「等身大の女子中学生が悪を倒す」という部分について、私の中ではまだ明確にこれだという答えは出されていないが、それはこれからも永遠の課題なのかもしれない。

本作は初代とMHが積み上げた基礎土台を洗練させつつ、北欧神話のモチーフなども借りながら年間の大筋をしっかり決めて一貫性のあるストーリーとキャラクター、映像美の豊かさが絶妙なハーモニーを奏でている。
咲と舞を中心にした「花鳥風月」もそうだが、何よりも90年代に様々な原体験があった私の感性を再び揺るがしてくれる程の作品がまさか魔法少女ものというジャンルから出るとは思ってもみなかった。
『ふたりはプリキュアSplash☆Star』(2006)はその意味で戦闘シーンの迫力こそ本家『ドラゴンボール』に追い越されてしまったが、それ以外の部分はまだまだ古びない魅力を多く兼ね備えている。
これがプリキュアシリーズの一作ということすら忘れさせてしまうくらいに見れば見るほど深い味わいが出てくるS(傑作)であり、見て損はない逸品だろう。


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