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『鬼滅の刃』を勧善懲悪の目線で見た時に感じられる欺瞞〜ここがダメだよ炭治郎〜

『鬼滅の刃』という作品を勧善懲悪として読んだ場合、一番欺瞞を感じてしまったのがこのコマである。

炭治郎は柱の不死川実弥が自分の妹に手を出したこともあって激昂してこのセリフを言ったのだが、長年スーパー戦隊シリーズで目が肥えているせいか全く刺さらない。
富野監督をはじめ周囲はやたらに「センスがあり文学的だ」などと原作者を持ち上げていたらしいが、ならこの陳腐極まりない台詞回しは何だ!?
これで本当に作家と言えるのか!?きちんと魂を削って産みの苦しみを感じながら作ってこの出来なら正直擁護しようがないぞ、まあするつもりもないが。
こんなのが「思想」ねえ……本当に「鬼滅は思想」などと言ってた人のどタマかち割ってその思考回路を覗いてみたいわ。

炭治郎のこの台詞になぜイライラしたのかというと、炭治郎がこのセリフを吐くに至るまでのバックボーンや描写の積み重ねが圧倒的に不足しているからである。
もともとジャンプ漫画は特撮作品と違って必ずしも勧善懲悪のヒーロー論を売りにしているわけじゃない、そんなジャンプ漫画が下手に勧善懲悪を作らせた結果がこれだ。
スーパー戦隊シリーズのような子供向け番組が40作以上も積み重ねてきたその歴史に対して喧嘩を売っていると取られても文句は言えまい、少なくとも俺はそう受け取った。
そもそも漫画以前に「物語を描く」という作家の心構えや経験すら不足していたらしいが、そんな人に子供向けの勧善懲悪じみた芝居がかった物語を描かせるなよ。

お前が言うな、炭治郎

この炭治郎のセリフの何がありえないといって、まだ入りたての新米刑事がベテランの上層部相手に「ヤクザと犯罪者の区別がつかないなら警察なんて辞めちまえ!」と言うくらいのあり得なさである。
いくらフィクションで鬼殺隊が非合法な武装集団だからとはいえ、大正時代の設定の作品で新人がろくに経験値も剣士としての思想も培われていないのに、こんな反抗的なタメ口をきいていいのか?
しかもこのセリフだって勢いで言っているだけで、炭治郎の中では「善良な鬼=妹の禰逗子」「悪い鬼=それ以外の鬼」という極めて個人的主観に塗れた基準であり、決して公平な正義とはいえまい。
事実、鬼が元人間だったという事実をわかっていながら、炭治郎がその鬼たちに対してきちんと向き合って善し悪しを見極めるという描写はほとんどなく、鬼と見るや否や一方的にぶっ殺していた

しかもその善良な鬼であるはずの妹は遊郭編で散々迷惑をかけているにも関わらず、その辺りのことは綺麗さっぱりスルーされていてあまりにも御都合主義過ぎる。
炭治郎の胡散臭さは何だかかつての連合赤軍やオウム真理教のようなテロリストの言い分にも聞こえてしまい、どうにも見ていてその違和感が最後まで拭えない。
それこそ連赤だってオウムだって、始まりは世に対する絶望と憤りから正義感を拗らせてああなったわけであり、その意味では炭治郎も彼らと大差はないだろう。
作者は何を思ってこんな際どいセリフを主人公に吐かせたのか、こんなセリフを言わせることが読者からどんな反応を食らうか予想はできたはずである。

最後だけ変に神妙

正義とは何か、ヒーローとは何か、悪とは何かという根源的な問いはいつの時代も存在し、しかも変化していく為に絶対の答えが存在しない。
だから何が善で何が悪かなどそう簡単にわかるわけがなく、それこそ「人々を守る」「星を守る」といったありがちな「何かを守る為」では不十分である。
そんな簡単そうで奥深い勧善懲悪の沼に片足を入れて迂闊に突っ込んでしまったのがこの作品のこのシーンだったのではないだろうか。
事実、この後最後までこの作品における「悪とは何か?」「正義とは何か?」といったことにきちんと向き合い納得のいく回答は出ていない。

仮に善良な鬼と悪い鬼がいたとして、その定義と基準は果たしてどこにあるのか?誰が含まれて誰が除外されるのか?そしてその区別を決めるのは果たして誰か?
その前提をきちんと向き合って描き定義しなかった結果、このセリフは「自分にとって大切な妹を守る為、それ以外の鬼は問答無用でぶち殺します」という意味である。
とんだ排他的差別主義者であり、こんな展開にするのであればなぜ鬼を「社会に絶望した元人間」という設定にしてしまったのか、訳がわからない。
それともあれか、社会に絶望して落ちこぼれてしまった落伍者には生きる資格がないから鬼に身を窶して殺されるのを大人しく待てとでもいうのか?

さらにもっといえば、炭治郎が剣士として鬼殺隊に入って戦う原動力となったのは妹の為という私的動機に加えて「家族の仇討ち」という、要は「復讐」である。
こんなことをいうと「いや、そこから「自分たちのような思いをするような人たちを増やしたくない」と成長したじゃないか」という反論が飛んでくるだろう。
しかし、上記で書いたように、ならば炭治郎自身が「鬼は本当に悪なのか?」「自分たちだってもしかすると鬼のようになっていたかも」と葛藤することはほとんどない
ただ鬼は人間社会からの落伍者であり人としての心をなくしているから無辜の者たちに害を成す敵であるという粗雑な大枠に基づく決めつけがあるだけだ。

もしかすると鬼を作ってしまった原因は私たち人間や鬼殺隊の存在にもあるかもしれないと考える者は誰一人いなかったはずだし、仮にいたとしても全く印象に残っていない。
まあもちろんそんな平成ライダーの初期作品が提示しているようなポストモダニズムに基づく拗れた正義の話を見たいわけではないが、最低でもそれくらいやらないとお話にならないのだ。
なんども引き合いに出して申し訳ないが、「ドラゴンボール」が底の浅い作品で「鬼滅の刃」が深い思想を描いた傑作だなんて口が裂けても言わせんぞ。
それで復讐心と妹愛でしかない私的動機を無理やり大義という名の公的動機にすり替えて戦い続けた炭治郎がどうなったかというと、この有様である。

鬼化しかけた挙句無惨様に一度完膚なきまでに叩き潰されてしまっている、私は正直「無残様、よくやった」と思わず敵側を褒め称えてしまった。
それくらいこの漫画は勧善懲悪という設定で見たときにあまりにも突っ込みどころしかなさすぎて、枝葉末節に突っ込むのも馬鹿馬鹿しくなってくるのだ。
しかも「鬼滅」が描いた答えなんてスーパー戦隊シリーズではとっくに「鳥人戦隊ジェットマン」「星獣戦隊ギンガマン」あたりで描き尽くしている。
それもあって、私は今更「鬼滅」を必要としないし、主人公の炭治郎の正義感に多大なる傲慢さや欺瞞といったものを感じてしまう。

こんな中途半端に同情の余地があるかのような設定にするくらいなら、思い切って鬼を純然たる悪党に描き、感情移入のしようがないくらいの存在に描いた方がいい
その方がより鬼を倒した時のカタルシスがあってスカッとするし、むしろそういう敵をこそ私は「鬼滅」に期待したのだがなあ……。
これならまだジャンプ漫画黄金期の終焉として描かれつつ、「非戦」「不殺主義」を最後まで主人公に徹底させた「るろうに剣心」の方がよっぽど味があって深い作品じゃなかろうか。
しかも、明治維新という時代考証などもきちんと勉強した上でジャンプ漫画のドラマに昇華されていたし、昔の方がよっぽどその辺り考えていたと言われても仕方あるまい。

1ついえるのは、炭治郎の表面的な優しさと正義感に誤魔化されてはならないということである。

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